第4話
ーー東京、とある公園の片隅
バイク便の仕事は、体よりも精神を消耗させる。特に今日の俺はそうだった。
昨夜、あのコンビニから逃げ出して以来、ヘルメットのシールドの奥には、美少女が裸足でアスファルトに立つ残像が焼き付いていた。
「逃がさんけんね!」
耳に残った、あの熱を帯びた博多弁の残響が、アクセルを捻るたびに俺の焦燥感を煽った。
(ふざけた女だ。俺の人生に、あんな光はいらない。 正直眩し過ぎる)
俺はタバコの箱をポケットの中で握りしめた。昨日潰した箱は捨て、新しいセブンスターを取り出しているが、気分は晴れない。
昨夜依頼された薬の配達は済ませた。午前中に依頼された仕事も完了済だ。
オフィス街の雑踏から少し離れた場所にある、俺にとって唯一の安息地へとバイクを滑り込ませる。
そこは、俺の会社のオフィスと次の配達先の中間にある、小さな公園の片隅だった。
昼時にも関わらず、利用者は少なく、古びたベンチと、人の背丈ほどの生垣に囲まれた小さな喫煙スペースがある。誰も、彼の顔の怖さに怯えることなく、無関心でいられる場所。 それに、此処には可愛く人懐っこい野良猫が住んでいるからな。
俺はバイクを停め、ヘルメットを脱いだ。太陽の光が俺の目つきの悪さを容赦なく照らし出す。俺は周囲に人がいないことを確認し、深く息を吐いた。
「疲れる……」
するとさっき言っていた猫が俺に寄ってきた。 俺は猫を一撫で。 俺に擦り寄る猫に癒される。 ポケットからセブンスターを取り出し、ライターを構えた――その瞬間。
「やっと見つけた。ここが、あんたの安息の地たいね」
背筋が凍った。
声の主は、生垣の向こう側、ベンチの影に座っていた。俺が気配に気づかないほど、完全に景色に溶け込んでいた。 びっくりした猫は何処かに行ってしまった。
俺はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、昨日コンビニで告白してきた、桐谷樹その人だった。
昨夜の制服姿とは違い、今日は清楚な白いブラウスに、膝丈のスカートという出立ちだ。完璧に整えられた長い髪と、非の打ち所のない美貌。まるで、この場違いな公園の空気を浄化してしまうような、圧倒的な存在感だった。
彼女の足元には、ブランド物のトートバッグと、大学の専門書らしき分厚い本が置かれている。彼女がただの感情的な女子大生ではなく、知性も備えていることを示していた。
「……何故、ここにいる」
俺はライターの着火を中断し、低く、威圧的な声で尋ねた。
樹は立ち上がり、ニコリと微笑んだ。その顔には、昨夜の焦燥感は微塵もない。勝利を確信したような、余裕すら感じられた。
「ウチは法学部生たい。法律と論理は得意なんよ。」
彼女は口火を切った。明らかに、俺の問いに対して、標準語で答えようとしている。
「バイクのナンバーと、配達エリアの傾向を分析すれば、拠点と休憩場所は特定でき――ていうか!」
彼女は言葉に詰まった。論理的であろうと努めた標準語が、突然途切れる。一瞬、悔しそうに口を引き結んだ後、樹の顔が一気に熱を帯びた。
「逃げたらいかんって、言いよるやろうが!」
声が、一瞬で博多弁に切り替わった。
「ウチ、あんたがセブンスターば吸う、この時間も、この場所も、昨日の夜からずっと計算しとったっちゃん!」
彼女の情熱的な方言は、静かな公園の空気を震わせた。彼女の目は、俺の顔の傷や、俺の険しい目つきなど、何も見ていない。ただ、俺の魂の奥底だけを見つめている。
俺は、全身から力が抜けるのを感じた。
「お前……ストーカーか? 怖いぞ?」
「ストーカーやなか! これは愛と執念たい!」
樹は、ベンチの横に置いてあった、自分の鞄から、小さな包みを取り出した。
「あんた、昨日は最後のタバコの箱ば潰しとったやろう。新しい箱は持っとるか? これは、ウチからの貢ぎ物たい。」
彼女は、俺にその包みを差し出してきた。
それは、新品のセブンスターの箱と、100円ライターだった。
「ウチは、あんたの日常ば邪魔せんよ。ただ、あんたの孤独に寄り添いたかだけたい。」
「ふざけるな」
俺は、怒りを込めて吐き捨てた。俺の静寂と孤独を打ち破ったこの女の存在が、恐ろしかった。
「俺に構うな。あんたとは住む世界が違う」
「住む世界が違っても、空は一緒たい!」
樹は、俺の言葉を遮った。彼女の目には涙が滲んでいた。
「ウチは、あんたのその怖か顔の向こうにある、優しか心ば見つけたと。ウチは、それを守りたいだけなんよ!」
彼女は、まっすぐに俺を見つめたまま、一歩、また一歩と、俺に近づいてきた。
その一歩は、俺にとって、彼の人生に踏み込んでくる、決定的な一歩に感じられた。
俺は、咄嗟に後ずさりした。してしまった。俺の逃げ場であるはずの場所で、逃げ道を塞がれたのだ。
「逃げても無駄たい。ウチは、あんたの全てば把握しとる。ウチの逃走ルートの計算は、弁護士の仕事よりも優秀なんよ。誠志郎さん。」
彼女の熱意と論理が混ざり合った言葉に、俺はとうとう沈黙した。セブンスターの箱を持ったまま、立ち尽くすしかなかった。
(やめろ。俺の心を、こじ開けるな……)
俺の視線は、樹が差し出すタバコの箱から、彼女の真剣な瞳へと移っていた。俺の孤独は、確実に、この美少女の情熱によって脅かされ始めていた。
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