春が如くー真夏の一夜の夢物語
疾風の刃
春が如く
## 春が如く — 真夏の一夜の夢物語 —
名古屋・某繁華街。
ネオンはまだ灯っているのに、街はどこか暗かった。
暴力団の下部組織と半グレの若者集団が、縄張りを賭けて殴り合っている。
連日、負傷者と逮捕者は数十名にのぼり、歓楽の音は警笛にかき消された。
行政はついに公安と機動隊を投入した。
街路の角には盾が並び、監視カメラの赤い点が増えていく。
沈黙した看板。空になった灰皿。
夏の湿気が、まだ開店前の店先にうっすらと曇りを描く。
そんな空気を裂いたのは、ひとつの噂だった。
「今度の決着は、野球でつけるらしい。」
半グレ集団〈ナイターズ〉のリーダー、御門桜花(みかど・おうか)。二十九歳。
名門高校のエースとして甲子園に二度出場し、プロ入り確実と言われていた。
だがある夜、たった一発の拳で、彼は夢も未来も失った。
その挑戦を受けるのは、暴力団〈桜花組〉の組長、桜花遥(おうか・はるか)。四十七歳。
元プロ野球選手。
実家の組織が週刊誌で暴かれ、不名誉な引退を強いられた過去を持つ。
かつてグラウンドに立っていた二人の“桜花”が、
今度は裏社会の頂で再び対峙する。
御門は笑って言った。
「縄張りも、謝罪も、ぜんぶ――草野球で決めようや。」
誰も笑わなかった。
けれど、誰も止めなかった。
誰もが、どこかでその提案を待っていたのかもしれない。
殴らない理由を。叫ばないで済む口実を。
――そして夜。
廃校になった校庭のグラウンドに、ナイター照明が点る。
砂は乾き、白線は風にほどけ、夜気にチョークの粉が漂う。
機動隊が外野フェンスの外で横隊を組み、公安は無線に耳を当てている。
報道のレンズが、闇に四角い穴を開けた。
その外側には、酔いを覚ました野次馬と、店を畳んだ従業員と、用のない警官が混ざっている。
両チーム、全員が野球経験者だった。
かつて甲子園の土を踏んだ者、地方で散った者、ベンチから夏を見送った者。
ボロボロのグラブに記憶が刻まれている。
「お前、まだそれ使ってんのか」
「縁起物だ」
くだらない会話が、ようやく人間を呼び戻す。
ベンチの隅、ひとりの女がスコアブックを開いた。
桜花組の組長の情婦、沙希(さき)。
かつては有名高校野球部のマネージャーで、汗と砂と涙の匂いを知っている。
爪に薄く残ったラメを、夜の光が拾った。
彼女は鉛筆を削り、ページの端をそっと伸ばす。
審判の声が、校舎の壁に跳ね返る。
「プレイボール!」
一回。
初球から内角高め、火花の散るようなストレート。
バットは折れ、打者は睨み、ベンチ前では足音が増える。
「来いよ」「おうよ」
罵声が砂埃に混ざり、機動隊が盾を少しだけ上げる。
二回。
死球。
バットが放物線を描いて投手の足元に転がり、
マウンドに二歩、三歩。
「やめろ」
誰かの声がかすれて、しかし足は止まりきらない。
三回。
遊ゴロ。
二塁送球、送球がそれる。
靴音が重なって、ベース上でもつれた二人が地面に沈む。
「離れろ」「離せ」
審判の腕が空を切る。
四回。
ベンチの裏で煙草に火がつく。
沙希はそれを見ない。
鉛筆の芯を少しだけ伸ばし、スコア欄の四角を塗りつぶす。
数字が増えるたびに、彼女の手つきは少しずつ確かになる。
記録することは、呼吸を整えることに似ていた。
五回。
バットの音が、ようやく綺麗に鳴った。
左中間を割る打球が、夜空で一瞬だけ止まる。
外野手が背を向け、白球に吸い寄せられていく。
歓声が、怒号よりほんの少しだけ大きくなる。
六回。
御門がマウンドに立った。
長い腕をゆっくり振り、呼吸を合わせる。
捕手が小さく頷き、外角低めにミットを置く。
「昔のままだな」
ベンチの誰かがつぶやく。
ボールはミットのど真ん中に収まり、乾いた音が校舎のガラスを震わせた。
七回。
桜花遥が打席に入る。
背筋を伸ばし、足幅を狭く、目線をピッチャーに固定する。
ホームベースの土をつま先でならす仕草は、昔のままだ。
御門はひと呼吸置いてから、わずかに頷いた。
初球。
遥は振らない。
二球目。
