妖怪なんでも相談所【春夏秋冬・短編集】
まさかミケ猫
妖怪なんでも相談所【春】
その里山の中腹には、葉桜に囲まれた大きな日本家屋が建っていた。爽やかな風が吹き抜け、淡い花びらがはらりと舞う。
こんな状況でなければ、私も素直にこの景色を楽しんでいたのかもしれない。だけど。
――新宿駅の地下からこの場所に繋がるなんて、私には到底信じられなかった。
◆
私は
大学入学と同時に上京したばかりの十八歳だ。
地元は関東某県にある町で、そこそこの田舎感が漂っている平凡な土地だった。
私の実家は豆腐屋を営んでいて、特別に贅沢な暮らしもしていなかったけど、これといって困窮もしていない。我ながら、本当に普通の人生を送ってきたと思う。
そんな私が最初の違和感を覚えたのは、大学に入学してすぐのこと。友だちのカナコが、私の一人暮らしの部屋に遊びに来た時のことだ。
「一人暮らしはどう? 彼氏できた?」
「あはは、彼氏なんて無理だよ。チャラ男のナンパを躱すので精一杯だって。でも、一人暮らしはちょっと楽しいかな。自由だし」
「いいなー、あたしもサツキみたいに東京に出ればよかったよー」
まぁ、一人暮らしが楽しい、っていうのは強がりだったんだけどね。本当はちょっとだけ気が滅入っていた。家族も知り合いもいない環境で、少しずつ心を擦り減らして。
そのことをカナコにすら素直に打ち明けられなかったのは……たぶん、自分でも認めたくなかったんだと思う。夢の一人暮らしが、思っていた以上に味気ないだなんてこと。
「夕飯はサツキの手料理を振る舞ってくれるんでしょ? 未来の彼氏クンに出しても問題ないか、あたしがチェックしてあげるから」
「これでも最近は腕を上げたんだよ?」
「本当かなー。どうも怪しいんだよね」
そうして、カナコとあれこれ話をしながら、私は米を研ぎ始めた。
――米を水で湿らして、かき混ぜながら、ギュッギュッと力を込めていく。その度に、小さな粒が擦れあって、小気味よい音を立てる。濁った水を入れ替えれば、気持ちもリセットされて。そしてまた、手触りのいい粒の中に、そっと手を差し入れる。かき混ぜながら、ギュッギュッと。
「――サツキ! ちょ、聞いてるの?」
「へ?」
「へ、じゃないよ! あんた、いつまで米を研ぎ続けるつもり? まるで、何かに取り憑かれてるみたいでさぁ……ねぇ、本当に大丈夫なの?」
カナコが何を言っているのか、私には理解できなかった。だって、私は普通に米を研いでいただけだ。変なことなんて、何もしていない。
「米を研ぎ始めてから、もう二時間だよ?」
「え、あ、うん……そっか」
「サツキ、なんか変だよ。今日はあたしの奢りでいいから、どっか外で食べよ」
カナコが私を心配してくれているのは理解していた。だけど、腑に落ちなかった。
だって私にとっては、お米というのはこれくらい研ぐのが普通だったし、その気になれば一日中だって研いでいられた。むしろ、都会の喧騒を忘れて没頭できる、癒しの時間だったから。
しかし、おかしいのは私だったらしい。
ネットで調べると、米を研ぎすぎるのは栄養が流れるから良くないと書いてある。同じ学部の子は「米を研ぐのは面倒」「無洗米がいい」なんて言っていた。
――何時間も米を研ぎ続けるなんて、ちょっとしたホラーだよね。
誰かの言った悪気のない言葉が、耳の奥にずっと残っている。私は一人暮らしの部屋で、気がつけば涙を零していた。どうやら私にとっての普通は、他の人には異常らしい。
そうして、少しずつ、少しずつ。
私は生きる気力を奪われていった。
そんなある日のことだった。
その日は小雨が降っていて、傘を忘れた私は、沈んだ気持ちのままアパートまでの道を歩いていたんだけど。
「おい……大丈夫か?」
そう声をかけてきたのは、見ず知らずの女の子だった。歳は高校生くらいか。ゴスロリとパンクを足して二で割り切れなかったような、不思議な服装。ペロリと長い舌の先にはピアスまでついて、それが妙に似合っている。
きっと彼女は、自分の好きなものを貫いて生きているんだろう。私とは大違いだ。
彼女はレースのついた手の込んだ傘の中に私を招き入れる。
「昔のあーしを見てるみたい」
「へ?」
「はぁ。放っておくのも癪だかんな」
彼女は私の手を取った。
その手は、なんだか妙に温かくて。
「あーしは
「え……その。どこに私を連れていくの?」
「妖怪なんでも相談所。そこの所長はあーしの……うーん、兄貴みたいな存在なんだ。あんたの悩みもズバッと解決しくれるぞ」
「よ、妖怪? えぇぇ……」
何やら怪しい宗教団体か、妙なセミナーにでも連れて行かれるんじゃないだろうか。
そうして警戒しながらも、私はなぜかナナセの手を振り払うことができず、そのまま手を引かれて歩き続けた。
気がつけば、そこは新宿駅だった。
私はフワフワとした気持ちで、未だに全容を掴めない迷宮のような地下道を進む。手を引かれるまま、不思議なルートを通り、角を曲がると。
