第11話 見えない角度で
五時間目と六時間目は、授業というより拷問だった。
先生の声はちゃんと耳に入ってくる。
ノートも、それっぽくは取ってる。
黒板に書いてある式も、目では追ってる。
一応頷いたりして、はい聞いてますって顔はしている。
でも、正直ぜんぜん内容は入ってきていない。
黒板の y=ax²+bx+c の a とか b とかより、私の頭の中ではずっと一個の文が点滅してた。
――放課後に言う。
消えて、また点いて、消えて、また点く。
信号機みたいに。赤信号。ずっと赤。渡れない。
何回もまばたきしてるうちに、最後のチャイムが鳴った。
その音と同時に、クラスが一瞬はねる。解放の空気。
イスを引く音と、部活のバッグのファスナーの音と、またねーの声が同時に立ち上がる。
「きいちゃん」
はい、来た。
私が消しゴムをペンケースに戻すより早く、さっちょんが机の横に来て、上履きのつま先でコン、と私のイスを軽く叩いた。
早い。迷いがゼロ。
ほとんど行くよね? じゃなく、行くからねのテンションだ。
「帰ろ」
「……帰るだけだよね?」
「うん。帰るだけ。海経由で」
「帰るだけじゃないじゃんそれ」
「海は通学路だからノーカン」
「海は通学路ではありません」
「通学路にしました。今日から」
勝手に条例作らないでほしい。
いや、でも、たぶん私は従うんだろうなって、もう自分でも分かってるのが悔しい。分かってるから、嫌だとは言えない。嘘になるから。
教室を出るとき、何人かの子がばいばーい、と手を振ってくる。
そのうちの一人が、昼にさっちょんをカラオケに誘ってたグループの子で、明るい声で、さつきー日曜マジ来なよーともう一発撃ってきた。
さっちょんは笑った。
「日曜は予定あるのー。ごめーん」
言いながら、私の手首のあたりを軽く指でなぞる。目立たない角度、廊下の外からは見えない角度で。
その一瞬だけの触れ方のほうが、言葉よりずっと直接的だった。予定あるの、って言葉より、ここにいるのが予定だからね? っていう風に感じる。
私の心臓は、それだけでちゃんと跳ねた。体は正直すぎる。
昇降口で上履きをローファーに替える。
ガチャガチャ音が反響して、夕方の冷たい空気が足元から上がってくる。
外に出た瞬間、秋の匂いがした。十月の後半の、乾いた葉っぱと潮が混ざった匂い。夏の夕方とは違うやつ。
少しだけ金属っぽい。風は冷たくなり始めてるのに、街はまだ夕焼けではなくて、色の抜けた薄い光で満たされてる。
「行こ」
さっちょんは、当然みたいに私の袖をつまむ。これはもう儀式だと思う。ここまで来ると、呼吸と同じ扱いだ。
そのまま二人で坂を下る。いつもの、学校から港へ向かう細い坂道。
車が通るとちょっと怖いから、歩くときは自然と互いに体を寄せる。
肩と肩が当たる。かすかに、制服の生地がこすれて音がする。
街灯がもう点き始めていて、白いオレンジ色みたいな光がアスファルトの端に落ちている。
海はまだ見えないけど、匂いはもうそこにある。波の匂い。冷えた空気の奥から、少しだけしょっぱい匂いが鼻に届くたびに、あ、いつもの場所に近づいてるって身体のほうが勝手に緩む。
今日の私は、その緩む感覚が少し怖い。
だって、緩んでるってことは、身構えないってことで、身構えないってことは、もうここを安全な場所って認識してるってことで、それってつまり、昨日までと同じ夢を今日も見る準備を、私がもう勝手にしてるってことだから。
堤防のコンクリートは、昼間の温もりがちょっとだけ残ってた。
腰を下ろすと、スカート越しにその温もりがじんわり伝わってくる。
冷たい空気と、じわっと残ってるあったかさ。その温度差が、すごいリアルだ。
学校の椅子とちがって、こっちは今日の温度をちゃんと持ってる。
さっちょんは、何も言わずに私の隣に座った。少しも迷わない。
距離も測らない。
測る必要がないみたいに、肩と肩が自然に触れる位置に落ち着く。
そこまでが、もう説明不要になってしまっているのに、自分でびっくりする。
昨日の夕方、同じ場所で、私は近いよね? って言えなかった。
今の私は、もうそれをいつも通りとして扱ってる。ほとんど無意識に。
こういうのを、人は「なし崩し」というやつで呼ぶのでは? とか考える。
波の音がする。今日の海はちょっと荒い。ザアッっていう音に、時々コンクリートを撫でるみたいな低いゴゴッっていう音が混じる。
潮の匂いは冷たい。けど、隣から来る体温はあたたかい。
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