第18話 夢に咲く

 タロのアルバイト先、よく行っていた地域の図書館、買い物で立ち寄ると聞いたことのあるスーパー。


 思いつく限りを清春と探した。

 清春の友人知人が見かけていないかと、聞き回った。

 けれど誰もタロを見ていない。タロの行方に思い当たるところがないと言う。


「…………」

「…………」


 すっかり暗くなった路地を進む清春と朝陽は、黙りこくっていた。

 暑い中、あちこちを駆け回ったのだ。疲れのせいで口が重い。

 けれどそれだけではなかった。

 重苦しい絶望がのしかかっていた。


 ふと、夜闇をとかす自動販売機の明かりが間に入る。足を止めた清春は自動販売機で買ったばかりのペットボトルを朝陽に寄越しながら、言った。


「……いっぺん、帰ろう。タロのやつ、家で寝てるかもしれねえし」

「……そうだな」


 同意したものの、朝陽は期待などしていない。

 日中、あちらこちらを巡る合間に何度も庵に戻ったのだ。

 もしかして帰ってきているかもしれない。何か手掛かりがあるかもしれない。

 わずかな希望は無人の庵に出迎えられるたびにすり切れ、砕かれ、もはや残っていなかった。


 庵に戻ったところでタロがいるとも思えなかったが、夜通し動き続ける気力もまた残っていない。

 そして何より、これ以上どこを探せばいいのかわからなかった。


 持って行きようのない思いを飲み下すように、ふたりは並んで黙り込んだまま、ただ喉をうるおす。

 

 ──いっそ昨夜のように非日常の時に足を踏み入れていると分かれば、まだ足掻きようがあるのに……。


 思ってみても、夜はいたって穏やかにいつも通り、朝陽たちを包み込むばかり。


「なあ、ひと晩。ひと晩待ってみよう」


 朝陽がぼんやりと眺めるのとは別の暗がりをにらみつけながら、清春が言う。


「明日の朝になっても戻らなかったら、警察に行こう。タロが戻ってきた時に気まずいとか、言ってらんねえ。オレたちを心配させるのがいけねえんだ」

「そうだな……」


 今すぐに、と言わないのは、かけらほどもない希望を抱えていたいからだろうか。

 寝て起きて、タロが帰ってきているという希望。


 ──そうなってくれたら、どんなに良いか。


 疲れと儚い希望を抱えて、朝陽は清春と別れた。




 夢を見ていた。

 夢を見ているのだと自覚しながら、夢のなかにいた。


 朝陽はやわらかな土のうえに立っている。

 水の豊かな場所なのだろう。萌え出たばかりの草の芽がまばらに彩る地面は、ふっかりとほころんでいる。

 顔をあげてみれば、なだらかな山に囲まれた平地に、まだ水も張られていない田んぼが広がっていた。


 冬だろうか。

 山の木々は葉を落として色をなくしている。けれど春が近いのだろう、裸枝がやわらかな陽射しを跳ね返し、どことなくふくふくと温もりの気配をまとっていr。


 農作業をしているのか、遠く田の合間を行く人の姿もある。ぽつぽつと見える家々と田んぼ、そしt広い空とが、なんとも落ち着く景色を作り出していた。


 ふと吹いたおだやかな風に誘われて視線を巡らせると、朝陽の背後には水をたたえた池があった。

 見渡すほど大きいわけではないが、澄んだ水が美しい池だ。

 ゆるゆると泳ぐ鴨の姿を眺めていると、不意に甘い香りが鼻をくすぐった。


 目を向ければ、池のほとりに佇む白い人の姿がある。

 タロの身に危機が迫ったとき、幾度か見かけたその人だった。


 これまで目にしたときには影のようで朧げにしか認識できなかったけれど、いまは夢のなかにいるせいだろうか。確かにそこに佇んでいるのが見てとれた。


 髪も肌も雪のように白く、美しい男だ。

 池に背を向け広がる田畑を眺める横顔。

 黒い着物をまとう立ち姿は、一幅の絵のように麗しい。


 この姿がまだ失われていなかったのだと知って、朝陽はほっとした。


「あなたは、タロの……」


 思わずつぶやけば、横顔しか見えなかった男の視線が自分に向いて、朝陽は瞬いた。


 ──瞳は紅いのか。


 白のなかに見つけた思わぬ色の鮮やかさ。ひどくしっくりくるその色合いに目を奪われる朝陽を、紅い瞳がじっと見つめる。


「静かに朽ち果てんとする矢先であったのだが」

「朽ち果てる……いなくなってしまうのですか?」


 朝陽は麟太郎の言葉を思い出していた。

 タロの守り手のような彼の残り香はずいぶん薄いから、もう消えてしまったのかもしれない、と。

 

 確かに、青く染まる一件のあとは白い姿もさわやかな甘さも香ることはなかった。

 タロが行方不明になって丸一日、朝陽は視界のすみにその姿を探したけれど、見つけられないまま眠りについた。


 ──なら、いま見ているこの姿も、すでに失われたものなのだろうか。


「朽ち果てた。ああ、この場所は朽ち果てたあの村だ。あの家もあの田畑も、この草地もこの池も、すべてみな、もはやこの世に無い」


 彼が口にするたび、家が、田畑が、草地が、池が、ゆらりと形を崩し輪郭を朧げにする。

 気づけば朝陽と白い男もまた、ゆらゆらとたゆたっていた。

 見上げれば、はるか高みにある空がゆらりときらめく。


 ──まるで水の底だ。この光景はもう、失われてしまったものなのか……。

  

