一章:激しく水面は波立ち

「輝く太陽」

 十代後半の少年が頭上を指差す。夏季ならではの高い位置からの陽の光が、金髪に反射していた。

「光る海」

 続けて足元を示す。

「二人での旅程」

 今度は隣に立っていた少女へ流し目を向けた。少年よりも明るい金髪は、鏡の欠片が散りばめられているかのように光っていた。

「これはいわゆる……」

 そこで言葉を切り、少年は「へへ」と鼻の下をこすった。それが少々面倒なフリであることを、短い付き合いながら少女は理解していた。先手を打つ。

「逃避行ですか?」

「なるほど、それはそれでロマンス感じるね。七百七十七点」

「すごくビンゴな点数ですね」

「景品にビンゴ玉を七百七十七個あげるよ」

「坂道のてっぺんから転がしてみたいですね」

 とぼけた会話をしながらも、少女、レミは空を睨んだ。

 感じる。かすかながらも、自分たちと同じ存在の気配があった。けれど、違和感を覚える。

「その様子だと、当たりだったの」

「当たりではあります。ただ、良い当たりか悪い当たりかはまだ分かりません」

「景品がはずれなこともあるからね」

 レミと違い、ほかの能力者の気配を感じることのできない少年は、やれやれと大げさに両手を掲げた。

 レミたちの目的は、逃避行でもロマンスでもなかった。新たな能力者のスカウト、それが指令だった。

 レミはちらりと少年を見やる。一見したかぎりでは普段のとおりだった。しかし、なるべく気にかけなければならない。気持ちをあらためる。

 今回は、能力者による世界統治を目指す統制派、その構成員によって家族を殺された、樋谷紅仁の初任務だった。

 その背景がために、レミは彼が共生派の仲間になったことを心から祝福できずにいる。飄々としているその態度の内側にどんな嵐が吹き荒れているか、その一端をすでに目の当たりにしていた。組織の設立理由からは明らかにはずれている。それを分かっていながらも、戦力不足に頭を抱える仲間たちをずっと目にしてきていたために、反対はできなかった。やりきれない気持ちを拳の中で強く握りしめる。

「それで、どういう風に仕事を進めればいいんですか、先輩」

「難しい質問ですね、後輩。甲といると不思議なことばかりです」

 紅仁が眉をひそめた。レミは目を閉じてもう一度、気配を探る。

 能力者同士は互いの気配を感じることができる。個人差はあるものの、通常は同じ島にいるかどうか程度の精度だが、能力が使われているまさにそのときであれば方角も感じ取ることができた。

 レミはその感知力が共生派の中でもかなり鋭敏で、能力が使われていないときでもおおよその方角を探ることができた。

 だからこそ、困惑していた。

「また気配が二つあるんです。しかも片方は、はっきりしません。まるで霧の中にある物体を見ているような」

 確かにそこにあるはずなのに、実態が掴めなかった。影しかない。普段なら草原に立つ大きな樹木ほどにイメージがくっきりとしていた。

「前に同じようなことは?」

 首を横に振る。

「霧中の逃避行か。なかなかロマンスだね」

「自分たちが隠れるのか、何かが潜んでいるのかでだいぶ変わる気がしますが」

 五里霧中でも、とにかく踏み出すほかなかった。鬼が出るか蛇が出るか。

「それで方角は」

「北ですね。宮殿の方です」

 レミは家々の間から覗き見える、その建物を指差した。ピキャルタの王城ほどの威厳こそないが、それは確かにこの島では一番目立っていた。

 レンガがうず高く積まれ、尖塔が左右それぞれに立っている。中央は緩やかな弧を描いていて、遠目からだと猫の顔のようにも見えた。

「じゃあ、とにかく向かってみようか、霧の中に立つお城へ」


 レミと紅仁は乗合の馬車に揺られていた。記憶に新しい、刃物の鈍い光と鉄と似た血の臭いが頭をよぎる。一歩間違えば人命が失われていた。それも自分を庇ったせいで。襲撃犯は捕まっていない。

