―この世界は演出されている—感情感染国家と記憶反乱都市の真実戦争——

天声シン

第1章  破壊

第1話 「22億と、消えた女」




 あの日のことを、俺は今でも鏡越しに思い出す。


 カヲルが消えた瞬間を。


 ほんの一瞬だった。瞬きもしていない。鏡の中にいたはずの彼女の輪郭が、音もなく、跡形もなく——消えた。そして同じ夜、22億円が消えた。俺はまだ、どちらの「消失」が先に起きていたのか、分かっていない。




2020年1月11日・池袋




 マスクの街。誰もが目だけで会話している。

 美容室ヴィーナスゾーン池袋店。全国111店舗のうち、ここは"地味で平和"な場所だった。芸能人は来ない。SNS映えもしない。でも、龍はこの店が好きだった。

 ドライヤーの音、ハサミのリズム、コーヒーの香り。都市のノイズから少しだけ離れた、静かな交差点。

 ガラスの向こうでは、冬の光が白く濁り、歩く人々の足取りがどこか重い。2020年の冬は、何かが違った。

「……空気、変わったな」

 誰に言うでもなく、呟いた。

 沙河龍、33歳。店長。都市伝説、陰謀論が大好き——と周りには言っているが、本人は「世界の設計図を読む習慣」だと思っている。この世界には、設計した者がいる。龍はずっとそう信じていた。


「龍さん、次のお客さん、カットだけです」

 アシスタントの瀬貝カヲルが、控えめに声をかけてくる。金髪のボブにマスク姿。22歳。入社して半年。まだ不器用だが、妙に空気を読む。

 彼女が近づくと、空気の質が変わる気がした。温度ではない。何か別の——密度、とでも言うべきものが。

「了解。……その鼻歌、また歌ってるな」

「すみません。なんか、落ち着くんです」

「曲名、知らないのか?」

「はい。昔から口ずさんでて……でも、誰にも教わってないんです」

 誰にも教わっていない。龍はその言葉を、頭の中の棚に静かに置いた。

 龍はハサミを動かしながら、彼女の背中を目で追った。観葉植物に水をやるカヲルの手が、妙に丁寧だった。水をやる、という動作ではない。まるで脈を確かめるように、葉の一枚一枚を。葉の先に光が集まり、空気が柔らかくなる。

(……なんだ、この感じ)

 松井が通りかかり、タオルを抱えながらぼそっと言う。

「……あいつ、たまに人じゃないみたいな空気出すよな」

「お前も気づいてた?」

「うん。なんか、見えないもんが見えてる感じっていうか」

「ま、いい意味で変わってるよな」

 二人は苦笑しながら仕事に戻った。カヲルは、植物に触れながら誰に言うでもなく呟いた。

「……昨日より元気。呼吸してるみたい」

 その言葉に、龍の指先が一瞬止まった。(呼吸……?)

 そのとき鏡の中で、カヲルの輪郭が——一瞬だけ、消えた。

 龍は目を凝らしたが、何も異常はなかった。カヲルはいつも通り、植物の前に立っている。(……見間違いか?)


 昼下がり。店内は穏やかなリズムを刻んでいた。ドライヤーの風音、BGMのローファイ、スタッフの笑い声。龍はカット椅子の客の髪を整えながら、ふと口を開いた。

「でさ、結局あのウイルスも誰かが仕組んでるって説あるんだよ」

「また始まった!」シャンプー台から松井が声を上げる。「龍さんの陰謀論って、映画より面白いんだよな」

「へぇ……本当にあるんですか、そういうの」カヲルが目を丸くして問いかける。先輩たちの会話に完全についていけていないが、素直な興味を見せる。ついていけていないはずなのに、その目だけが妙に静かだった。笑っていなかった。

「カヲル、知らないの? イルミナティだよ、イル・ミ・ナ・ティ!」松井が声を張ると、スタッフも客も笑い、店はますます明るくなった。

 副店長の村上がフロントから呆れ声を飛ばす。「根拠がねーんだよ!根拠が!」

 その瞬間だけは、龍も含め全員が、外の世界の不穏さを忘れていた。——しかし、これが最後の「日常の笑い」になることを、誰も知らなかった。

 龍だけは、笑いながら鏡を見ていた。

「製薬会社と軍産複合体が裏で繋がってるっていうのが定説。ほら、9.11のときと一緒」

(……誰かが意図的に都市を動かしてる)

「陰謀論って便利だよな、なんでも説明つく」「まぁ、そりゃそうか。俺の妄想だよ」そう言いながら、龍は鏡越しにカヲルの姿を見た。彼女は、窓際の植物に話しかけていた。その仕草は、まるで"都市の呼吸"を感じ取っているようだった。


 夕方。スタッフルームで、龍はコーヒーをすすっていた。

 スマホには、ニュース速報が流れている。【感染者数、全国で1万人を突破】【経済危機、株価急落】【都市封鎖の可能性も】

 文章の組み立てが、引っかかる。数字の配置が、引っかかる。恐怖の温度が、計算されている。これは報道ではない。演出だ。

「……やっぱり、誰かが仕組んでる」

(……都市が、少しずつ壊れていく音がする)

 そのとき、店の電話が鳴った。副店長の村上が受話器を取り、数秒後に血の気のない顔で龍を呼んだ。「……龍。ちょっと、スタッフルーム来てくれ」

 ドライヤーの音が遠ざかり、扉が閉まる。笑い声が、遠い世界のものになった。村上は震える声で言った。

「横浜本社から緊急連絡だ」

「……売上金、全国分。22億が消えた」

 龍は、鏡の中の自分の目を見た。

 頭の中で、今日の出来事が並び直された。誰にも教わっていない鼻歌。脈を確かめるような手。一度も笑わなかった、鏡の中の目。光を集めた、葉の先。そして——一瞬だけ消えた、あの輪郭。

 22億が消えた夜、龍は初めて確信した。

 カヲルは——この世界の「設計」を、知っている。

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