第19話 うちら、親友

 その日は結局、勉強はほとんど進まなかった。

 ノートは机の上に出した。

 ペンも開いた。英語のワークも表紙はめくられた。


 でもページは全然進まないし、進まないのを誤魔化すために、単語じゃなくて余白にぐにゃぐにゃした線だけが増えていく。


 さっちょんも同じで、教科書の上に頬をのっけて、完全に猫になっていた。


「やる気ない?」


「ない」


「正直でよろしい」


「きいちゃんが隣にいるときにやる気出されたら逆にキモくない?」


「なんで?」


「ねー勉強が大事だからちょっと静かにしてくれる? って言われたら泣く」


「いや泣くなよそこは」


「泣きます」


「泣くんだ……」


「やだもん。きいちゃんほったらかしで勉強とか、意味わかんなくない?」


 意味わかんないって言い切ったぞこいつ、と私は思った。

 その意味わかんないの使いどころは、世間的にはズレてる。普通の親友の感覚からも、ほんのすこしはみ出してる。


 でも、私にはグサっと刺さった。

 ほったらかしは嫌……。


 それを口にされると、それはもうなんか「ただの仲良し」ってラベルじゃない。ずっと横に置いておきたい、って意味になる。

 私も同じだから、余計に困る。本当のことはいつも困る。


 少しだけ沈黙してから、さっちょんが顎を手の甲に乗せたまま、横目で私を見た。


「さっきのさ」


「ん?」


「そういうの入る余地ないから、ってやつ」


 心臓が少し跳ねる。そこつつきます? いや、今更だけど。


「……うん」


「あれ、ちゃんと覚えておくから」


「いや、覚えなくていい」


「覚える。覚えたい」


「覚えなくていいって言ってるじゃん」


「ホントに嬉しかったんだもん」


 こういうときのさっちょんって、会話のキャッチボールじゃなくて、ボール持ったまま走るタイプになる。ずるい。すぐタッチダウン決めようとする。


 そして、今の覚えておくっていうのは、私の中だけのルール帳に書いとくってことなんだろう。

 そのルール帳、私も触りたいって思っちゃった時点で、私はだいぶ末期だなと自覚する。


 だってそれ、ほぼ二人専用の関係契約書じゃん。


「きいちゃん」


「ん」


「今日さ、帰ったら通話できる?」


 さらっと言った。

 それはもう完全に日課みたいな言い方で、ドキってしてしまう私のほうが遅れてるだけなんだと思わされた。


「……できるけど。え、今日も?」


「今日も、でしょ?」


「でしょ? て……」


「でしょ?」


 でしょ? と言われたら、もはや「はい」としか返せないのが悔しい。

 いや、悔しいけど普通に嬉しいから、もっと悔しい。


「あのさ」


「うん」


「ねえ、これってさ」


「うん」


「普通に親友ってやつなんだよね、まだ」


 その言葉を自分の口から出した瞬間、私は自分の心臓にスコップで穴掘った? ってくらい胸の中がざわついた。

 まだって言った。私、自分でまだって言った。


 まだってことは、そのうちもうそうじゃないって状態があるって、前提で喋ってるってことじゃん。

 なんで今それ口にした? 正気?


 さっちょんは、すぐには答えなかった。

 答えないまま、すごくゆっくり私のほうに上半身を寄せた。私の肩に、額がこつんと軽くあたる距離。

 それだけで、身体の奥にひゅっと電気みたいなものが走る。


「そうだよ?」


 やっと出た声は、肩に直接落ちてきた。


「親友だよ。うちら、親友」


「……そうだよね」


「うん。親友だから、ほったらかされたくないし、親友だから、ちゃんと優先してほしいし、親友だから、他の子に同じことされるのはマジでムカつくし」


 マジで、って簡単に足された一言で、胸の奥がぎゅっと鳴った。


「それ、親友のルールだもん」


「……」


「うちらの親友のルール」


 その言い方は、ほんとうにずるいと思った。

 うちらの親友っていう日本語、冷静に考えると結構バグってる。「うちらの親友」ってなにそれ。他に誰が使うの。


 親友って本来は人に付く肩書きのはずなのに、今私たちの間では関係性の名前になってる。

 「友達」でもなくて、「親友」でもなくて「うちらの親友」。


 市販じゃない。既製品じゃない。うちら専用のラベルだ。

 ……親友って便利な言葉だ。


 ほんとはほぼ恋人のことを指してても、「親友です」で押し通せる。学校にも家庭にも、なんなら自分の心にもそう説明できる。


 そういう逃げ場所として使える。

 それを私たちは、今まだ離そうとしてない。

 怖いから。


 名前を変えちゃったら、もう戻れないこと、ちゃんとわかってるから。

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