「それにしてもいいのかな。俺たちは呑気にスカウトなんてしていて」

 紅仁があごに手を当てて、首を傾げていた。

「これも立派な任務です。前線は小康状態ですし、麗華も詰めています。この前までは隙間であっても戦力を集中させないといけなかったことを考慮すれば、動ける間に仲間を増やすのは必須です」

「麗華さんか。ピキャルタを出る前に会った人だよね。あのなりで共生派のナンバースリーなんだよね。畏れ入るよ」

 紅仁の表現に苦笑する。

 麗華。身体にぴたりと張りつくような赤いドレスを着ていることの多い女性だった。色鮮やかな髪飾りも華やかな印象を強調していた。つり目で自信にあふれた表情が似合っていた。しかし、もっとも目立つ特徴は別にあった。それは種族としてのものであって殊更奇怪ではないのだが、最初は驚いてしまうのも無理はない。

「とてもそうは見えませんからね。戦いになるとまるで雰囲気が変わりますが」

「訓練を遠巻きに見ていたけど、圧巻だったよ。お茶すらのどを通らなくなった」

「それは甲がむせただけです」

 レミが幼い頃から麗華は戦地を転々としていた。その最中でも、本部へ立ち寄るたびに世話を焼いてくれていた。幼いレミは出征のたびにべそをかいて困らせていたようで、そのことを今では本人からも心那からもよくからかわれる。

「むせたわけじゃないよ。飲んだときと咳のタイミングがかぶっちゃっただけ。ちょっと変なところに入っちゃってね」

「それをむせたといいます」

「いやいや、花粉症なんだ」

「さっきと理由が変わってますよ」

 紅仁と二人で任務へ行くように告げられたときのことを思い出す。誰かとペアになるのは久々だった。それも出会ったばかりの相手だったが、不思議と違和感はない。彼の妹から「兄貴の相手は大変だよ」と言われて少しだけうなりはした。

 それでも憂い以上に、どこか高揚する気持ちがあった。

「そうだ。船では任務の話ばっかりで聞きそびれてた。レミは前にこの島に来たことがあるんだよね。どんな印象のところなの」

「印象。そうですね」

 問われて、幌の中を見回す。他島からの人間と思しき人々はともかく、乗り合わせている地元の住民の表情はどこか暗い。ここで話してよいか迷う。

「どこでも小麦を見ますね。島で一番の特産物で、島民の多くが栽培か加工のいずれかに勤めています」

「小麦ってことはパンだね。確かにいい匂いがあっちこっちからしていたよ。他には」

「このケレスもピキャルタと同じく王政です。現在の王になってから十年以上は経っていたと思います」

「その人はどんな人か知っている?」

「いいえ、詳しくは。ただ……」

「ただ?」

「ちょっと寄ってください」

 顔を寄せる。紅仁の赤い瞳が間近に迫った。初めて見たときもだったが、どことなく影を持った濃い色味に惹きつけられる。「レミ?」と促されて、我に返った。

「王についてはよくない噂が数多くあるんです。それが国全体に影を落としています。具体的には私腹を肥やしているとか、島民に過度な負担をかけているとか。麗華たちに言わせると王政ではよくあることらしいですが」

「なるほど、悪政ってやつだね。港ではあまり感じなかったけどなあ」

「表に出てきていなかっただけかもしれません。少なくとも、数年前に乙が訪れたときは、お世辞にも良い環境とは言い難かったです。特に目立っていたのは、孤児でした」

「たくさんいるってこと?」

 レミは首を縦に下ろす。実際に目の当たりとした光景がよぎる。活気のないバザーで時折上がる怒声の方向へ視線をやれば、十中八九は孤児による盗難だった。店主も盗んだ子供もどちらもやせ細っていた。

