最終話 沈黙の旋律
風が止んだ。
校舎の屋根を打ち続けていた雨が、不意に途絶えた。
空気は重く、耳鳴りのような静けさが漂う。
時間そのものが、息を潜めているようだった。
――結城璃音の消息が途絶えて、一週間。
誰もが彼女のことを「転校した」と信じようとした。
だが、誰ひとり転校先を知らない。
生徒名簿からも、担任の記録からも、その名前が消えていた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
⸻
夜。
旧校舎に一人の教師が足を踏み入れた。
黒田真一――事件当時、担任を務めていた男だ。
退職を前に、最後にもう一度だけ確かめておきたかった。
あの日、自分が何を見落としたのかを。
懐中電灯の光が、朽ちた廊下を照らす。
足元のガラス片がきしみ、壁に残る落書きが浮かび上がる。
『音を返せ』
黒田は唇を噛んだ。
あの文字を書いたのは、確かに蓮だった。
壊されたオルゴールのことを訴えたが、
誰も真剣に取り合わなかった。
そして、彼は――消えた。
「……蓮」
教師の声が、冷えた空気に溶ける。
廊下の奥から、微かな音が返ってきた。
――カチ、カチ、カチ。
黒田の足が止まる。
息をのむ音さえも、吸い込まれていくようだった。
⸻
教室の扉が開いた。
そこは、時間が止まったように静まり返っていた。
黒板の文字はかすれて、チョークの粉が宙を舞う。
机の上には、ひとつの木箱――オルゴール。
埃をかぶり、割れた蓋の隙間から、金属の歯車がのぞいている。
黒田は震える手でそれを持ち上げた。
冷たい。まるで、血の気を失った皮膚のようだ。
「返してほしいのか……?」
問いかけた瞬間、オルゴールがひとりでに回り始めた。
カチ、カチ、カチ。
旋律が流れる。
しかし、その音は音楽ではなかった。
無数の囁きが、重なり合い、ねじれ、
“言葉”になろうとしている。
――センセイ。
――ミテ。
――キイテ。
黒田は後ずさった。
オルゴールの歯車がひとつ、床に落ちる。
すると、床に映る影が動いた。
影は人の形を取り、黒い水のように広がっていく。
教室の壁に無数の文字が浮かび上がる。
『返して』『返して』『返して』
黒田は叫んだ。
「わかった! 全部……俺が悪かった!」
だが、音は止まらなかった。
旋律が逆再生のように歪み、
オルゴールから黒い煙が立ち上る。
その中に――子どもの姿。
白い制服、血のように赤いリボン。
璃音。
いや、結城蓮。
「先生……」
声はやさしかった。
だが、その目には光がなかった。
「どうして、助けてくれなかったの?」
黒田の視界が揺らぐ。
教室の時計の針が逆に回り始めた。
秒針の音が、オルゴールの旋律に溶けていく。
――カチ、カチ、カチ。
「……ごめん……蓮……」
黒田の手からオルゴールが落ちた。
床にぶつかる音は、まるでガラスのように砕け、
教室全体に波紋のような振動を走らせた。
⸻
翌朝。
旧校舎は立入禁止のテープで囲まれていた。
夜中に警報が鳴り、教師が一人、姿を消したという。
ただ、現場に残されていたのは、粉々になったオルゴール。
そして、黒板に書かれた一行。
『ありがとう もう眠るね』
⸻
しかし、夜になると――。
廃墟の校舎から、かすかに音がする。
カチ、カチ、カチ。
それは、壊れたオルゴールのはずなのに、
まるで“誰かが奏でている”ように、静かに鳴り続ける。
その音を聞いた者は皆、同じ夢を見るという。
黒い教室。
揺れるカーテン。
そして、笑う少年。
「もう、誰も壊さないよね?」
⸻
音が止むと、夢も途切れる。
朝になると、誰もその夢を思い出せない。
けれど、耳の奥には、微かな残響が残る。
――カチ、カチ、カチ。
それが、沈黙の旋律。
終わらない記憶の歌。
⸻
(終)
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