遥はまた振らない。
三球目、御門はチェンジアップを投げ、遥はわずかに泳ぐ。
空を切ったバットが遅れて風を起こす。
「ナイスボール」
誰の声かわからない称賛が、砂に吸い込まれた。
照明はいつのまにか熱を帯び、
夜風は汗の塩を拾っては頬に戻す。
沙希はスコアの合間に水をひと口だけ飲んだ。
ストローに触れた唇が、少しだけ震えている。
ベンチの奥で、古いラジカセがかすかなノイズを吐いた。
昔の応援歌ではない。ただの雑音。
それでも彼女には、遠い夏のブラスバンドが聴こえた気がした。
――そして、八回裏。
照明の白に、薄く朝の色が混ざりはじめる。
彼女はスコアブックを握り直し、ページの波打ちを親指で押さえた。
投手が振りかぶる。
白球が夜の裂け目を作る。
沙希は視線を上げずに、唇だけを動かした。
「……私、なんでヤクザの女なんかやってるんだろ。
どこで、間違えたんだろ……。」
周囲の喧噪が一瞬だけ遠のいた。
鉛筆の芯が紙をかすめる音が、やけに大きい。
得点欄に“0”を書く。
手が震え、数字は少し歪む。
けれど、その“0”は、照明を受けて確かに光っていた。
彼女は顔を上げる。
マウンド上の御門の背中、その向こうで、遥が一塁ベースに手を置いている。
ふたりの“桜花”の間に、白い線が一本、まっすぐ引かれていた。
線は揺れない。
たぶん、心の中の何かがそう見せているだけだ。
八回裏の最後の打球は、ショートの頭上を越えた。
三遊間に落ちると思われた白球を、ショートが背走で捕り、体勢を崩しながら一塁へ投げる。
アウトか、セーフか。
審判の右腕がわずかに動きかけて、止まる。
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが空を見た。
そのどれもが、悪くなかった。
九回。
誰も喋らない。
言葉は、もう余計だった。
汗が頬を伝い、涙が砂に落ちる。
白球は、誰のものでもない速度で、誰のものでもない軌道を描く。
バットに当たる音、グラブが鳴る音、スパイクが土を掻く音。
それだけで十分だった。
ライトの外には、機動隊も公安も、報道も野次馬もいた。
だが、フェンスの内側には、もう“役割”は存在しなかった。
ヤクザも半グレも、警官も記者も、
みんな、ただの“野球少年”に戻っていた。
最後の打球が上がる。
高く、高く。
弧の途中で、時間がゆっくりになる。
沙希はスコアブックを開いたまま、鉛筆を置いた。
ページの端に、涙が一滴落ちる。
滲んだ点は、数字でも記号でもなかった。
ただの、水のしるし。
誰かが、ほんとうに小さな声で呟く。
「……ああ、この瞬間が永遠ならいいのに。」
ボールが、誰かのグローブに吸い込まれたのか、
あるいは、地面に転がったのか――
それを見た者はいない。
いや、もう誰も、見ようとしなかった。
照明が少しずつ落ちていく。
風が戻り、砂の匂いが強くなる。
フェンスの外のざわめきが、遠い海鳴りのように聞こえた。
御門は帽子を取り、汗をぬぐい、空を見た。
遥はベンチを出て、内野の土をつま先でならした。
ふたりの“桜花”の間に、白い線がまだまっすぐ残っている。
踏み荒らされて、ところどころ欠けているのに、不思議と綺麗だった。
沙希はスコアブックを閉じる。
閉じたページの上で、鉛筆が小さく転がる。
「おつかれさま」
誰に言うでもなく、そう言って、彼女は立ち上がった。
ラメの欠けた爪が、夜の光を一瞬だけ集め、そして手のひらに消えた。
遠くで、キャッチボールの音が一度だけ響く。
乾いた音は、返ってこない。
返ってこないまま、夜に溶けていく。
夏の空気が、やさしく頬を撫でた。
誰かの笑い声。誰かの泣き声。
どちらも、同じ温度だった。
そして、
白球の転がる音が、最後の波紋を残して消える。
真夏の夜が、静かに、確かに、閉じた。
**真夏の一夜の夢物語。**
完
春が如くー真夏の一夜の夢物語 疾風の刃 @Ninjayauba
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