第8話 予約席
「きいちゃん」
さっちょんが、今度は私の机に軽く手を置いて、いつもの声に戻る。
「今日さ、お昼一緒、帰りも一緒、で、そのまま海ね。もう全部、押さえといたから」
「予約って言い方やめて。人を席みたいに言うな」
「大事なもんは先に押さえとかなきゃでしょ? 取られたくないし」
それを、普通の音量で言うな。
教室のざわざわの中で、私の心臓だけがやけに大きい音を立てる。
昨日の夜に聞いた言葉が、何食わぬ顔で朝の教室に持ち込まれて、平然と机の上に置かれてる。
この感じ。もう二人だけの秘密じゃないのに、でもちゃんと二人だけの話として扱ってくれてる、この感じ。
私は、喉につかえてた空気を押し出すみたいにして、なんとか答えた。
「……べつに。いいけど」
「うん。いい子」
髪をさわるんじゃなくて、今度は頭をぽんって軽く叩かれる。
誰にも見えない角度で。ほんの一瞬だけ。
でも、ちゃんと私のものって印だけ残していくみたいな触り方で。
チャイムが鳴った。ホームルームが始まる。
クラスの空気が、いつもの朝の空気に戻っていく。
でも、私の朝はもう昨日までの朝じゃなかった。
親友なんでって言えば、外向きにはぜんぶ普通にできる。
なのに私の中では、もうそれを普通って名前で呼ぶのがちょっと苦しい。
たぶんそれが、今日から始まったこと。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室はすぐに別の生きものになる。
椅子がいっせいにひきずられて、金属の足と床がこすれる音が一斉に立ち上がる。
机の上では弁当箱のフタが次々に外されて、ビニール袋のシャカッという音と一緒に、ソースと海苔とマヨネーズの匂いが一気に空気に混ざる。
普段の私なら、その騒ぎの中に残って、同じ班の子に「机くっつける?」って聞かれて、気がついたら四人ぐらいで唐揚げを交換したり、購買のパンを半分ずつにしたりして終わる。どこにでもある昼休み。
そういうのに自分が混ざってるのは、たぶん悪くはなかった。
今日は、それをさせてもらえない。
「きいちゃん、行こ」
さっちょんが、もう私の机の横に立っていた。声は小さいのに、逃げ道は完全にふさがれている感じ。
必要なものだけが手元にあって、いらないものは置いてきました、っていう動きの速さ。
机の上には小さいタッパー。
フタがクリーム色で、安いけど可愛い感じのやつ。
それからコンビニのおにぎりが二個。片方はツナマヨのシール。私がよく買う味。もうひとつ、フォークまで用意してある。準備の良さがちょっと怖い。
「早くて引くんだけど」
「予約時間おしてるんで」
さっちょんはそう言って、当然みたいな顔で私の袖をつまんだ。
制服のカフスを親指と人さし指で軽く挟まれて、そのまま引っぱられる。
この動き、私の身体の方が覚えはじめている。
反射でついていく。
抵抗を入れる隙間をくれないで、でも乱暴じゃない。犬の散歩紐というより、手首にリボンをかけて引いていくみたいに。
ああもう、はいはい、と観念するころには私は立ち上がっていた。
机の向こうから誰かが「デート~?」と半分冗談みたいな声を飛ばした。
いつもなら私が即座に「親友な」って返して、教室の空気をはいはいそういうやつねって戻す。
それが私の役割みたいになっていた。
今日は、喉が一瞬詰まって、その言葉がすぐには出なかった。
さっちょんが、代わりに軽く手を振って笑う。「いってきまーす、親友とランチでーす」って、何でもない感じで。
周りもそれで流れる。これで、この場は一旦丸くおさまる。
でも、それってほんとに丸く収まるって言っていいのかなと、今の私は思っていた。
廊下は、教室と違う匂いがする。
あったかいごはんと、床用洗剤と、外の風。
三階の窓からは海の光が斜めに入って、床の上だけが白く抜けている。
教室のざわめきがまだ背中にくっついてきてるのを感じながら、私たちは階段を一段だけ降りた。
理科室のある棟は、昼休みにはほとんど人が来ない。
みんな自分のクラスの近辺にとどまるから、わざわざこっちまで歩いてくる子は少ない。静かで、少しだけ薬品の残り香がする。
その廊下の一番奥、理科準備室の前の踊り場みたいなスペースに、古い長机がぽつんと置いてある。
白い天板は所々傷が入っていて、透明のテープあとが何カ所も残ってる。
壁側の大きい引き戸には「関係者以外立入禁止」のプレート。
窓からの光で机の角だけ明るくなってて、教室の喧噪から少し外れた、小さな島みたいな場所。
さっちょんは、もうそこが自分たちの席ですという前提で動いていた。
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