第11話 中庭に集うもの

「アハハ……アハ……」


玄関ドアの内部から、くぐもった老婆の笑い声が響く。 ドアスコープのレンズの奥で、充血した巨大な「目」が、楽しそうに詩織の狼狽(ろうばい)を観察している。


バンッ!! バンッ!! バンッ!!


背後。和室の襖が、今にも蝶番(ちょうつがい)から外れそうだ。 "美咲"の力ではない。あの無数の「手」が、コンクリートの壁ごと突き破ってきそうな、暴力的な破壊音。


(ダメだ、ここにいたら、挟まれる!)


詩織は、玄関の「目」から呪縛を解くように頭を振り、リビングの奥——ベランダに通じる、大きな掃き出し窓へと、もつれる足で走った。


「開け……! 開いてよ……!」


ガラス戸に体当たりするようにして、鍵(クレセント)に手をかける。 古い団地のサッシは、建付けが悪く、異様に硬い。 恐怖で指先から血の気が引き、力が入らない。


ガタガタと窓を揺さぶっていると、夜の闇を反射する窓ガラスに、自分の怯えきった顔が映った。 ——そして、その背後。


リビングの奥、さっきまで砂嵐を映していたテレビが、今は黒く沈黙している。


詩織は、その真っ暗なブラウン管の「表面」に、何かが映り込んでいることに気づいた。


(ちがう、反射じゃない)


黒い画面の、その奥から。 まるで、水面に浮かび上がってくるかのように。


さっき襖を突き破って覗いていた、あの充血した巨大な「眼球」が。 一つ。 また一つ。 そして、無数に。


テレビ画面いっぱいに「観客の目」が浮かび上がり、一斉に詩織を見て、楽しそうに瞬きをしていた。


「ヒィィィィィッ!!」


詩織の絶叫と共に、ガチャン! と金属音が響く。 ついに鍵が開いた。



詩織は、窓を乱暴に引き開け、ベランダへと転がり出た。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


冷たい夜風が、汗だくの体に突き刺さる。 コンクリートの手すりを掴む。ここは4階だ。飛び降りることは、できない。 ここは、ただの行き止まり。


だが、部屋の中よりはマシだった。


詩織は、手すりから身を乗り出すようにして、震えながら眼下を見下ろした。 団地の中庭。 そこは、弱々しい街灯が一つだけ点る、薄暗い土の広場になっている。


(誰も……いない……)


安堵しかけた、その時。


いた。 街灯の、ぼんやりとした光の輪の中。


老若男女。十数人。 この団地の住人らしき人々が、そこに立っていた。


全員が、微動だにしない。 全員が、まるで、詩織がここに出てくるのを最初から知っていたかのように、真上を。 まさに、詩織がいる、この「404号室のベランダ」を、じっと、見上げていた。


詩織が、彼らの視線に気づいた。 その瞬間。


十数人の住人たちが、まるでオーケストラの指揮にでも合わせるかのように、ゆっくりと、一斉に。


にたり、と。


あの"美咲"が、あの"母親(明音)"が浮かべていたものと寸分違わぬ、裂けたような笑みを浮かべた。



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