すのうどろっぷ
青月 日日
第1話 喫茶すのうどろっぷ
北の海に面した政令指定都市、神居市。人口二百万を数えるこの街も、北区の古い住宅街まで来ると、夜の訪れは早い。五月上旬、金曜日の午後七時。アスファルトを叩いていた小雨が止み、湿った空気が街灯のナトリウムランプの光をぼんやりと拡散させている。
その一角に、喫茶「すのうどろっぷ」はあった。以前のカフェの居抜きだというその店は、街並みに溶け込むように静かに佇んでいる。
店内に客の姿はなかった。
低いボリュームで流れるのは、ビル・エヴァンスのレコード。繊細なピアノの旋律が、磨き上げられたカウンター席(八席)と、奥のテーブル席(四人掛けが三つ)を満たしていた。
カウンターの奥、その定位置に立つ男が、店の主である矢上亘(やがみ わたる)、四十二歳。
銀縁の細いフレームの眼鏡。ストライプのベストに、シャツガーターで留められた白いシャツ。その服装はクラシカルな喫茶店のマスターそのものだが、薄い布地越しにも、その身体が尋常ならざる筋肉の鎧で覆われていることが窺えた。それは単なる筋力トレーニングで得られる見せるための筋肉ではなく、極限の状況下で「生き残る」ためだけに最適化された、硬質な繊維の束だった。
彼は今、ネルドリップに神経を集中させていた。右手に持ったドリップポットから、細く、一定の湯が注がれていく。彼の呼吸はほとんど止まっていた。心拍は平常時よりもさらに深く、ゆっくりと一拍を刻む。腕、手首、指先、そのすべてが連動し、ポットの傾きはミクロン単位で固定されている。
その様子を、アルバイトの北山心春(きたやま こはる)、二十歳がカウンターの端から見つめていた。彼女がここで働き始めて、もうすぐ一年になる。
湯が落ちきり、ふう、と矢上が静かな息を吐いた。
「……亘さんのお湯、ぴったり三十秒でした」
心春が、拭き終えたグラスを棚に戻しながら言った。彼女の明るい声が、静かなジャズの音色に軽やかなアクセントを加える。
矢上は眼鏡の位置を軽く押し上げ、柔らかく微笑んだ。
「あぁ、はい。習慣のようなものです」
彼が言う「習慣」という言葉の重みを、心春はまだ知らない。それが、コンマ一秒の遅れが生死を分かつ戦場で培われた、時間と動作の完全な統御であることを。
「今日も……静かですね」
心春は、客のいないテーブル席を見やり、少しだけ眉を下げた。彼女の社交的な性格からすれば、この静けさは少し寂しいものに映る。
「静かな夜は、嫌いではありません」
矢上は、抽出を終えたコーヒーをテイスティングカップに少量移し、香りを確認する。その所作に一切の淀みがない。
「でも、こんなに美味しいのに。もっとお客さん来てもいいのに、もったいないですよ」
心春は本気でそう思っていた。矢上の淹れるコーヒーは、コーヒーが苦手な自分でも「美味しい」と感じるカフェオレのベースになる。
矢上はグラスを拭きながら、その言葉に微笑みで応じる。
「宣伝をしてしまうと、“静けさ”まで売れてしまいますから」
「静けさを売る?」
心春は小さく首を傾げた。その答えは彼女には少し難しかったが、彼の言葉にはいつも、妙な説得力があった。
午後七時半。
「そろそろ、まかないにいたしましょうか」
矢上のその声に、心春の表情がぱっと華やいだ。
「わ、やっ……! ありがとうございます!」
矢上がカウンターの奥で手早く調理を始める。彼がこの店で出すのはコーヒーと、いくつかの軽食、そして彼が「研究中」だという数種類のトルコ料理だけだった。
やがて、店内に香ばしいスパイスの香りが満ちていく。クミンと、ミント、そして焼けた肉の匂い。
「どうぞ。新作のキョフテです」
出されたのは、トルコの家庭料理だという肉団子のスパイス焼きだった。付け合わせにはピラフと、ヨーグルトのソースが添えられている。
「わ、いい匂い……! なんかエスニック~!」
