熱暴走





 私としてはあるまじき事だが、すこし孤独が怖くなってしまった。いや、そこに反論があるのは分かる。私には家族がいるし、高校にいれば表面上はひとりではない。だがそういった問題ではないのだ。ここで言う「孤独」とは、周りにひとがいるかどうかではなく、心の在り様である。言い換えれば距離の問題だ。別に私はコミュニケーションそのものを遮断している訳ではない。家族とは普通に話もするし、クラスメイトに話し掛けられて無視するようなこともしない。その態度が紀子を踏み込ませてしまった要因のひとつにもなったのだが。


 私は孤独であることに慣れていた。そこに発生する陰鬱にも慣れていた。そうではないか。私が今さら明るい世界に出られる訳がない。怖いのではない。打ちのめされたのだ。この世界に私の居場所はない。そういったことを私は中学3年生からいままでの2年半で痛感し、みっちり世の中に調教されてきた。そしてもう閉じ込められた檻から出る気もなく、そこにある独りという安寧を友に一生を全うしようと考えた。それは覚悟であり、確信であった。そこは私のあるべき場所だった。そして私は精神的な外界から隔絶した檻の中で、世の中に対する呪詛を唱え、同時に自己嫌悪しながら一生を生きていくと決意した。そんな世界に耐えられるものなのか、と思う方は一度試してみると良い。そこには案外甘い蜜が滴り落ちてくるものなのだ。しかしそれが毒であることも間違いはあるまい。酒のようなものだ――私はまだ17歳だからお酒は飲めないし、また実際飲んだこともないけれど、ある種の確信を以てそれは本質的に同種のものだと思っている。間違いはあるまい。


 そこに彼女は現れた。浦部紀子。


 地味同盟、などという甘言を弄び、彼女はあっけらかんと私の築いている堡塁に侵入してきた。私の築いていた要塞がさして堅牢でもなかった事実に暗澹たる気持ちにもなるのだが、しかし、彼女の装備していた砲はなかなか強力であって、簡単には跳ね返せなかった。認めざるを得ない。私の塁壁はやや壊されかけている。だからと言ってまだ本陣には突入させていない。簡単に落ちてもらっては困るのである。


「地味同盟万歳!」


 なにが万歳なのだか、と冷ややかに観察出来るほど私は達観していない。京香ほどには、だ。ここで彼女たちを憎むことが出来れば話は簡単だった。しかしそうではなかった。私はどうしても彼女たちを憎むことができない。愛らしいとすら思ってしまう。


「なにが万歳なのよ」

「そりゃあ、きみィ、万歳は万歳だよ」

「なんの釈明にもなっていない」

「釈明する必要がないからね。これは単純に、非常に、パッションの話なのだ」


 なにがパッションなんだか、と冷静に京香は言っていたが、私はそこまで簡単に割り切れない。そこになにかがあると思ってしまう。探ってしまう。愛憎、という表現がある。ここにはそれがあったのかもしれない。浦部さんはともすれば暴力的な手段を以て私に踏み込んできたのだが、私は強力に抵抗する訳でもなく、心のどこかが甘辛く掻かれているような気がして、訳が分からない。私は彼女にどんな感情を抱いているのか。まるで理解不能。彼女が理解出来なければ、私自身のことも理解出来なかった。


 それがこの場にいる理由――と言うにはあまりに弱すぎるような気もするのだが、現状それ以外に説明が付かない。


 その他にも認めておこう。私は興奮していた。しかしそれが緊張に導かれたものなのか、それとも歓喜に導かれたものなのかは判別が付かない。そこには細く赤い線が引かれている。どちらに転んでもおかしくない――いや、おかしい。歓喜とは? 私には無縁の感情がそこにはあるのかもしれないのか?