その光景に、私は自分の目を疑った。
――里山の中腹に、葉桜に囲まれた大きな日本家屋が建っていた。これは、どういうことなんだろう。
◆
新宿の地下がこんな場所に繋がっているとは、とても信じがたい。しかも、さっきまで降っていたはずの雨の痕跡もなく、カラッと晴れていた。
そのままナナセに手を引かれ、日本家屋の中に踏み入る。
「いらっしゃい。ナナセから連絡をもらって待っていたよ。こっちの縁側に座るといい」
私を出迎えてくれたのは、和装の男性だった。すらりと手足が長くて、柔らかい空気を纏っているけど。いったいどういう人なのか。
「ふむ……そう警戒しなくていい。ここは妖怪なんでも相談所。僕は所長の
「あの、でも私……妖怪なんて……」
「そうだなぁ」
すると、所長の佐取さんは両手を狐の形にしてから、不思議な形に指を組んで、そのすき間から私を覗き見た。ゾワリ、と背筋を悪寒が走る。
「あぁ、君は感覚が鋭敏な子なんだね。怖がらせてしまって悪かった。だいたい分かったよ」
「はぁ」
「とりあえず、縁側でお茶でも飲みながら、君の話を聞かせてもらえるかな。何か力になれることがあるかもしれない」
そうして、私は流されるまま移動していく。
――あぁ、どうしてこの場所はこんなにも落ち着くんだろう。
暖かい春の日差しの中、縁側から見える庭園では、小鳥たちが呑気に遊んでいる。心の表面ではずっと警戒していたはずなのに。気がつけば、私は初対面の佐取さんに色々なことを話してしまっていた。
実家の豆腐屋のこと。一人暮らしを始めてから、何かが物足りなかったこと。米を延々と研いでいるのを、おかしいと言われたこと。
「なるほどね……サツキさん。僕には君の状態が手に取るように分かるけど。それを口で説明したところで、理解してもらえるとは思えない」
「は、はぁ」
「だからね……あぁ、ちょうどナナセが帰ってきたようだ。実はお使いを頼んでいたんだよ」
お使い? というのは、何だろう。
「試しに、これから僕の言う通りにしてみてほしいんだ。たぶんそれで、君にも問題の本質が理解できるだろう」
◆
――桶に張った水からザルを上げれば、そこには山となった小豆が光を反射して、宝石のように輝いていた。手を差し込めば、ジャラリと小気味よい音が耳に響き、あらゆる憂いが洗い流されていく。ジャキジャキ、ジャキジャキ。小豆を揉んで綺麗にして、ザルをまた水に沈めて。そしてまた持ち上げれば、小豆はまた少し輝きを増していて。
「サツキさん。ずいぶん楽しそうだね」
「はい! ありがとうございます! なんでこんな楽しいこと、これまで誰も教えてくれなかったんだろう。ふふふふふ」
「うん。手を動かしながらでいいから、僕の話に耳を傾けてくれるかな」
そうして、佐取さんは優しい声色で私に語りかけてくる。
「明治時代のことだ。かつて日本に暮らしていた妖怪たちは、滅亡の危機に瀕していた。というのも、西洋化の影響で、人間が妖怪たちの存在を信じようとしなくなったからね。そうなれば、妖怪たちは存在を保てない。それで仕方なく、彼らは正体を隠して人間社会に入り込んだ」
「は、はぁ……そうなんですか……」
「サツキさんのご先祖様もそうだよ」
私は思わず手を止める。
私のご先祖様が、妖怪?
「君のひいひいお祖父さんは、小豆洗いという妖怪だった」
「え……あ……」
「実家の豆腐屋では、お父さんが大豆を洗う音を聞いて育ったんだろう? しかし一人暮らしを始めた君は、その音を聞けなくなった。物足りなさを感じていたのはそのせいだ。米研ぎに夢中になっていたのも、理由は同じだよ」
言われてみれば、納得しかない。
私には妖怪・小豆洗いの血が流れている――改めてそう考えると、何かがストンと腑に落ちた。あぁ、そうだったんだ。
「そうだね。これからのことだけど……もしよければ、この屋敷でアルバイトをしないかい?」
「アルバイト?」
「君には小豆を洗って、美味しいあんこを手作りしてもらう。なにせここは妖怪なんでも相談所だからね。君のように、妖怪の血を引いた者たちが、ひっきりなしに相談に来る。お茶請けとして、和菓子があるといいなと思ってたんだ」
私の胸が、トクンと小さく跳ねる。
目の前には、私の心を見透かしたように微笑む佐取さんがいて。建物の陰では、雨でもないのに傘を差したナナセが、ちらちらとこちらを伺っていた。私はなんだか急に可笑しくなってしまう。
「――妖怪なんでも相談所。ぜひ私にも手伝わせてください。美味しいあんこを作ります!」
◆
新宿駅の地下道の先には、不思議な場所が存在する。なんだか奇妙で、驚くことがたくさんあって、でもすごく温かくて。どうやら普通じゃないらしい私が、私のままでいられる、そんな場所。
ようこそ、妖怪なんでも相談所へ。
あなたのご先祖様は、どんな妖怪でしたか?
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