報告書

はるは

第1話

報告書

第一章 悪魔とはなんだ

小悪魔は長いあいだ、報告を怠っていた。

人間の観察はもう価値がないと、上司は言った。

「彼らは魔法に依存し、力を失った。観察するだけ時間の無駄だ」

だが小悪魔は、どうしても気になった。

人間がまだ、何かを失い切っていない気がしたのだ。

魔法――それは、もともと悪魔が与えた力だった。

人間を見守るための餌。

火を灯すのも、水を清めるのも、癒すのも、

いまでは誰もそれを魔法とは呼ばない。

魔法は、空気と同じになっていた。

だから、力を断つことにした。

世界は静かに壊れていった。

人は泣き、怒り、土を掘り、やがて火を擦り合わせるようになった。

小悪魔は、空の上でその姿を見ていた。

「これでいい。ようやく、再び何かを作る顔になった」

だが、次第に彼らは再び魔法を求めはじめた。

やがて一部の人間にだけ、力を返してみた。

神の真似事のように。

すぐに世界は分かれた。

魔法を持つ者と、持たない者。

祈りと呪いが同じ声で響いた。

小悪魔はその騒めきを聞きながら微笑んだ。

「面白い。どちらが滅びるだろう」

彼はひとりの女の姿を借り、地上に降りた。

戦場の近く、死にかけた老人を癒やし、

喜ぶ若者を後ろから撃ち抜いた。

「なぜ殺した」と問われて、彼女は笑った。

「助かったのは、お前だろう」

村人たちは恐れた。

その恐れが、彼女には少し嬉しかった。

生きている証のように思えたのだ。

やがて噂が広まり、城から晩餐への招きを受けた。

外では民が飢えているというのに、

城の人々は銀の皿に肉を盛り、

香りの強い酒を注いで笑っていた。

そのとき、小悪魔は気づいた。

杯を持つ貴族の指が、かすかに震えている。

「恐れているのか」と呟いた。

そして自分の手を見た。

そこにも、同じ震えがあった。

笑えなかった。

その夜、遠くで魔法を持つ軍が城へ進軍を始めたと聞いた。

「どちらを勝たせようか」と思った。

けれど、決められなかった。

いつまで経っても戦争は終わらない。

もしかすると――終わらぬ方が都合のよい者がいるのかもしれない。

小悪魔は小さく息を吐いた。

「なるほど。人間は悪魔を、経済に組み込むことさえできるのか」

その夜、報告書を書いた。

観察記録:

人間は、悪魔をも利用する。

その点において、彼らは悪魔を超えた。

しばらく筆を止めて、もう一行、書き足した。

我々悪魔もまた、変わりゆく段階にあるのかもしれない。

……少なくとも、私は。

窓の外では、戦火の赤が夜明けの光に溶けていた。

その色が、頬を照らすのを感じた。

初めて“温かい”と思った。

第二章 火のそばにて

小悪魔は次に、老いを観察した。

老いというものを、悪魔は知らない。

時間は流れても、彼らの形はほとんど変わらない。

老いとは、朽ちていくことではなく、

減っていく感情の中で、それでも生き続ける現象らしい。

ひとりの老女がいた。

皺だらけの手で火をくべ、

乾いた木を撫でるように折っていた。

その仕草の中に、なぜか小悪魔は“美しさ”を見た。

彼女は、毎夜、死んだ夫の名を呼び、

ひとりでスープを作っていた。

言葉は少なく、手の動きだけが記憶のように繰り返されていた。

小悪魔は、火のそばに座って問うた。

「なぜ続ける? 誰も見ていないのに」

老女は笑った。

「火は、見てくれるよ」

その答えに、小悪魔は何も返せなかった。

それは理屈でも祈りでもない。

ただ、生きてきた者の呼吸のようだった。

夜が明けるころ、野盗が踏み込んだ。

老女は抵抗し、倒れた。

火がはぜ、皿が割れる音がした。

その顔には、笑みが残っていた。

小悪魔はしばらく見つめ、やがて目を逸らした。

報告書に記す。

観察記録:

老いは、力の減少ではない。

それは、感情を精製する過程である。

悲しみも怒りも、やがて同じ温度になる。

それを、彼らは“静かに笑う”と呼ぶのかもしれない。

筆を止め、火の残り香を嗅いだ。

その匂いが、胸の奥で長く燃え続けた。

第三章 死の笑み

小悪魔は、またひとりの人間を観察していた。

今回は、死にゆく瞬間を。

戦場の跡に、血の匂いと灰の風があった。

一人の兵が、破れた旗の下で息をしていた。

腹を貫かれながらも、空を見上げて笑っていた。

小悪魔は近づき、問うた。

「なぜ笑う?」

兵は答えなかった。

だが、その顔には確かに“理解ではない何か”があった。

痛みも、希望も、混ざりきらぬまま、

ただ世界の端を見て笑っていた。

小悪魔は思った。

――人間は常に見ている存在ではない。

  彼らは、すべてを観察する者ではない。

  ときどき、ふと世界を見て、

  指を差し、笑うだけの生き物だ。

その笑いは、愚かでも崇高でもなく、

ただ「生きた証」だった。

筆を取る。

観察記録:

死は、終わりではない。

彼らにとって、死は“観察の再開”だ。

一度きりの笑いで、彼らは世界を見返していく。

それは、悪魔の観察とは違う。

我々は永遠に見続けるが、

彼らは一瞬で見終える。

そして、その一瞬にすべてを込める。

小悪魔は筆を置いた。

報告書の最後の行に、ためらいながら文字を刻んだ。

――我々にとって人間とは、

  いつも見ていたら疲れる存在である。

  だから、たまに見て、

  その行動を指さして笑うのにちょうどよい。

報告書を閉じた。

外では、またひとつ火が上がった。

小悪魔は、少しだけ息を吐いた。

それが笑いかどうかは、誰にもわからなかった。

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報告書 はるは @kanpati

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