「そういう子たちって親御さんは」

「分かりません。亡くなっているのか、それとも育てることができない状態で捨て子となっているのか」

「それで島としては何も策は立ててないと。それはなかなか嫌な状況だね」

 確かにそのとおりだった。問題は目の前にあるのに、それを国としてどう捉えているのか不透明で解決の目途がない。

「王様に抵抗している人はいないの」

「少なくとも乙は把握していません。もしかしたらいるのかもしれませんが、みんな生きることに必死なのだと思います」

「それじゃあ、ほかの島は」

「ほかの島が介入してしまえば、戦いになる可能性が高まります。他国の内側に口を出すわけですから。その混乱を統制派は見逃しません。能力者の紛争に一度巻き込まれれば、生活はさらに悪化するでしょう。だから余計に誰も拳を上げることができない。ひょっとすると、王様もそれを見越しているのかもしれません」

 実際、統制派と共生派の関係していない戦いへあとから統制派が参戦したことがあった。共生派は間に合わず、その島は敵方の勢力下となったまま戻ってきていない。以降、共生派はその話を広めて紛争の抑制に努めているものの、それでも島同士での戦いが起こることは時折ある。

「共生派は動かないの」

 続けての問いにレミは「それは」とつぶやいて、言葉に詰まる。

「動けない理由は」

 紅仁にすぐ察せられた。あごに力がこもる。レミ自身も忸怩たる気持ちを抱えていた。

「共生派の方針です。甲等には力があります。だからこそ、介入には慎重なんです。能力者への偏見が増長されるかもしれないから」

 強い力は恐怖を生む。無理やりに押さえ込めてしまう。レミたちにそのつもりがなくとも、いつその牙が向くかと警戒される。

「なるほどね。それは仕方ない」

 紅仁は右手をひらひらと振る。一見もの分かりがよい。

「本当にそう思っていますか」

「本当本当。俺、生まれてきてから嘘は百回しかついてない」

「累計としてはかなり少ない気がしますね」

「今ので百一回目かな」

「百回が嘘なら百一回目も嘘だから一万回くらいじゃないですか」

「メモリアルだ。お祝いしないと」

 手を叩いて興奮した様子を見せる。衆目が集まった。旅行者の瞳には興味や嫌悪が浮かんでいる中、この島の人間と思しき人々のそれは、どんよりとしていて光がない。

 なんとかしたい。その気持ちはあった。けれど、動いて事態が好転するとは限らない。それも理解していた。拳を握る。共生派は、能力者もそうでない人々も隔たりなく救う組織のはずだった。

「そろそろ街かな」

 紅仁が御者席の方にある幌の間から外を覗く。レミもそちらに目を向ける。その隙間からは確かに、都市部への入口となる小さな塔が見えた。

 そのとき、身体の中に熱い鉄の杭が飛び込んできたような衝撃が飛び込んできた。その感覚はよく知っているものだった。

「能力者の気配です。しかも、能力を使ったようです」

「本当に。街が近いのに、何したんだろうね」

 返事をしようとして、続けて訪れた感覚に言葉を失った。霧の中に陽の光が差し込んだようだった。この島に入ってからずっと感じている、不自然な気配。

「降りましょう。方角は北東です」

「合点」

 正体は掴めないが、二つの能力が使われているのは間違いなかった。戦闘の可能性が高い。レミは紅仁と連れ立って席を立った。走行中に突然立った客に驚き、御者は反射的に手綱を引いてしまい馬がいなないた。彼らを尻目に、二人は幌馬車を飛び降りる。

 その背後。

「ほう」

 二人から遅れて出てくる影が一つあった。レミが他の島の人間と判断したうちの一人だった。シルクハットを目深にかぶっており、それはどこか生気を押さえているようだった。

「勘に頼る性質ではないですが、さすがに賭けたいですね」

 つぶやいて、二人を追い出した。


 グレーの瞳の少年はハンチング帽を押さえながら走っていた。帽子からわずかにはみ出した瞳と同じくグレーの髪が激しく動く。

 自分はなぜあんな男に追いかけられる羽目になったのか。思い当たる節はない。商人からは何度も逃げたことがあった。それとは毛色が違う。おまけに、慣れた裏通りを使っているのにまるで振り切ることができない。裾の擦り切れた茶色のジャケットには、土汚れがついてしまっていた。これでも大事にしている一張羅だった。舌打ちも漏れる。

