第14話
「いらっしゃいませ」
透き通る声が店内に響いた瞬間、川島の体が小さく震えた。不二子の声が体の芯に染み入り、そこから体の全神経を伝わって、ありとあらゆる筋肉をほぐしてくれるようだった。
——今日もここに来て、本当によかった。
川島の心の中は、その思いで一杯になり、トナカイへの罪悪感なんてものはあっという間に消え失せてしまった。
二人は、入り口から近い、昨日と同じテーブルについた。
川島は椅子に腰を下ろすなり、店内を一通り見回した。
不二子は他のお客さんの対応をしていて、しばらくしてから店のおばあさんの方が、「いらっしゃい」と、言いながらメニューを持ってきてくれた。
お昼にはまだ早い時間だったが、店内には数組の客が入っていた。
その服装や会話の調子からして、ほとんどが商店街で働く人々のようだ。
川島がメニューを眺めていると、視界の端に不二子の姿が入り込んだ。
奥の厨房から、カレーライスとコーヒーを運んでくるところだった。
銭形もその気配に気づいたらしく、顔を上げて彼女の動きをそれとなく追っている。
不二子は今日もマスクで顔の半分を覆い、袖の長い服を着ていた。
それでも、わずかに露出した目元や手の動き、指先のしなやかさから、その美しさを容易に想像できた。
川島は思わず息をのむ
「おい、次元。俺はナポリタンにする。ナポリタンセットだ」
唐突な声に、川島は現実へ引き戻された。
銭形は不二子を横目に観察しながらも、きっちりとメニューを決めていたらしい。
「ナ、ナポリタンですか? ええと、じゃあ僕は……カレーセットにしようかな」
川島は、不二子の姿を見ているだけで胸がいっぱいで、空腹は感じなかった。
けれど――彼女が運んでくれるカレーなら、食べてみたい気がした。
「おお、カレーもいいな。」
銭形はのんきに言うと、「あのー、すいません」と、不二子に声をかけた。
すぐに、「はい、今行きます」と、透き通る声が返ってきた。
不二子は一旦厨房に戻り、コップの水を二つお盆に載せてテーブルへやって来た。
川島は「どうも」と軽く会釈しながら水を受け取ったが、銭形は不二子の顔を穴があくほど見つめていた。
その強烈な視線に気づいたのか、不二子の動きがわずかに硬くなる。
川島は気まずさを感じ、慌てて口を開いた。
「カレーセットとナポリタンセットをお願いします」
「飲み物は何にしますか?」
不二子は川島の方だけを見て尋ねる。
「えーっと、僕はコーヒーを。食後にお願いします。銭形さんは?」
銭形は不二子から視線を外さぬまま、「俺も同じだ」とだけ答えた。
不二子は注文を改めて確認し、銭形に視線を向けないようにしながらカウンターへ戻っていった
「なんで不二子がこんなところで働いているんだろうな?」
銭形は顔を川島にぐっと近づけ、小声でささやいた。
「さあ、どうしてなんでしょう」
川島は軽く首を傾げ答えた。
銭形は腕を組み、厨房の方をじっと見つめたまま動かなくなった。
不二子が喫茶店で働いている理由がどうにも気になるらしい。
しばらくの間、銭形は固まったまま微動だにしなかったが、突然目を見開き、川島に向かって勢いよく話し始めた。
「そうか!この喫茶店には、誰にも知られていない世界的な宝石か名画が隠されているんだ。うん、そうに違いない!」
銭形は一人で納得しながら、不二子が消えていった厨房の方をにらみつけた。
「この喫茶店にそんな高級な宝があるはずないですよ。もし、あるなら、そもそも喫茶店なんかやらなくてもいいじゃないですか」
川島は銭形に常識的感覚をぶつける。
「ん…?そうか?だとしたら、不二子のやつ、泥棒家業から足を洗ってここで働いているということか…。そうか…、きっとルパンが死んだことがショックで堅気に戻る決意をしたのかもしれないな」
銭形はまた別の納得をしたようだ。
その後も銭形は、不二子についての勝手な想像を膨らませ続けた。
時折、川島の方にも話を振り、川島はそれに適当な相槌を返した。
やがて銭形は、不二子の話に満足したらしく、今度は川島の方に顔を向けた。
「ところで、次元。お前はどうしてこの町に来たんだ?」
「いや、まあ…なんとなく静かで良いところだなと思って……」
「こんな町には、お前が欲しがるような宝なんてないだろ」
川島は、少し呆れたように笑った。
「いや、あなた今さっき、この喫茶店に“世界的なお宝”が隠されてるって言ってましたよね…?」
銭形は、そんな川島の言葉もまるで意に介していない様子だった。
「じゃあ、お前は何が目的なんだ?」
「本当に、僕はただこの静かな町が好きなだけですから」
その答えを聞いた銭形は、しばらく黙り込み、コップの水を一口飲んでから、ゆっくりとため息をついた。
「……お前も、不二子と同じく、すっかり変わっちまったな」
「そ、そうですかね?」
川島は、不二子と同じだと言われ、何だか無性に嬉しくなった。
その後、銭形はルパンの仇討ちを手伝ってほしいという昨日と同様の話を川島にし始めた。
それに対して川島は、昨日、既に同じ話を聞いた事を丁寧に説明した。
できるだけ穏やかに言葉を選びながら、ホームセンター『岡谷』での出会いから、この喫茶店での会話、そして、一緒に歩いて帰ったことまでを、まるで子どもに説明するように、ゆっくりと話した。
しかし、銭形は頑なに、昨日は川島に会っていないと主張するばかりだった。
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