「ああ、もう」


 私はぶるぶると頭を振り、手入れもしていない髪、その前髪が目に掛かった。


「ど、どうしたカナちん。私なんかヘンなこと言ったか?」

「あなたがヘンなことを言ったのも確かだけど……そういうことじゃない」


 わたしが言葉にならない言葉をぶつくさ言っている内に、京香が別のことをいった。じつに実際的な話であり、私はこの泥沼から一瞬だけ救われた。


「バス来たから、私はもう帰るね」

「あ、あたしも……」


 幸いにも、というべきなのか分からないが、京香と私のバスは途中まで同じである。それも地味同盟に参加して初めて知ったことなのだが、しかし実際に一緒に登下校したことはまだ一度もなかった。彼女には文芸部があるからだ。実際の下校時刻はずれるし、それに彼女は電車にも乗るからそれに時刻を合わせている。交わるようで交わらないのが今までの私たちであり。それでいいと思っていたのだが、この時は遅くなってしまったので、ふたりして乗らざるを得なかったのである。


 バスの座席は全部埋まっていて、私たちは立って乗車するしかなかった。となれば、離れた所に居る訳にも行かず、私と京香は隣同士並ぶしかなかった。そこまで混雑していなかったのが、逆に居心地悪く思えた。気持ちがぴりぴりしてくる。これまで佐倉さんとふたりになったことはなかったからだった。


 佐倉さんは別に会話がなくても平気なようだった。いや、私も本来はそのはずだった。しかしここまでの経緯からこの状況にあって、無言というのも妙に気まずいような気がしてきた。根が小心者の私が憎らしい。かといって簡単に踏み込むのも出来ない。私は彼女の端正な横顔を恨めしぐ眺めながら、しばらくいじいじしていた。


 そして有り得ないことが起こった。


「ね、ねえ、佐倉さん……」


 恐るべきことに、私のほうから話し掛けていたのである。これまでは決して有り得ない事だった。しかしそれほどいたたまれない状況に陥っていた証拠でもあり、それは地味同盟結成に由来し、とすればそれは紀子に責任を負わせることも可能なのかもしれなかったが、しかし、私は認めざるを得ない。ここにいるのは、間違いなく私の選んだ責任である。嗚呼、なんと愚かしいこと。


 その彼女はゆっくりと振り向いた。


「普通に『京香』って呼んでもらっていいよ」


 このことで分かるだろうが、地味同盟だ地味同盟だと言いつつも、じつはあまり彼女とは会話がなかった。ほとんど紀子が喋っているようなものなのだから当たり前なのかもしれないが。しかしその事実も私はいささか重たく思えた。


 そして彼女の言葉には慎重に対応せざるを得なかった。とはいえすでに心の中では京香と呼んでいるのだから今さらなのかもしれない。だが実際に口にするのは勇気がいる。


「じゃ、じゃあ……京香」

「うん。で、なにか話があるの」


 このいつでも冷静な態度は尊敬に値する。だが私には到底真似できそうになく、そこで私は劣等感を得てしまう。しかしどうしようもない。


「なにが、って言うと……なにもないんだけど」

「そう」


 落ち着いている彼女に私はすこしだけ安心した。あまり気まずくはならないからである。彼女は悪いひとではない。善人であることは間違いない。そしてそれは紀子も。だが、だからこそ私は彼女たちを憎悪することが出来ず、その憎悪は巡り巡って私自身の心を刺すのだった。


「あのさ、佳奈」


 京香の姿勢は、落ち着いているという言葉を超えて、明鏡止水とさえいえる境地にまで至っていた。いや、彼女の心を覗ける訳ではないからその内情までは分からない。しかし見た限りでは心が乱れているようには全然感じない。


「あんまり物事は難しく考えなくてもいいと思うよ。あんたは賢いから、色々頭の中で考えが巡っちゃうんだろうけど」

「そういうのって、賢いって言うのかな。むしろ馬鹿なんじゃないかな」

「馬鹿になるな。阿呆になれ」


 そう言って、京香はにっと笑った。邪気のない笑みだった。普段あまり表情の動かない彼女だが、それが動くと奇妙に魅力的に見える。果たして彼女は本当に地味なのか。地味ではある、確かに。しかしそれは彼女が積極的に選択している結果のように見えてならない。心が陰である私とは明確に違う。


 そこから会話が広がったかというと、なかった。バスの中で自由にお喋り出来る環境ではなかったのもあるが、やはり会話の接点はなかったのである。それに私も楽しい会話を求めていた訳ではなかったし、それは京香もそうだった。


 そうこうしている内に降車するバス停がやってきた、というか終点だった。駅前のバス停である。ここから京香は電車に乗って帰り、私は近くに自宅があるのでそのまま歩いて帰る。これが初めて一緒に乗ったバス、というのも奇妙な話だった。だがその理由は前述した通り。しかしこれからはそんな機会も増えていくのだろうか?


