SECOND CASE1 根岸・小夜
根岸・小夜の人生は、あのコンビニの一件で激変を迎えた。
彼女の生まれは他の人間と変わらず、至って普通の一般家庭。父親も母親も共働きで根岸を育て、一人になってしまう時には両親のどちらかの祖父母に預けられていた。
その祖父母にも何か変な真似をされた覚えはない。偶に現れる親戚も彼女には優しく接し、故にか根岸は明るく真っ直ぐな気質のまま高校生になった。
彼女の特徴として最大のものは何かと問われれば、やはりその美貌だろう。
真面目な顔は怜悧な月のようで、笑った顔は朗らかな太陽を想起させられる。肉体的にも恵まれ、特に中学時代では彼女の他に並び立てる美人は存在しなかった。
まるで物語の中から現れたような彼女に中学の男子は夢中になり、告白された回数も既に根岸には解らない。
だが、彼女にとって同年代とは友人以上の価値にならなかった。
楽しく遊ぶ相手にはなっても恋をする相手にはならない。大人らしい落ち着きとは無縁の男子に胸が高鳴ることは無く、それが年上趣味だと言われる原因になった。
高校になっても騒がしい男子は多い。幾らかは成長したことでまったく落ち着きが無いとは言わないが、やはり同年代に異性としての魅力は抱けなかった。
その間も彼女は成長していき、二年生の頭には社会勉強も兼ねてバイトもするようになる。
働いていて感じたのは、大人でも落ち着いた人間は少ないことだ。
コンビニの中の人間だけが社会の人間の全てを表している訳ではないが、中年と呼ばれる人間であっても同年代と変わらない精神性の持ち主がいる。
なんならそれ以下の人間も多く、傍迷惑な客の対応には根岸も辟易していた。
一番厄介だったのはナンパだろう。常連客の中で彼女にメモを渡そうとする者が現れ、それはチャットアプリのIDだった。
相手の男性は彼女の身体を舐めるように見つめ、我慢が出来ずに肉体関係を結ぼうとしたのである。
このIDを受け入れれば金銭目的でホテルに誘われるかもしれない。そう思った彼女は断固とした姿勢で男性を拒絶し、相手はそれに対して店にクレームの電話を入れた。
厄介客なんてレベルではない。最早それは犯罪者も同然。店側としては毅然とした対応をすべきであったが、言うべき社員達は気弱な姿勢ばかりだった。
根岸は愕然とした。相手の方が明らかに悪いのに、何故平和的な解決を望むのか。
物事をなぁなぁで終わらせたい気持ちは解らないでもないが、相手はこの付近に住んでいると思わしき常連客だ。
今後も此処に来るのであれば、今度はセクハラ行為を根岸にするかもしれない。
流石にそこまでいけば根岸としては黙っていられない。此処はバイトをする際に都合の良い場所であったが、辞めるしかなくなるだろう。
だが、そうなる前に事態は急変した。
その日も彼女は普段通りに接客をしていて、対応した客のことなんて直ぐに忘れていた。偶に現れる友達とはにこやかに言葉を交わし、今日は何事も無しに終わるだろうとぼんやりと考えていたのである。
だからこそ、明確な悪意を持った人間が現れても彼女は即座に反応出来なかった。
相手の男は何も商品を手に持たず、顔はマスクで隠している。ではタバコを頼むのかと言えばそんなことはなく、相手は徐にポケットに手を伸ばした。
現れたのは鈍色に光を反射するナイフ。その切っ先が彼女に向けられ、根岸の思考は一瞬の空白を生む。
マスクの所為で相手の顔の全貌は見えない。だが相手の呼吸に乱れも、手の震えも一切無い。
初めての犯行ではないのだ。どれだけの経験を持っているかは解らないが、相手は脅しをしても焦らない程度には犯罪を繰り返している。
その事実を頭で理解した時、根岸の全身に恐怖が巡った。
震え始める四肢を止める術は彼女には存在せず、口は悪手であると解っても自然と開けた。
次の瞬間には叫び声がコンビニを満たし、相手のナイフは根岸を襲うだろう――――けれども、そうなる前に眼前の男は突如として根岸の前から姿を消した。
正確に言えば、犯罪者の男は地面にうつ伏せの状態で別の男性に抑え込まれていた。
それが翔との出会いであり、彼女にとっての恋の始まりであった。
「ふーん、ふふーん」
「……」
放課後の道で隣り合って歩く二人の間に会話は無い。
翔が無言なのは根岸にとって何時ものことであるし、相手が喋りたくないのであれば彼女とて無理して会話を展開しようとは思わない。
根岸を救ってくれた翔は、自身より一つ下の学年の一年生だった。
