すのうどろっぷ
dede
第1話
「いただきます!」
心春は湯気が立つ
「何でですか何でですか、何で何でこんな味出せちゃうんですか!?
ポタージュ状にしたレンズ豆が口触り滑らかで、香辛料のおかげで体がポカポカしまくりですし、それに……これ、ちょっぴりミント使ってます? 最後に絞ったレモンといい具合に噛み合って食後の余韻が凄い爽やかです。ああ、でも辛味と酸味がほどよく効いててすぐ次を口に運びたくなるのです……ご飯かパンが欲しい!」
スープを
「バゲット、300円」
「いつも通りお給料から天引きで!」
矢上はカウンターの裏に用意していたバゲットの入った籠を彼女の目の前に差し出す。すると心春はすぐに一片を手に取るとパクリと直接咥え込んだ。口から離れた時にはバゲットは大きく彼女の口の形に変わっていた。うっとりとした表情でモグモグと咀嚼している。
温かくなった……を通り越して日中は汗ばむ陽気の5月は上旬の週末である。日がとっぷりと沈んで久しいが、店の窓から見える通りには人が賑わっていた。いつも通りだ。今も目の前のチェーンの居酒屋に男女が入って行く。
一方、ここ、喫茶店【すのうどろっぷ】に人は二人しかいなかった。
一人はこの喫茶店のマスター、【矢上
髪は黒々としており、年齢の割に若々しい。短い髪型だが前髪だけは全体よりも長い。髪に隠れているが時折額に横一文字に伸びた薄っらとした傷跡が見え隠れしていた(本人曰く、大した曰くはないとの事だが)。
少しサイズの大きい服を着てるので分かりづらいがよくよく観察すると、鍛え抜かれた身体をしており歩く時の安定した重心移動からも何某かの武術を身につけているのが窺えた。
もう一人はこの喫茶店でアルバイトをしている【北山
薄めのピンクブラウンの髪色をしており、ミディアムボブの髪を今は髪留めで再度にまとめていた。彼女も今は白いシャツに黒いベスト、タイトスカート、カフェエプロンというお揃いの装いである。
「ああ、バゲットも美味しいぃ。幸せぇ。また走る量増やさないとぉぉぉぉ」
「まったく、心春ちゃんは大げさですね。よくあるメルジメッキ・チョルバスですよ? 君もサークルで何度も食べた事があるんじゃないですか?」
矢上がこの日賄いとして心春に提供した料理はメルジメッキ・チョルバスと言い、トルコの家庭料理でいわゆる日本での味噌汁にあたる。レンズ豆がメインでそれに野菜やハーブ、香辛料を足してポタージュ状にしたスープである。豆以外に入れるものは色々なバリエーションがあり、それこそ家庭によりマチマチだ。おふくろの味というヤツになる。
心春は首をゆっくりと横に振ると、矢上の言葉を否定した。口の中のものを名残惜しそうに飲み込むと、口を開く。
「そりゃ私も何度か食べた事がありますよ? なんだったら料理研究家の作ったモノだって。もちろんそれも美味しかったんですが……でも、そのどれよりも矢上さんのスープが好きです。なんというか……ホッとする、安心できる味なんですよ、矢上さんのメルジメッキ・チョルバスって」
心春の通う神居大学には料理研究会『Stella Kitchen』というサークルが存在する。100人超が在籍している大型サークルで、心春も食べること目当てに在籍していた。トルコ料理は世界三大料理に数えられるため、サークル内で食べる機会は多い。プロを講師として呼んで品評会を開く事もある。それでも心春は矢上の作ったメルジメッキ・チョルバスの方がプロよりも好きだった。
すると、彼には珍しく矢上は照れ臭そうにしつつも嬉しそうに顔を綻ばせた。
「褒めてくださり、ありがとうございます。でもだとしたら、それは僕じゃなくて教えてくれた師匠が素晴らしかったからだと思います」
「矢上さんのお師匠さんですか?」
「ええ。僕のトルコ料理のレシピは全部彼女の直伝です。トルコ滞在中に教えて貰ったんですよ。とても素敵な方でした」
矢上は随分と誇らしげに語る。その師匠だという女性を嬉しそうに語る矢上に心春は内心焦っていた。心春は大して興味がないですよぉと装いつつ戦々恐々矢上に尋ねた。
「へ、へぇ。それは良かったですね。……そ、その。恋人、さんだったんですか?」
心春の問いかけに矢上は目を瞬かせる。
「違いますよ。彼女のお子さんが僕の親友だったんです」
矢上の返事にホッと安堵の表情を見せる。
「そ、そうだったんですね。じゃあ、私が美味しい矢上さんのご飯を食べれるのも彼女のおかげなんですね。感謝しかありませんね!」
彼女は何度もメルジメッキ・チョルバスを口に運んではバゲットを咀嚼する。と、そこで思い出したように店内を見回した。
「ねえ、矢上さん」