「なぜ逃げる。俺はお前を害する気はないというのに」

 狭い空間に声が響く。同時に、眼前の地面が持ち上がって壁になった。手品を見ている気分だった。

 けれどもっと信じられないのは。

 少年は両手をその壁に押しつける。誰に教わったわけでもない。本能が動き方を教えてくれた。雪が雪崩れるように壁が崩れ、足元に土くれの山が出来上がった。

 どうしてこんな芸当ができるのか。

 あまりに色々なことが起こりすぎていて、考えることを放棄しかけていた。

「やはり崩すか。面白い。お前の気配も能力も」

 男の声は背後から飛んできた。ぼんやりしている暇はない。

 思い返してみても、こんなことになる予感はなかった。街の清掃、物の運搬、いつものとおり小銭稼ぎに勤しんでいた。手段を選ばないならもっと実の入りのいい仕事もあった。けれど、なるべく真っ当な生活をするよう心掛けていた。金の足りない分は、野草に木の実に魚と自然の中にある存在で埋めていた。

 そうでなければ、胸を張ることができないから。

 それなのに。少年は辟易とする。どうして逃げ回る羽目になっているのか。

 追ってきている男に見覚えはなかった。黄土色の重たそうな上着を羽織っていて、ズボンも同色だった。地面が人間の形をとったような服装をしていた。体格は特徴のない大人の男のものだけれども、纏っている緊張感はそこらの一般人とはまるで異なっていた。こちらを制圧しようとしているような、重く息苦しい空気が漂っていた。

 そもそも、壁を一瞬で作り出す時点で普通とはかけ離れている。

 ずいぶん前から違和感はあった。日に何度か胸がざわつく瞬間があった。体内で波が起きているような感覚だった。大抵は小さなものだったが、ときには大きく振動した。その正体は、どうやら今まさに対している男の力らしい。目の前に壁を作られるたび、巨大な飛沫が上がったからだった。

 裏通りを抜けて、門の前へ飛び出す。兵士の詰めている尖塔があった。普段なら近寄ろうとしない場所だったが、背に腹は変えられない。自分を救う心を持っているかどうかは二の次でよかった。土を瞬時に勃興させるような変人を放置しなければ十分だった。

「遅かったな。イタチみたく飛び回るから、もっと早く来るものだと」

 そこには、先回りした男が立っていた。その横に詰所の兵士がのびていた。ご丁寧に身体に土を盛られている。土砂崩れに呑まれたかのようだった。

「あのさ、おっちゃん。初対面でいきなり仲間になれって命令されて、いいよってうなずく奴はそういないぜ。そんな奴は警戒した方がいいくらい」

「それは残念な話だ。それなら少し茶でもしてみるか」

「それはそれで嫌だな。文字どおり泥を啜らされそう」

「なかなかうまいことを言う」

 男の唇の端が持ち上がる。好意は感じられない。少年は後ずさりしつつ、足元に警戒する。信じがたいものの、事実この男は地面を変形させる。

「俺はテーという。統制派という組織のメンバーだ。統制派と共生派の戦争は知っているか」

「なんとなくは」

 暮らしている中で耳にした記憶はあった。どちらも能力者の集団で、戦争をしている最中だと。それ以上のことは分かっていなかった。毎日を生き抜くことに必死で、他人の争いに関心を割いてはいられなかった。

「統制派は能力者による統治を目指している。なぜだか分かるか」

「オイラが分かると思っているのなら、目か頭の手術をしてもらった方がいいよ」

「能力者は蔑まれているからだ。お前にも分かるように言うならば、いじめられているといったところか」

 少年の言葉を黙殺し、テーは続ける。その語気には憎しみが滲んでいた。

「能力者としては蔑まれたことがないかもしれないが、その感覚は知っているはずだ。この国の孤児なのであればな」

 いくつもの記憶が揺さぶられた。自分を認識したときにはすでに疎まれていた。味方は少なかった。自分たちのような存在は、大概そこにいないものとして扱われた。悪事を働いたときだけしか世界にいることを認めてもらえなかった。

