……ころんだ
秦江湖
第1話 404号室
引っ越しのトラックが団地のロータリーを去っていくと、急に世界から音が消えた。
「……静かだね」
高森詩織(たかもりしおり)は、埃っぽいベランダの手すりから身を乗り出し、眼下に広がる均一な景色を眺めた。霞台(かすみだい)団地。コンクリートの巨大な箱が、等間隔に並んでいる。
夕暮れが近い。どの棟も、窓の多くは暗く、まるで無数の目がこちらを無関心に見つめているかのようだ。
「古いから、住人もお年寄りが多いんじゃない? 私たちには好都合だよ!」
背後で、妹の美咲(みさき)がわざと明るい声で段ボール箱を開ける。十八歳の妹は、こういう時、いつも詩織を気遣って道化を演じる。
両親が失踪にも近い形でいなくなってから、二十一歳の詩織が妹の親代わりだった。大学の奨学金とバイト代を切り詰めてようやく見つけたのが、この「404号室」だった。
(四階の、四号室。だから安かったのか)
迷信は信じない。信じている余裕もなかった。
「ねえ、お姉ちゃん! ここ、私たちの『お城』だね!」 「埃だらけのお城だけどね。さっさと片付けないと、今夜寝る場所もないよ」
詩織は苦笑し、部屋に戻る。二DK。畳は黄ばみ、壁にはシミが浮いている。だが、二人で暮らすには十分だった。
十分な、はずだった。
詩織は、部屋の空気に妙な圧迫感を覚えていた。シン、と静まり返っている。隣の部屋も、上の階も、下の階も、まるで誰も住んでいないかのように生活音がしない。
まるでこの建物全体が、分厚いコンクリートで音を吸い込んでいるようだった。
「よーっし、じゃあ私はこっちの押入れから!」 美咲が勢いよく襖(ふすま)を開ける。
「うわ、カビ臭っ! それに、なんか狭くない? この押入れ」
中板(なかいた)のある、典型的な和室の押入れだ。美咲が上段に潜り込み、壁をコンコン、と叩く音がした。
「お姉ちゃん、ちょっと来て。ここの壁、なんか変」 「変って?」
詩織がスマートフォンのライトで押入れの奥を照らす。ベニヤ板が張られた奥の壁。その一部が、不自然に膨らんでいる。よく見ると、古い花柄の壁紙が雑に上から貼られており、その端がめくれかけていた。
「なにこれ。前の住人が隠した……へそくりとか?」 美咲が冗談めかして、その壁紙の端を指でつまむ。
パリパリ、と乾いた音がした。
壁紙が、埃とカビの匂いをまき散らしながら剥がれ落ちる。
「え……?」
美咲の声が凍った。 詩織も息をのむ。
壁紙の向こうは、壁ではなかった。
ベニヤ板が、何者かによって意図的に打ち付けられている。そして、その板と板の間には、大人の拳一つ分ほどの隙間が空いていた。
スマートフォンのライトが、その隙間の向こうに広がる、深い闇を照らした。
押入れの奥に隠された、小さな、小さな「空間」だった。
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