ご来店、恋の邪魔者

 土曜日。


 中華料理屋は男達でごった返していた。


 新田が街角豆腐連合の構成員と支援者に、「おもしろい催しがある」といって片っ端から声を掛けたのだ。


 その場の全員が道ならぬ恋に身をやつし、ひどく消耗した過去を持つ。「もう恋なぞせんっ!」と誰かが叫べば、それに呼応して、「そうだ!」「よく言った!」の大合唱。幾人かの左手薬指に指輪の跡があるのを見なかったことにするのは、大人の嗜みである。


 厨房から作務衣姿の甘木が出てきた。店内が水を打ったように静まり返る。その手には激辛マー坊の入った大皿があった。


「恋する逆徒を下す前に、デモンストレーションをば」


 という新田の意向によって、甘木は試食用の激辛マー坊を作ったのだ。


 人垣の中からおもむろに巨漢――色黒金髪のツーブロック――が躍り出た。男は懐から金のレンゲを取り出し、これみよがしに天に掲げる。


 瞬間どよめきが起こった。


「あれは!」


「勤続十年記念で贈られる金のレンゲ!」


「よもや、この目で拝めようとは……」


 関係各位に衝撃を与えた聖遺物の所有者は誇らしげに頷く。


「マー坊神に――」


 神妙に目を細めると、激辛マー坊をレンゲで掬い、口に放り込む。皆が固唾を飲んで見守る中、彼は瞳を閉じて、味わう様に咀嚼してみせた。


 その衝撃たるや、筆舌に尽くしがたい。


 小樽の若いキューピットを恐怖に慄かせて二十余年。街角豆腐連合は逃走こそすれ、敗北は一度たりともない。よもや身内から激辛マー坊の攻略者が出るというのか。


 にわかに沸き立つ店内。歴史の証人になれるのではないか、という期待感が膨れ上がる。


 しかし金レンゲ氏は口の中の物を飲み込めずにいた。咀嚼の度に迫りくる艱難辛苦。舌下を駆ける口内爆撃は常在菌を苛め抜く。涼しい顔をしてはいるが、脂汗が浮き、それが全身に広がっていた。「自分はマー坊を食べているのか、それともマー坊に溺れているのか」そのようなテーゼを抱きながら、金レンゲ氏はついに眩暈を起こし、バタンと後ろに倒れた。


 静寂。


 後、熱狂。


 まるで日本代表がワールドカップで優勝したかのように。甘木は男たちの手荒い称賛を受けた。恐怖に身体を硬直させているうちに、あれよあれよと少年は宙を舞っていた。


「君の望みは達せられるだろう」


 熱狂と喧騒の最中、金レンゲ氏を引きずり厨房に向かう新田の言葉が、いやに耳に残った。



***



 甘木は怨敵・天道大志と前日の昼休みに、約束を取り付けていた。


 彼は一通り甘木の話に耳を貸すと、


「労働法に反するのでは」


 と表情変えずのモラハラ発言。


 予想外の言葉にたじろぐ甘木。しかし街角豆腐連合の活動が、少年の面の皮を厚くしていた。彼は言葉巧みに適当な理由をでっちあげた。


 甘木が繰り出す銀河的大法螺は天道の頭上に特大の疑問符を打った。しばし彼は同級生の言葉を理解しようと努めたが、やがて億劫になったのか「昼過ぎに行く」と言い残し去っていった。


 計画は上手く運んでいた。


 あとは天道が激辛マー坊を食し、セラさんの前で惨めな姿を晒せばいい。そうしたなら、セラさんも天道に愛想を尽かし、きっと自分に微笑みかけてくれるはずだ。ともすればセラさんとの“髭男”的恋模様は永遠とならん。


 しかし問題が一つ残っていた。


 甘木はセラさんを誘っていなかったのだ。天道に彼女と一緒に来るように言い含めるつもりだったが、それも上手くいかなかった。彼はどうにも「セラさん」と言葉にしようとすると、緊張で言葉が出なくなってしまうところがある。


 奥ゆかしいことこの上ない。


 甘木少年はヘタレであった。



***



 中華屋の掛け時計が十二時を指す。と同時に扉がガチャリ開き、視線が一斉にそちらを向いた。熱狂を削ぐような平凡な風を従えて、学生服の少年――天道大志が立っていた。


 彼は中華屋にそびえる人垣に怪訝な顔をしたが、その中心に甘木を見つけると表情を和らげた。


 天道が一歩踏み出したその時、華奢な少女が躍り出た。


「あっ、甘木君!」


 刹那、聖なる光が薄汚れた店内を駆け巡った。穢れた悪辣なるものたちが、浄化の光に当てられて膝を着く。圧倒的造形美に敬服するもの、放心状態にあるもの、マー坊神を袖に十字を切る者すら現れた。


 彼女こそ、甘木の思い人のセラさんである。


 この時、甘木はセラさんに初めて名前を呼ばれた。


「まさか僕のことを認知しているだなんて!」


 少年は天にも昇る喜びにかまけ、「なぜ彼女がここに?」という初歩的疑問を見逃した。


 彼の恋漬けされた脳みそは、驚異的なスピードで桃色成分を分泌し、存在しない記憶で溢れかえった。初デートで行った思い出の水族館、オルゴール堂で手作りのオルゴールを贈りあい、展望台で見たあの夜景は今でも心の中にある。


 幸福な虚構は甘木の素朴な顔立ちを下品に緩めた。


 セラさんが不思議そうに小首を傾げた。


「どうしたんだろ?」


「さあ」と天道は首を捻る。


 瞬間、甘木の脳内に広がる、甘露なる結婚生活にひびが入った。セラさんと二人の子供が、愛犬のシェパード――ジョン・ダニエル――を連れて、足早に去っていくではないか。「おーい、どこに行くんだい? 戻っといでー!」しかし呼びかけも虚しく、彼らの距離は広がるばかり。セラさんは急に駆け出したかと思うと、自分ではない男の腕に抱き着き、これまで自分に見せたことのない笑みを浮かべた。


 小樽南西部より飛来した失望は、赤レンガ倉庫を経由して絶望となり、街角豆腐連合のアホどもを尻目に、甘木少年に被害者意識を植え付けた。


 エキセントリックな卑屈性は、少年の白い腹から黒煙を立ち上らせた。天井に漂う不気味な色をした雲の上から、ひょいと顔を覗かせたマー坊神が声高に叫ぶ。


「桃色の民に鉄槌を! 木綿の誓いをいまここに!」


――天命得足り!


 甘木は「正義は我にあらん!」と間男に向き直る。困惑する天道。それを差し置いて、正気を取り戻した大人たちは、当然の如く、少年をけしかける。それを楽しそうに見守るセラさんは、アイフォンで動画を取り始めていた。


 かくして、天下分け目の小樽マー坊大戦は静かに火蓋が切られた。

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