「無能な者たちに軽視されるのはおかしいと思わないか。俺の元に来れば、手始めにこの国が変わるところを見せてやろう。愚かな王を排除し、選ばれた存在である我々がすべてを導く。誇っていい。お前は特別な存在なのだ」

 テーが歩み寄ってくる。塗り固められた土台のような強靭な存在感があった。眼前に立たれると、もはや壁が立ちはだかってきたような印象だった。

「俺と来い。お前を蔑んだ者たちに復讐するのだ」

 少年はテーの視線を正面で受け止めた。そのうえで、動く。

 相手の股へ勢いよく膝をぶち込んだ。

 テーののどから「んお」という、情けない声が漏れた。身体がくの字に折れる。

 少年は元気よく笑った。

「悪いけど、興味ないよ。仕返しなら自分たちだけでやって」

 言うだけ言って、少年は男に背を向けた。駆け出すつもりだったが、目の前に別の男女が立っているのに気がついて止まった。後ろから「貴様」と呻きが聞こえたのと、身体を引っ張られたのは同時だった。

 一瞬前まで自分が立っていた場所に、ぽっかりと穴が開いた。獲物を丸呑みしようとしているようだった。

「金的かますなんて素晴らしいセンスだよ。今日からぜひ弟子入りさせてほしいね」

 少年を抱き寄せた男が朗らかに告げた。白いワイシャツに深緑のズボンを履いている。背は高い方だった。テーを視線で牽制している。

 隣に立つ女が「甲もこの前やっていましたよね」とのんびりした口調でつぶやいた。こちらは半袖の無地のシャツに、七分丈の白いパンツで、シンプルすぎる出で立ちだった。

 二人とも少年よりは年上だったが大人と呼ぶ歳ではなさそうだった。

「貴様ら、共生派か」

「あの、無理に恰好つけなくても大丈夫ですよ。股間やられて痛いでしょう。ジャンプした方がいいですよ、ジャンプ」

 男はすごむテーにまったく動じない。女の方も同様だった。片方はあっけらかんとしていて、もう片方は眠たげ、少年は自分の方がおかしいのかと疑いさえした。

「金色の髪に青い眼の若い女。烈火か。ふん」

 テーは三人を見渡すと、鼻を鳴らした。

「あの、痛くないですか。大丈夫ですか」

 再び横槍を入れた男を無視し、テーは少年へ視線を注いできた。

「貴様が我々の元へ来ないというのなら、破滅へ向かうのみだ。次に会うときまでによく考えておけ。愚か者たちを指導する立場として君臨するのと、その命を散らすとのとどちらがましなのかを」

 男が足を慣らすと、轟音とともに少年たちの眼前で地面が勃興した。幅一〇メートルほどの即席バリケードが左右に伸びる。その向こうからは、この場から遠ざかっていく足音が聞こえていた。

 あとには少年と男女、それから意識の戻らない兵士だけが残った。騒ぎを聞きつけたのか、街の方向から喧騒が迫ってくるのが聞こえる。誰かに見つかると厄介だった。こまめに積み上げた実績など、孤児というだけで瞬く間に吹き飛んでしまう。

「助かったよ、兄ちゃん。悪いけど、お礼はまた今度ね」

 少年は男の腕からするりと抜け出し、街に向かって駆けだした。「待ってください」と女の制止は耳に届いたが、そういうわけにもいかない。「ありがとね」と手を上げた。

 自分だけなら相手をしてもよかった。しかし、今はそういうわけにいかない。

 大通りへ出る。城の近くは建物も道も石造りが基本だが、このあたりは土と木製の家で埋まっていた。両サイドには露店が並んでいる。客引きの声に覇気はない。通り過ぎる大人たちは、誰も彼も表情が暗かった。昔はその理由が分からなかった。自分たちのような存在が原因なのかと考えたこともある。正解の一部ではあっても大当たりではないと分かったのは、盗みをやめてからだった。

 影のような人々の間を通り抜けていく。誰も彼もぼんやりとしていて、持ち物をすろうとすれば簡単に成功してしまう。持ち主と同じくらい悲劇的な中身ばかりで、旨味はまったくなかったけれど。