心春はフォークとナイフを手に取り、目を輝かせた。彼女はこの店のまかないが大好きだった。
ナイフを入れると、表面はカリッと香ばしく、中はしっとりとした肉汁が滲み出す。スパイスの複雑な香りが鼻腔をくすぐる。
一口食べ、心春は思わず笑顔になった。
「おいしい! これ、絶対人気出ますよ! ジューシーだし、スパイスが……なんというか、奥深い?」
「トルコでは、家庭でよく出る料理だそうです。香りに少しクセがありますが、お口に合ったようで何よりです」
矢上はそう言うと、心春の定位置に、いつものカフェオレを置いた。彼女が好きな、少し甘めの、ミルクがたっぷり入ったものだ。コーヒーの深い香りとミルクの柔らかさが、キョフテの刺激的なスパイスを優しく包み込む。
「ねぇ、亘さん、ほんとに宣伝しましょうよ。SNSとか! 私、このキョフテ撮ってもいいですか?」
心春はスマートフォンを取り出そうとする。
「写真はご自由に。ただ……宣伝は、ほどほどにお願いします」
矢上は、カウンターの上のシュガーポットの位置を正確に五ミリ動かして、定位置に戻した。
「お客さまが増えると、きっと私の“手”が鈍る」
その「手」という言葉に、心春は一瞬、違和感を覚えた。
それは、毎日豆を挽き、湯を注ぐ職人の手だろうか。それとも、別の何か――例えば、引き金を引き絞る兵士の手、だろうか。
そんな突飛な想像が浮かんだのは、彼の鍛えられた身体と、時折見せる人間離れした所作のせいかもしれなかった。
カフェオレを飲みながら、心春がふと思い出したように言った。
「あ、そういえば、今度うちのサークル、テレビの取材が来るんです。料理研究会の特集で!」
「ほう。それは素晴らしい。北山さんは緊張など?」
矢上の声は常に一定のトーンを保っている。
「ちょっとだけ。でも、代表が“明るくやろう!”って言うんで。私もがんばらなきゃって」
「明るくやろう」。
その言葉を聞いた瞬間、矢上の指先が、ほんのわずかに硬直した。カウンターを拭いていた布の動きが、一瞬、止まる。
彼の体内で、心拍がわずかにリズムを乱した。アドレナリンの微細な分泌が、血流を加速させる。
(……遠い記憶だ)
かつて戦地で、そう言って笑った仲間がいた。その笑顔は、翌朝にはもう、冷たい泥の中に失われていた。
「……そうですか。それは、楽しみですね」
矢上は、気づかれぬよう、グラスを磨き直すことでその硬直を解いた。彼の表情は、柔らかな微笑みのまま、微動だにしていない。
キョフテを食べ終え、カフェオレのカップを両手で包みながら、心春はカウンター越しに矢上の顔をじっと見つめた。
彼は、前髪を少し長めに下ろしている。それは、額の右側にある、古い傷跡を隠すためだと心春は知っていた。
「……あの、矢上さん」
「はい、何でしょう」
「額の傷って、聞いていいですか?」
それは、ずっと気になっていたことだった。
矢上は一拍置き、拭いていたカップから視線を上げた。
「いいですよ。昔、ちょっとやんちゃしちゃったのです」
軽い冗談めかした言い方。だが、彼の瞳は笑っていなかった。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、まるで磨き上げられた黒曜石のように、感情の光を反射しない。
心春は、彼の声の奥に、乾いた砂と、錆びた鉄の匂いがするような錯覚を覚えた。
「……痛かったでしょう」
純粋な問いだった。
「痛みは、慣れればただの情報になります」
矢上の答えは、あまりにも平坦だった。
「“熱い”や“冷たい”と同じ、ただのシグナルです。それにどう対処するかを決めるのは、また別の領域ですから」
その笑みは柔らかい。だが、心春は、その笑みが人間味を感じさせないほど完璧に整っていることに、今更ながら気づいた。まるで、訓練によって顔の筋肉に刻み込まれた、一つの表情のように。
