第2話
誠志郎は、桐谷樹と名乗った女の事を無視して、コンビニのレジから離れた。
一歩、また一歩と、速やかに店外へ。
店員という立場を完全に無視して、カウンター越しに熱い視線を投げつける樹を、見てはいけない。あれは、俺の世界に属する人間じゃない。
彼は店の外、バイクを停めた場所まで歩き、シートに跨った。エンジンを掛ける。低く、野太い排気音が夜の空気を震わせた。
この騒音は、都合が良かった。俺と、樹という光の存在との間に、明確な境界線を作ってくれる。
誠志郎は、いつものようにヘルメットを被る前に、スマホを取り出して次の依頼の確認をする。
次は ◯◯製薬から薬を受け取って☓☓病院 へ届けなければならない。「しかもなる早で」と無愛想な文字が並んでいる。
「本当に人使いの荒い会社だ」
彼は独りごちた。こんなんだから、ただでさえ顔の怖い俺のような人間しか残らない。従業員が減る一方なんだよ。全く、残っている人間の事も考えて欲しいもんだ。
……次の依頼で今日は終わりって書いてあったけど、本当に終わりなんだろうな?
画面を見つめる目つきが険しくなる。
疑わしいもんだ。急遽もう1件入りましたなんて、平気で言いかねないのがこの稼業だ。疲労と、タバコへの欲求が、誠志郎の眉間に深い皺を刻んだ。
彼は口に咥えていたセブンスターにライターで火を着けた。カチリ、カチリ、という着火音が、エンジンの音に混じる。
ズゥゥ……
肺いっぱいに紫煙を吸い込んだ。
「……やっぱり美味いな。気分が落ち着く」
この毒だけが、彼の日常のプレッシャーと、この夜に突然現れた「光」の残像を消し去ってくれる。
セブンスターを半分ほど吸い終え、彼の神経が落ち着きを取り戻し始めた、その時だった。
「ちょっと待ってて言いよるやろうが!」
店の自動ドアが開き、樹が飛び出してきた。彼女はサンダル履きのままで、制服のエプロンを外し忘れていた。美しすぎる顔に、必死な焦燥感が浮かんでいる。
誠志郎は、彼女の姿に舌打ちした。なぜ、こんなに美しいものが、俺に向かってくる?
彼はわざと、煙草の煙を彼女の方向へ吹きかけた。顔で威圧し、態度で拒絶する。いつものように。
だが、樹は怯まない。むしろ、その煙を吸い込んだかのように、まっすぐに彼に向かってきた。
「あんた、逃げたら許さんけんね! ウチの話ば聞かんか! こんな所で待っとるわけなかやろ!?」
彼女は店の軒先を飛び出し、アスファルトの上に立ち止まった。アスファルトの地べたに立つ姿さえ、絵になるような美しさだった。
誠志郎は無視する。
口に咥えていたセブンスターを吸い終わった俺は、バイクに掛けてあったヘルメットを深く被り直した。完全に彼女を視界からシャットアウトする。
「名前だけでも教えてって言いよるやろうが! ねぇ、誠志郎さんって言うと?」
彼女の絶叫が、ヘルメットのシールド越しに、誠志郎の耳に突き刺さった。
(どうして、名前を知っている……?)
誠志郎は、一瞬だけ、ゾッとした。社員名簿か、なにかで見たのか。彼女の頭脳明晰さが、すぐに彼の情報を探り当てたのだろうか。
「ウチ、あんたがクレーマーば追い出すときの顔、しっとうよ。あの、怖か顔の奥で、優しか気持ちが揺れとったのば、ウチだけは見たっちゃん!」
樹の言葉は、まるで鋭い矢のように、誠志郎の心を射抜いた。
バイク便の仕事で、誰にも気づかれることなく、ただ荷物を運ぶだけ。顔の怖さで、心を閉ざしてきた。だが、この博多の美少女は、一瞬で彼の心の最も柔らかい部分を見抜いた。
(冗談じゃない。俺は、優しくなんか、ない)
誠志郎は、樹を完全に振り切るために、乱暴にアクセルを捻った。
ヴゥン!
排気音がさらに大きくなる。
「あっ! 待って!」
樹が、サンダル履きのまま、バイクに追いつこうと必死に走り出す。アスファルトを蹴る音が、か細い悲鳴のように聞こえた。
誠志郎は、その姿をミラー越しに見て、さらにアクセルを開けた。スピードが上がる。
「追いかけてくるな、馬鹿野郎!」
彼は、誰にも聞こえないように吐き捨てた。
彼女のためだ。彼女の美しい人生に、俺の影など落とすべきじゃない。
バイクはコンビニの駐車場から大通りへと滑り出し、加速していく。誠志郎は、ミラーで最後の瞬間を確認した。
樹は、コンビニの灯りの下、大通りを見つめて立ち尽くしていた。サンダルが脱げたのか、素足で立っているように見えた。その姿は、あまりにも絵になりすぎていて、まるで映画のワンシーンのようだった。
しかし、その顔に「諦め」の色はなかった。
彼女は、誠志郎のバイクのナンバーを、瞬き一つせずに、すべて記憶しようとしている。その頭脳明晰さと一途さが、誠志郎に恐怖を与える。
(……やばい。本気だ)
誠志郎は、無意識のうちに、バイクのハンドルを強く握りしめた。彼女を振り切ったはずなのに、彼の胸の動悸は収まらない。彼女の残像が、ヘルメットのシールド越しに見た夜景の中に焼き付いていた。
「逃がさんけんね!」
耳に残った博多弁の残響に、彼は思わずセブンスターの箱をポケットの中で握りつぶした。
彼は知る由もなかった。
あの完璧な美少女が、彼のバイクのナンバーを記憶しただけでなく、翌日には彼の勤務先を特定し、彼の仕事場である東京の街中を、本格的な「追跡」を開始することを。
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