「そう、すべては水底。村は沈み、暮らしは沈み、我もまた沈み。うつろう時の流れとともに過去へと押しやられ、忘れ去られるのみ。そう、思っていたのだが」


 つ、と男の視線が遠くへ向いた。

 水の膜で歪んだ景色のなか、ひとりの子どもが池のほとりを駆けてくる。

 五歳くらいだろうか。すり切れた着物をまとっている。その子どもの顔に、朝陽は見覚えがあった。


「タロ……?」


 年齢はちがうが、たしかにタロとよく似た顔立ちをしている。無邪気に笑う顔などそっくりだ。

 タロの兄弟だろうか、と目で追えば、子どもは朝陽の目の前を走り抜けて白い男に駆け寄った。


 はくはくと子どもの口が動く。水のせいか声は聞こえないが、白い男に話しかけているようだ。


 ──いや、ちがう?


 朝陽は目を凝らす。

 子どもが笑顔で話す先、白い男が立つ姿に何かが重なる。

 すらりと伸びた黒い樹皮の木。

 枝の繊細さとは裏腹に、幹は太く、ごつごつと無骨な姿をした木だ。

 タロに似た子どもはその木に向かって何事かを話しているらしい。


 白い男の姿は見えていないのだろう。

 その証拠に、男が視線を朝陽にむけてもなお、子どもはにこにこと顔をあげたまま話し続けている。


「こんな時があったんだな。あいつが覚えていないだけで、ちゃんと」


 記憶がない、空っぽなんだと話していたタロにも幼い時代の出来事は確かにあった。本人は覚えていないけれど、記憶しているものがいた。


 そうと知って思わず頬がゆるむ朝陽とは裏腹に、白い人は幼いタロを見下ろす。


「そう、只人であった。生まれ、育ち、やがて朽ちてゆくのを見送るうちのひとり。そのはずであったのに」


 言葉を途切れさせた彼の視線の先で、幼いタロがぐんぐんと背丈を伸ばす。

 まるで成長記録を早送りして見ているように、幼かったひとつ、またひとつと年を重ねているのだろう。

 タロとともに移り変わる周囲の景色を見つめて、朝陽は気がつく。


 ──ああ、この人はこうしてずっと、暮らしを見守ってきたのか。タロの生まれるよりもっと前から、この場所に立ってずっと、人の命よりもよほど長い時間を。


 麟太郎は彼の残り香を感じて「守り手」と呼んだけれど、おそらくそれよりも広く自然に近い存在なのだろう。

 

 ──例えるならば、その地に根付く神のような。


 朝陽がそう思い至るころ、タロの顔からは幼さが抜け、少年らしさが増し、十ほどになった。


 そのとたん、タロの姿が消えた。一瞬のことではっきりとはわからなかったが、なにか黒い影が過ったように思う。

 どこかでぱしゃん、かすかな水音が聞こえたような気もする。


「どこへ……」

「囚われたのだ」


 すっ、と白い人が指さしたのは、池のなか。

 きらめく水面に邪魔されてよく見えないが、遠ざかる黒い影があった。目を凝らすけれど、瞬く間に暗い水底に消えてしまう。

 はっきりとした形を見ることはかなわなかったが、ぬらりとした気味の悪さがこびりつく。


 ──タロは言っていたな。十くらいで保護された、それ以前の記憶がないと。いまのが元凶か。


「あれは、一体?」

「沼地のものだ。気まぐれかわからんが、連れてゆかれた。それもまたひとつの終わりと、思っていたのだが」


 ゆらゆらと景色が流れ、緑が失われた。遠くに見えていた人々の姿は無くなり、家々は朽ちた。

 うす暗さが幾重にも重なるなか、水面から刺す光のきらめきを見上げる。


 ──水の底、それもずいぶん深く、広い。村が湖の底に沈んだのだろうか。


 移り変わる景色を眺めていた朝陽が隣に目を向けると、そこには腐り落ちてゆく木の残骸があった。

 ぼろぼろと儚く崩れていくその幹とともに、白い男の姿もまた足元から解けて消えていく。


「このまま消えゆくのも悪くはないと、思っていた。この土地を知るものが消え、我が名を知る者が消えたのだから、我が身も消えるが道理。けれど……」


 ほろ、と消え残った紅い目が遠くを見つめる。


「あの者との縁が、我が身の最後のよすが。せめてその終わりまで見届けようと、揺蕩うばかりの我が身というのに」 

「消えられては困ります。あなたがいなければ、タロとのつながりが途切れてしまう」


 つい口をついて出たのは、なんともわがままな言葉。

 知ったことかと一蹴されるかと思いきや、男はふ、と笑った。


 その笑みに朝陽は、白い花がほころぶ幻影を見た。

 そして男の正体に気づく。


 ──ああ、この花は……。

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