過労死した俺、異世界で『調理』スキルだけで追放されたけど、作った料理が規格外すぎて、伝説の料理人として国を救うことになりました

天地開闢

プロローグ:過労死、そして転生

午前三時。東京の高級レストラン「ル・シエル」の厨房で、早川蓮は包丁を握っていた。


蛍光灯の白い光が、ステンレスの調理台を冷たく照らしている。その光は、蓮の疲れ切った顔をも容赦なく浮き彫りにしていた。目の下には深い隈。頬はこけ、唇は乾いている。三十六歳という年齢にしては、老け込みすぎていた。


「料理長、明日のパーティーのメニュー、まだ決まってないんですか!」


若手シェフの悲鳴のような声が飛ぶ。その声は蓮の耳に届いているのに、どこか遠く感じられた。まるで水の中から聞こえてくるような、ぼんやりとした響き。


蓮は疲労で霞む視界の中、淡々と答えた。


「ああ、今考えてる。フォアグラのポワレに、トリュフのソースを――」


自分の声が、自分のものではないような気がした。機械的に、ただ言葉を発しているだけ。心はもう、とっくにこの場所にはない。


どこにあるのだろう。自分の心は。


言葉の途中で、世界が揺れた。


いや、違う。揺れたのは世界ではなく、自分の身体だった。膝が笑い、視界がぐらりと傾く。


「料理長?」


若手の声が、今度は心配そうに響いた。だが、蓮にはもう答える力がなかった。


三十六歳。料理一筋で生きてきた。


思えば、この道を選んだのはいつだっただろうか。高校を卒業して、調理師専門学校に入学したのが十八歳。それから十八年間、ずっと厨房で生きてきた。


最初は楽しかった。


料理を作ること。その喜び。客の笑顔を見ること。その充足感。


「美味しかった」と言われるたびに、心が満たされた。自分は料理人になってよかった。そう心から思えた。


だが、いつからか変わった。


二十五歳で名店に引き抜かれ、副料理長になった頃だろうか。それとも、三十歳で料理長に昇進した時だろうか。


責任が増えた。


部下の管理、メニューの考案、食材の仕入れ、経営者との会議。料理を作る以外の仕事が、どんどん増えていった。


そして、時間がなくなった。


睡眠時間は日に三時間。休みは月に一度あるかないか。いや、正確に言えば、休みはあった。シフト上は。だが、その休日も、メニュー開発のために食材市場を回ったり、他店の視察に行ったり、結局は仕事をしていた。


気がつけば、友人との連絡も途絶えていた。恋人はとっくに別れた。「あなたは料理と結婚してるのね」。そう言って去っていった彼女の言葉が、まだ耳に残っている。


家族との関係も希薄になった。実家の母親からの電話にも、ろくに出られない。「元気にしてる?」という問いに、「ああ、元気だよ」と嘘をつく。本当は全然元気じゃない。体はボロボロで、心も擦り切れている。でも、そんなこと言えない。


なぜ言えないのだろう。


プライドだろうか。料理長という立場を守りたいから?それとも、弱音を吐くことが怖いから?


いや、違う。


本当の理由は、もっと単純だった。


疲れていた。疲れすぎて、何も感じなくなっていた。


料理を作る喜びも、客の笑顔を見る充足感も、いつの間にか消えていた。ただ、義務的に料理を作る。ミスのないように、完璧に。それだけだ。


いつからだろう。料理が義務になったのは。


思い出そうとしても、思い出せない。境界線が曖昧だ。徐々に、じわじわと、喜びが義務に変わっていった。気づいた時には、もう遅かった。


でも、辞められなかった。


なぜ?


それは、他に何もないからだ。料理しかない。料理人としてのキャリアしかない。それを捨てたら、自分には何も残らない。


だから、続けた。


体が悲鳴を上げても、心が泣き叫んでも、ただ淡々と、料理を作り続けた。


「もう少し頑張れば、何か変わるかもしれない」


そう自分に言い聞かせて。


でも、何も変わらなかった。


そして今日も、午前三時の厨房にいる。


「料理長!」


若手の声が遠ざかっていく。視界が暗くなる。床が近づいてくる。


ああ、これが死か。


不思議と、恐怖はなかった。


むしろ、どこかホッとしている自分がいた。


やっと、終われる。


この苦しみから、解放される。


もう、料理を作らなくていい。


もう、完璧を求められなくていい。


もう、誰かの期待に応えなくていい。


ただ、休める。


永遠に。


そう思った瞬間、蓮の意識は途絶えた。


厨房の床に倒れ込んだ蓮の顔は、苦痛に歪んでいなかった。むしろ、穏やかだった。まるで、長い長い仕事を終えて、ようやく眠りにつく時のような、安らかな表情だった。


若手シェフたちが慌てて駆け寄る。救急車を呼ぶ声。蘇生を試みる動き。


だが、蓮の魂は、もうそこにはなかった。


* * *


暗闇の中で、蓮は浮かんでいた。


いや、浮かんでいるという感覚すら、正確ではないかもしれない。体がない。重さがない。ただ、意識だけがある。


不思議と、恐怖はなかった。


ああ、死んだんだな。


そう理解した。


すると、どこからか光が差してきた。


温かい光。柔らかい光。


その光に包まれると、不思議と心が落ち着いた。


「お目覚めですか、哀れな魂よ」


柔らかく、それでいて神々しい声が聞こえた。


蓮は――いや、蓮の意識は――声のする方を向いた。


そこには、長い銀髪を持つ美しい女性が浮かんでいた。いや、女性というより、もっと超越した存在。神々しいオーラを纏い、まるで光そのものが人の形をとったような、そんな存在だった。


* * *


「お目覚めですか、哀れな魂よ」


柔らかく、それでいて神々しい声が聞こえた。


目を開けると、そこは真っ白な空間。そして目の前には、長い銀髪を持つ美しい女性が浮かんでいた。


「あなたは過労で死にました。とても気の毒なことです」


女性――いや、女神とでも呼ぶべき存在は、同情の表情を浮かべた。


「私はルミエラ。生命と調和を司る女神です。あなたの人生を見ました。料理に人生を捧げ、しかし報われることなく死んでいった。だから、新しい世界で新しい人生をあげましょう」


「新しい世界……?」


蓮は混乱していた。死んだはずなのに、意識がある。そして目の前の女神。


「はい。剣と魔法の世界です。そこであなたに、特別な力を授けます」


女神ルミエラは優しく微笑んだ。


「あなたが最も得意としていたもの。そう、『調理』の力です。ただし、ただの調理ではありません。神級の調理スキルを授けましょう」


「神級の……調理?」


「はい。あなたの作る料理は、この世界では奇跡と呼ばれるでしょう。さあ、新しい人生を楽しんでください」


光が蓮を包み込む。


「ちょ、ちょっと待って!もっと詳しく――」


蓮の叫びは、光の中に消えていった。

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