「じゃあね、佳奈。明日もよろしく」

「うん……」


 私は改札口まで京香を見送った。その別れ際、彼女はこう言った。


「なんか面白い小説を見つけたら、私に教えてね。私も教えるから」


 こういうのを友情と言っていいのだろうか――私にはしばらく無縁であった感情が。



       ◇



 今日は父もいたが、あまり会話はなかった。決して私が父を嫌っている訳ではない。向こうも同じだと思いたい。しかし高校生の娘と父親というのはどうしてもこうなってしまうのよ、と気に病んでいる私に母はよく言うものだ。だからといって気に病むのがなくなることもない。ついでに言えば母ともそんなに話はしない。彼女も心配しているだろうが、だからと言って自分を簡単に変えることも出来ない。


「じゃあ、あたしはもう寝るね」


 と言って、いつものように早めに自室へと引き籠った。今日は本も読まず、ゲームもやらず、アニメも見ず、そのまま寝ようと思った。しかし妙に目が冴えている。しかしなにをしたらいいのかも分からない。頭が混濁している――それを整理しようと思った。簡単に言えば、私のもやもやしたものを文章化してはっきりさせようと思ったのだ。私は日記を付ける習慣はないが、こういうことはたまにやる。


 PCは使わず手書きである。


 そして私は蛍光灯は点けず、灯りはデスクライトだけで、暗がりの中で集中できるようにボールペンを持ち、ノートに向かう――


『地味同盟とはなにか。そしてそのようなものに私の心が揺さぶられるのは何故か。その解明しがたい問題にあえて向き合おうとする。まず考えなければならないのは、あの地味同盟の盟主を僭称する浦部紀子についてである。彼女のような存在は今まで私の前には現れなかった性質をしている。明朗快活だがどこか底知れぬ気魄というものを感じずにはいられない。認めてしまってもいいが、彼女にはある種のカリスマ性が備わっていて、私もそれに乱されている所はあるのではないか。そもそも地味という言葉でひとを纏めようとする発想自体が異常だとも言えるだろう。普通は地味という属性は唾棄すべき、恥ずべき性根である。それを逆手に取った彼女の手管は見事だと褒めてもいい。高度に政治的な手管であり、私には真似できそうにもない。だが、しかしながら、そう、しかしながらと言うべきなのだが、私とは真逆にいる筈の彼女に、私は自分に似通ったところを感じている。それこそがおかしな話だと言う外ない。彼女は陽であり、私は陰である。まさかふたりが合わさることで陰陽の太極が生じているとでも言うのだろうか。陰と陽は背中合わせ、とでも言うつもりなのだろうか。すくなくとも分かっているのは、私は浦部紀子に好印象とまでは言わなくとも悪感情は持っていないということだ。それに心を揺さぶられている? 私は未だ子供の頃、まだ明るかった自分に未練があるというのだろうか? それは断ち切ったつもりでいた。だが甘かったのかもしれない。彼女は青春の門、などという表現を使った。おかしな話だ。私は青春などという甘酸っぱい仙桃ネクタルの薫る言葉になんら幻想を抱いていない。そのつもりで高校に進学した。無の3年間を送るつもりだった。大学に行っても同じ、就職しても同じ、結婚はしないから一生同じ。そのはず、そのはずだった。だが浦部紀子は私の心を無理矢理こじ開けようとしている。それは危険な話なのではないか。しかしそれでもいいのかもしれない。彼女に私の心を破壊して貰ってもいいのかもしれない。私はすでに自暴自棄になっていた。ならば今さらなにを怖れる必要があろうか。しかし私は決して誰にも心を許しはしない。私の戦いは、この愚かしくも崇高な戦いは既に始まっている』


 と、ここまで書いたところで睡魔が襲ってきたのでそのまま寝ることにした。


 ――そして、翌朝目覚めてそれに改めて目を通した時、発狂してページをぐしゃぐしゃと破り、ゴミ箱に捨てたことは言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る