「何ですか、心春ちゃん?」
「グルメアプリにこの店、登録しませんか?」
「どうしてでしょう、心春ちゃん?」
「もっと宣伝して色んな人に食べて貰いましょうよ? こんなに美味しいのに勿体ないですよぉ?」
「ありがたい提案ですが……遠慮したいと思います」
やや強引に薦める心春に対して、矢上は乗り気でなかった。
「僕はこの、落ち着いた今のお店の雰囲気が気に入ってるんです。お客さんに食べて貰えるのは嬉しいですが、雰囲気を壊してまでたくさんのお客さんを呼びたいとは思いません」
「だからってお客さんが少なすぎますよ! 今日だって私がバイトに入ってから誰もお客さん来てないじゃないですか! 下手したら賄いの材料費だけで今日の売上がパーですよ!」
「あははは、実は今日の売上は心春ちゃんの買ったパンだけです」
「潰れちゃう! 私のバイト先潰れちゃう!」
「大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないですよ! お客さんが来ないと潰れるのは自明です!」
「さすが経済学部ですね」
「小学生だって分かりますよ! ……ねえ、矢上さん。私、このお店好きなんですよ。失くしたくないんです。ですからもっと宣伝して、お客さんを……あ、そうだ。今度うちのサークル、テレビで紹介されるんです。その時に私、お店のこと宣伝しますよ!」
「心春ちゃん。本当に大丈夫ですから。もし必要になったらその時は頼らせて貰いますよ。それでは、お店想いの心春ちゃん。食後のカフェオレは如何ですか?」
「むぅ~、いただきます」
心春は不満そうではあったものの、一旦は引き下がった。でも実際のところ、本当にお店の運営については問題がなかった。赤字経営であったものの、それを補って余りある運営資金があるのである。矢上が若い頃に稼いだ金で、それを赤字に当てていた。
喫茶店自体は完全に矢上の道楽である。コーヒー豆や食器、コーヒーを淹れる機材の置き場であり。そして。
ちゃんと矢上が真っ当に社会と関わっているという自分へのアリバイ作りの場であった。
矢上はコーヒーとミルクを心春好みに配合するとハチミツを垂らした。色々試したが砂糖よりハチミツが好みらしい。コーヒーカップをソーサーに乗せるとカウンターから回り込み、彼女の脇からテーブルの上に置く。
「お待ちどおさま」
「ありがとうございます矢上さ、あ!」
矢上が声を掛けたところ、心春は振り返ってお礼を言おうとした。その拍子に心春の腕がカフェオレの入ったカップにぶつかりそうになる。それに気づいた矢上は先回りしてカップをひょいと持ち上げて躱す。
けれども一緒に置かれていたソーサーまでは間に合わず、ソーサーはテーブルから落とされてしまった。そのソーサーを矢上は床に落ちる前に空いてる手でひょいと摘まみ上げた。そして何ごともなかったようにテーブルの上にまた置く。ちなみにカフェオレは一滴も零さず水面は穏やかなものであり、矢上の表情も穏やかなものだ。
「気をつけてくださいね、心春ちゃん」
「す、すいません。でも今のを落とさないってすごいですね、矢上さん?」
「いえいえ、心春ちゃんの方が凄いじゃないですか。テレビに出るんですか?」
「あ、はい。料理研究会『Stella Kitchen』のサークル活動を番組で話す事になりまして。メインはもちろん部長ですが、私もサポートで」
「いつです?」
「3日後の月曜日です。ですから、どんなに忙しくてもシフトを入れられな……問題ないですね。ねえ、矢上さん、やっぱり私、番組中で宣伝を……っ」
「おお、楽しみですね。分かりました。大丈夫ですよ、その日は私一人でお店を回しますから。放送日教えてくださいね、私もテレビで拝見させて頂きます」
「あ、はい」
心春は食事時なのに誰もいない店内を見回す。しかしやがて諦めて何も言わずに出されたカフェオレに口を付けると頬を緩ませる。
一方矢上は、心春の空になった皿を見て久しぶりにトルコ料理の師匠こと親友の母親の事を思い出していた。随分親しくさせて貰ったにも関わらず、久しく連絡を取っていない。最後に会ったのは親友の遺品を返しに行った時だった。
(まったく、ベタな事です)
『戦場ではイイヤツから死んでいく』という在り来たりなフレーズを思い浮かべながら、幸せそうにカフェオレを飲んでいる心春を見ていた。矢上の視線に気づいた心春は顔を赤らめる。
「どうしたんです、矢上さん?」
「いいえ。何でもありませんよ」
矢上は曖昧に濁すと微笑んだ。
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