下級生に話を聞いた限りでは常に一人で居ようとし、グループ学習でもハブられがち。一時は同じ教室のとある女生徒と特別な間柄にあったものの、それは既に過去の話になっていた。
同級生の男子よりも大人しくて、顔も普通。所謂陰キャ学生として皆には周知され、一種の空気としての扱いを受けていた。
話を聞いた根岸は、まさかと思う。
黒い無地のジャケットに紺のジーパン姿、下に無地の白シャツを着ていた私服姿の彼が犯罪者を制圧した瞬間を彼女は知っている。
不敵な笑みすら浮かべて敵を抑え込む様子は手慣れていて、警察との話も実にスムーズだった。
落ち着いた雰囲気には大人の余裕を感じさせて、年下であるにも関わらず翔を大人として見てしまっていた。
だから、そんな彼であれば周りを自然と魅了していると思っていたのである。
きっと教室に行けば彼に惚れている人間が後二人か三人くらいは居て、声を掛けたら割り込んでくるに違いないと。
だが現実は、根岸の想像とはまるで違った。
一年女子達に人気の男子はルックスが良くて運動部に所属している、見るからに遊んでいる雰囲気の者ばかり。他に頼られているのも優しさを振り撒く緩そうな顔の人間で、誰も彼の事を見てはいなかった。
あまりに、あまりに見る目が無い。
結局は見た目が第一なのか。落ち着いた振舞いなんて、今の彼等からすれば退屈に過ぎないのか。
人気が無いのは根岸にとってチャンスではあった。翔は完全なフリーであり、コンビニの一件を理由に接近する理由も出来ている。
最初は食事から始め、ゆっくり言葉を交わして出掛ける機会を増やしていき、機を見て告白に動く。
自分の見目が良いのはこれまでの人生で把握している。友好的に居続ければ、相手の好感度を稼ぐこともきっと難しくない。
そう思うのは彼女の人生の中で自然なことだった。
実際、相手が多少特殊な出自の男性でも彼女には魅了されていただろう。純粋な美しさは理性を貫通して直接本能に訴えかけ、肉体に動けと命じる。
彼女の想定外だったのは、翔が多少どころではない特殊な事情を持っていたことだ。
根岸とは異なる別側面の大人の世界を見て、彼は世の理不尽を中学生の頃から理解させられた。更に彼女が寝取られたのも合わさり、少なくとも翔の中で恋愛はタブーの領域に入っている。
万が一にも恋愛関係に発展することはない。それどころか人付き合いそのものを切り捨て、故に今日この時を迎えても根岸と翔の関係は先輩後輩のソレだった。
根岸は表に出そうとはしていないが、もうじき訪れる卒業を前に焦っている。
彼女の場合は大学進学で、合格自体ははっきり言って固い。問題行動を起こして警察のお世話にならない限りはスムーズに進み、しかし今度は大学生活で忙しくなるだろう。
だからその前に、彼女はこの想いを伝えてしまいたかった。相手が踏み込んでこないことを理解していても、彼女は自分の想いを受け入れてほしいと考えている。
根岸は建物と建物の間に出来た小さい広場に入り、翔も彼女の後に続いて中に入った。
遊具の類は無く、あるのは木製の古いベンチが二つと建物側に張られた緑色のフェンスのみ。
整備はされていないのだろう。自然そのままの地面は剥き出しで、草は僅かしか生えていなかった。
「こっち」
二つのベンチの内の片方に根岸は座り、翔の腕を掴んで隣に座らせる。
最も距離の近い状態に翔は離れようとするも、根岸が強く腕を掴むことでそうさせない。一分程度の攻防は根岸の勝利に終わり、翔は溜息を吐いて彼女の言葉を待つことになった。
「……強引でごめんね。 君と私で二人きりになる機会なんてあんまり無かったし、きっとこれで最後になると思ったから」
「……」
始まりの謝罪に翔は何も返さない。
彼女の言いたいことをただ待つのみ。慌てることなく静かに構え、根岸はそんな彼に内心で感謝して荒れ始めようとする心中を深呼吸で抑え込む。
長ったらしい言葉は今この場にそぐわない。短く、解釈の余地の無い答えを彼に示す。
異性に恋愛的な意味で好意を持ったのはこれが初めてだ。初めてであるが為に、この感情が恋として正常なのかが解らない。
不安で恐ろしく、同時に恥ずかしい。
普段自然に浮かぶ笑みを意識して作らなければ今にも泣き出してしまいそうで、だが退く道だけは彼女は選ばない。
「――貴方が好きです。 一人の男性として貴方を意識しています」
そして、乾く口を無理やりに動かして彼女は恋の告白を彼に与えた。
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