 そんな灰色の世界の中、それでも一部には色彩が挿している。やせ細った露店の男性が、少年に気がついて「やあ」と力なく身体をゆすった。

「しばらくぶり、ディランス。調子はどうだい」

「まあまあかな。今日はちょっと微妙だけど」

「確かに顔色があまり良くないね。仕事のし過ぎなんじゃないの。あんまり無理しないようにしなよ」

「そういうんなら、無理しなくてもいいように金を恵んでくれよ」

「そんなお金があったら、こんなところで日がな立ってないさ」

 軽口をさんざ叩き合ったあと、少年は二切れの食パンを買ってその場を辞した。おまけだと、形が歪なだけのパンもつけてもらってしまった。この島の人々になら、きちんと売りものになるものだった。申し訳なさとありがたさとが混ざる。元気はなくても、温かさがあった。

 そのあとも点々と色は咲いていた。昔語りの多い老人、足の悪い老婆、見回りといいながらさぼっている不真面目な官兵、彼らは少年の世界の中でとても鮮やかだった。話していると自分も色づいたような、そんな気持ちになれた。

 少年は大通りの隙間にある細い路地へ入った。足を止め、薄暗い影の世界を見つめる。以前にはここにもたくさん色があった。それなのに今は、重たい灰色だった。餌を探している猫たちくらいしか存在していない。

 前はここに多くの孤児たちがたむろしていた。馬が合う連中がいる一方、少年を見るや舌打ちをする連中まで色々だった。それがすっかり消えてしまっていた。ここにいないだけならともかく、この島で見かけること自体なくなっていた。

 朽ちたアパートへと入る。埃だらけで視界は白い。掃いても掃いてもすぐに溜まってきてしまう。冬場は寒いくせに今は今できっちり暑い。穴だらけで風通しがよくなっているのが救いだった。それに雨風をしのげるだけでも文句を言えなかった。

 二階に並ぶうちの一室は、扉も生きていた。木製のそれを叩く。湿り気のある鈍い音が鳴った。

「ラス、ディランスだ。戻ったよ」

 ほどなくして、内側から鉄の擦れる音がした。ゆっくりと扉が開く。

 飛び込んでくるたび、少年はその鮮やかな藤色に嘆息する。

 ディランスと同年代の少女が立っていた。前髪は不揃い、後ろは紐で簡単に留まっている。背は小さい。ディランスは扉の取っ手が胸のあたりの高さにくるが、彼女は首あたりだった。身体も細い。くたびれた白いワンピースを着ていた。貧相と言われてもおかしくない。しかし、少年を前にして笑顔を咲かせている姿には似合わなかった。

「お、か、えり」

「ただいま」

 たどたどしい彼女の言葉に、ディランスは満面の笑みを返した。

 彼女、ラスもまた孤児だった。出会ったときは言葉を発することもできず、今以上に弱々しい身体だった。それでも、そのときから彼女は鮮やかだった。ディランスの世界から灰色を吹き飛ばしてしまうほどに。

 一人で生きることすらいっぱいいっぱいだったのに、ディランスは彼女へ食べ物を渡すばかりか、そのときのねぐらへ連れて帰ってしまった。何度思い返しても、この島の人々へ元気を出せと叫んで回るくらい、おかしな行いだった。

 それでも、この藤色を前にするたび、これで良かったとしか考えられなかった。

「そうだ、これ今日の分。おまけしてもらっちまった」

 パンを彼女に差し出す。ラスは嬉しそうにこくこくとうなずき「あり、がと」と微笑んだ。全身がほんのり温かくなる。

 けれど長続きはしなかった。さざ波の感覚があった。二つの波が交互に刺激してくる。廊下に出て、ひび割れた窓から外を見た。

「いたよ、レミ。座敷童だ!」

「ごめんなさい、ちょっとこの方は残念なんです」

 つい先ほど顔を合わせた二人組だった。

 これから大きな何かが起こる予感がした。

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揺らぎ火と飛び火の任務記録Ⅳ 星野 海之助 @bunasyan

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