第9話:未来の夢を拒絶した場所
夜明けの光が、もはや冷たい青ではなく、世界を白く塗りつぶす強い輝きへと変わっていく。僕、佐伯悠真は、泥まみれの制服と、濡れて重くなった体を引きずりながら、全力で坂道を駆け上がっていた。
ポケットの中には、猫のピンバッジと、秘密の印が刻まれた十円玉。そして、声の消えた詩織が、僕の横を、まるで熱源を持たない風のように、微かな残像となって飛んでいた。
僕の論理は、完全に「時間」という外部要因との戦いに切り替わっていた。太陽が完全に昇りきれば、彼女の存在は、光に打ち消されてしまうのではないかという、非論理的な恐怖が、僕を突き動かしていた。
「詩織! あと少しだ! Lighthouseに、君の最後のメッセージが待っている!」
僕が叫んでも、詩織から返ってくるのは、無音の、悲しげな微笑みだけだった。彼女は、口を動かし、僕に何かを必死に伝えようとしているが、その音の振動は、もう僕の鼓膜には届かない。
僕は、走るのを止め、詩織の顔を強く見つめた。
「君は、僕に、『未来を諦めるな』と言いたいんだな?」
詩織は、強く頷いた。彼女の瞳には、僕の未来への願いと、自分を失うことへの諦めが、複雑に混ざり合っていた。
息を切らし、僕らはついに、星見ヶ丘展望台の入り口に辿り着いた。
そこは、観光用としてはとうに廃止され、錆びついた鉄骨が剥き出しになった、古い観測施設だった。地元の人間は、これを「灯台」と呼ぶ。周囲は雑草に覆われ、まるで過去の記憶を閉じ込めた檻のようだ。
僕は、フェンスの隙間から侵入し、螺旋階段を駆け上がった。錆びた鉄の階段は、僕の足音を不気味に反響させた。
最上階の観測室に到達すると、強い朝の光が窓から差し込み、埃を舞い上がらせていた。中央には、天体観測に使われていたであろう、古びた大型の望遠鏡が、台座に固定されていた。
「ここだ……」
僕は、望遠鏡に近づいた。詩織が、幼い僕の未来の夢を、ここで初めて否定された場所。
僕が望遠鏡の台座を調べようとした、その時だった。
詩織の体が、太陽の光を浴びたことで、急速に透明度を限界まで高めた。彼女の輪郭は、揺らめく空気の層のようになり、僕の視界から消えかける。
僕は、咄嗟に、彼女の半透明の肩を掴もうと、手を伸ばした。
「詩織! 待て!」
僕の指先は、彼女の体を完全に通り抜けた。
まるで、冷たい空気の塊を掴んだかのように、何も抵抗がない。これまでは、少なくとも「すり抜ける」という物理的な感覚があったが、今は、そこに誰もいないのと同じ、虚無の感覚だった。
詩織は、僕の手が自分を通り抜けたのを見て、絶望に満ちた表情で目を見開いた。彼女の唇は、懸命に「さよなら」という言葉を紡ごうとしていた。
僕の心臓が、鼓動を停止した。彼女は、もはや僕の観測者としては存在できなくなった。僕の視覚は、彼女の輪郭をかろうじて捉えているが、僕の触覚は、彼女の存在を完全に否定した。
「……ああ、やめろ……」
僕は、感情を抑えられず、その場で膝をついた。触れられない。もう二度と、彼女の肩に触れることも、手を握ることもできない。この世で最も愛する人が、目の前で、物理法則の向こう側へ行ってしまった。
触覚を失った僕の絶望は、僕の心を過去のトラウマへと突き落とした。
◇◆◇◆◇◆
—八年前の夜。
僕らは、まさにこの展望台で、夏の大三角形を見上げていた。
(詩織):ねぇ、悠真。私ね、将来、この街で悲しいをゼロにする図書館を作るんだ! みんなの悩みを集めて、それを解決する本を貸し出すの!
(僕):(当時の僕)詩織、それは極めて非効率的な夢だ。悲しみをゼロにすることに、経済的な収益はない。図書館は情報の「効率的な提供」こそが使命だ。君の夢は、僕の完璧な都市計画には、全く不要な無駄な感情だ。
(詩織):……そっか。悠真は、私の夢を無駄って言うんだね。
僕の冷酷な「論理」は、彼女の純粋な「愛」を、ナイフのように切り裂いた。彼女の瞳から、光が消えるのを見た。僕は、その時、彼女の愛着を、最も非論理的な方法で拒絶したのだ。
フラッシュバックが終わった後、僕の頬には、涙が流れていた。
(僕):僕が…僕の論理が、君の未来を、君の夢を、この場所で殺したんだ…。
僕は、自己嫌悪に苛まれながらも、残された時間がないことを知っていた。
僕は、立ち上がり、望遠鏡の本体を調べた。
詩織は、僕が望遠鏡に意識を集中している間、僕の隣に立ち、その透明な手で、僕の制服の袖に触れようと無音で試みていた。もちろん、触れることはできない。
僕は、望遠鏡の接眼レンズに違和感を覚えた。光を覗き込む部分に、古い埃が堆積している。
僕は、ハンカチでレンズを慎重に拭った。
レンズの表面ではなく、その内側のガラスに、極めて微細な文字が、ダイヤモンドのようなもので刻まれているのを発見した。
それは、ピンバッジやコインと同じ、詩織の最後のメッセージの一部だ。
「I love you, but」
(「私を愛している、でも」)
僕は、息を飲んだ。これは、「私を…愛し…」という、噴水で途切れた言葉の続きだ。
「I love you, but…(愛している、でも…)」
愛しているのに、何が続くというのだ?その「でも」の先にこそ、僕の過去の後悔を清算し、彼女を成仏させ、僕を未来へ導く、最後の真実があるはずだ。
望遠鏡の接眼レンズは、この文字を刻み込むために、完全に機能を失っていた。詩織は、自分の告白の言葉を刻むために、僕らの夢を語り合ったこの場所の観測機能を、自己破壊的な方法で犠牲にしたのだ。
僕は、刻まれた文字のすぐ横に、さらに別の、より微細な傷を発見した。
それは、一つの住所だった。
「3-10-A. Old Library」
「図書館…!」
L.L.は、Lighthouse(灯台)であると同時に、詩織が夢見ていた場所、Love's Library(愛の図書館)へと繋がっていた。
彼女が最初に隠し場所とした、あの夜の図書館。しかし、今回は「旧館」ではなく、3-10-Aという特定の場所が指定されている。
詩織は、僕の目の前で、観測室の窓の外、街の中心にある図書館の方向を指さした。彼女の姿は、陽炎のように揺らいでいる。
僕は、最後の望みを胸に、ピンバッジとコイン、そして「I love you, but」という残酷な言葉を携えて、展望台を後にした。
「待っていろ、詩織。僕は、必ずその言葉の続きを聞く。そして、今度こそ、論理ではなく、感情で、君の愛に応える!」
僕の叫びは、廃墟の灯台に虚しく響いた。僕の論理は、今、愛に導かれ、最後の答え合わせへと急いでいた。
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