「ごちそうさまでした!」
心春は空になった皿をカウンターに戻そうとした。その時、皿を受け取ろうとした矢上の手と、彼女の手が、ふと触れそうになった。
その瞬間。
矢上の身体が、音もなくわずかに後退した。それは、避けたというよりも、そこにある空間が歪んだかのような、自然すぎる動作だった。
心春の手は、空を切る。
「あれ……?」
彼女は、避けられたことにも、彼が動いたことにも気づかない。ただ、触れられるはずの場所に、何もなかったことだけを不思議に思った。
「ありがとうございます」
矢上は静かに皿を受け取り、再びカウンターの奥へと戻る。その背筋は、定規で引いた線のように、微動だにしなかった。
午後九時。閉店作業の時間だ。
心春は、洗い物を片付けたトレイをカウンターへ戻そうとしていた。その時、自分の足元に置かれていた掃除用のバケツに、つま先が引っかかった。
「あっ……!」
身体が傾ぐ。手の中のトレイが大きく傾き、洗い終えたばかりのコーヒーカップが宙に放り出された。
心春の視界がスローモーションになる。
(落ちる!)
床に叩きつけられ、砕け散るカップの姿が目に浮かんだ。
——その瞬間だった。
カウンターの内側にいたはずの矢上が、音もなく心春の横に立っていた。
彼の心拍は、一瞬の加速の直後、すでに平時の凪に戻っている。全身の筋肉が、最小限の動きで最大の効率を生み出すために連動した。
スッ、と彼の左手が伸びた。
それは、まるで精密機械のアームのようだった。落下軌道を完璧に予測し、最短距離で差し出された指先が、空中でカップの底を正確に捉える。
カツン、と。
一拍遅れて、カップのソーサーがトレイの上で小さな音を立てた。
矢上の手に収まったカップは、一滴の水もこぼれていない。彼は直立不動のまま、まるで最初からそこに立っていたかのように、カップを静かに保持していた。
心春は、何が起こったのか理解できず、目を瞬かせた。
「……え、今、どうやって……?」
「あぁ、つい反射的に。すみません、驚かせましたね」
矢上は微笑みながら、カップをトレイに戻した。
「反射ってレベルじゃ……だって、亘さん、カウンターに……」
心春は混乱していた。彼がどうやって一瞬で移動し、落ちるカップを完璧に掴んだのか。
矢上は、トレイからこぼれた数滴の水を布で拭き取った。
その手つきは、まるで戦場から回収した武器を手入れするように、静かで、冷徹なまでに正確だった。
閉店準備を終え、心春はエプロンを外した。
「じゃあ、今日もごちそうさまでした。お先に失礼します」
「お疲れさまでした。夜道は気をつけてお帰りください」
「はい。また明日!」
心春が扉を開けると、カラン、と乾いたベルの音が夜の静寂に響いた。
外に出た心春の、薄いピンクブラウンの髪が夜風に揺れる。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、矢上は静かに見送っていた。
店内に戻り、最後の客が残したカップを片付けながら、矢上は小さく呟いた。
その声は、ジャズの余韻だけが残る店内に、低く溶けていった。
「“完璧な空間”とは、穏やかな波紋のない水面のようなものだ」
彼は、磨き上げたカウンターに映る自分の顔を見た。額の傷が、照明を鈍く反射している。
「そこに誰かが立ち入るたび、微かな揺れが生まれる」
彼の指が、カウンターの表面を滑る。そこに、目に見えない埃一つないことを確認する。
「……だが、それを嫌いだと思ったことは、ないな」
銀縁眼鏡の奥で、彼の瞳が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
それは、完璧な水面に落ちた、一滴の雫が起こした小さな波紋のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます