第5話 写りこんだ「手」

詩織は、足元の水たまりを見下ろしたまま動けなかった。 気のせいでカナい。幻覚でもない。 タイルには確かに、小さな裸足の足跡のような形で、水が溜まっている。


「お姉ちゃん? 本当にどうしたの、変だよ?」 浴室のドアが再び開き、美咲がタオル一枚の姿で顔を出す。


「……ううん。美咲が水、飛ばしたんでしょ。早く拭かないと」 詩織は、自分の声が震えるのを必死で抑え、近くにあった雑巾でその水を乱暴に拭き取った。


雑巾が、じっとりと冷たい水を吸う。 そして、ツン、と鼻をついた。 あの匂い。押入れの奥の、カビと甘ったるい香が混じった匂い。


(なんで……水から、こんな匂いが……)


「えー? 私、そんなに飛ばしてないと思うけどな。ごめんごめん」 美咲はあっけらかんと笑い、自分の部屋着を取りにリビングへ戻っていった。


その無邪気さが、今は詩織にとって救いだった。 (美咲は気づいていない。美咲には、見えていない)


詩織は固く絞った雑巾を握りしめた。 守らなければ。 この家は、やはり「何か」がおかしい。


重い足取りで大学へ向かう。 団地の一階エントランスは、朝だというのに薄暗く、人気(ひとけ)がない。


「……」


エレベーターの「▼」ボタンを押す。 ガコン、という重い音を立てて、旧式のエレベーターが4階に到着した。


開いたドアの向こうは、もちろん無人だ。 詩織は乗り込み、「1」のボタンを押した。


ドアが閉まり、ゆっくりと下降を始める。 4階……3階……。


ガコンッ!


突然、エレベーターが揺れ、停止した。 「2階」のランプが点灯している。


(誰か、乗ってくるんだ)


詩織は無意識に息を止めた。 プシュー、と圧縮空気が抜けるような音と共に、ドアが開く。


誰も、いなかった。 2階の薄暗い廊下が広がっているだけだ。


だが、ドアが開いた瞬間、ひやりとした空気がエレベーターの中に流れ込んできた。 それと同時に、あの匂いも。


(気のせい。誰かがボタンを押して、乗らなかっただけ)


詩織は焦って「閉」ボタンを連打する。 ドアが閉まる、直前。


詩織は、確かに見た。 2階の廊下。その床に。


さっき洗面所で見たものと全く同じ、小さな、水浸しの足跡が。 エレベーターホールに向かって、点々と続いているのを。


大学の講義は、まったく頭に入ってこなかった。 昨夜からの出来事が、何度も脳内で再生される。


(あのテープ。あの声。寝言。少女の影。水たまり。足跡。匂い)


偶然にしては、出来すぎている。 何かが、あの押入れの奥から「漏れ出して」きている。


詩織は、スマートフォンのアルバムを開いた。 気を紛らわしたかった。昨日、引っ越した直後に撮った、まだ荷物がない状態の部屋の写真を、無意識に遡っていた。


(ほら、この時はまだ、何もおかしなことはなかった)


リビング。和室。キッチン。 そして——あの「押入れ」の写真。


まだ壁紙が貼られたままで、奥の空間に気づく前の、何の変哲もない押入れの写真だ。


「……?」


詩織は、何か違和感を覚えて、その写真を指で拡大(ピンチアウト)した。 上段の奥。 ベニヤ板が不自然に膨らみ、壁紙が貼られている、まさにその場所。


(あれ……こんな隙間、あったっけ……?)


壁紙は、写真で見ても確かに貼られている。 だが、その壁紙が一部破れており、そこから奥のベニヤ板の「隙間」が覗いている。


詩織は、スマートフォンの画面をさらに拡大した。 ノイズ混じりの暗い画像。その隙間に、何かが見える。


白っぽい、棒のようなものが、何本も。


「……あ」


詩織は、講義室の真ん中で、危うく声を上げそうになった。


それは、棒などではなかった。


まだ開ける前の、誰も存在を知らなかったはずの、あの押入れの奥の闇から。 壁紙とベニヤ板のわずかな隙間をこじ開けるようにして。


小さな、小さな子供の「手」が、何本も、何本も、こちら側を掴もうとするかのように突き出ているのが、はっきりと写り込んでいた。

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