▲調査班研究係について

    ――視野は狭く深く、そして気づかず転んでしまう



 俺に合わせるな。俺もお前に合わせない。

 新人にはまず言っていた言葉。

 調研ちょうけんには、SIGの任を全うするため志願したという者は少ない。組織への憧れや、行き場を無くし流れ着いた者も多くいるSIGだが、彼らは一般的に司令部や行動班に憧れ、またSIG側からの適性もそちらにある。では、調研は。


 人の群がる調研ルーム。端々から聞こえる声には、まだ新人の理解できない専門的用語が多く並んでいた。

 一人の青年は、群衆によりすっかり狭くなった通り道を慎重に進んでいく。彼の腕には液体の入った瓶が二つ抱えられていた。一つは彼自身の物。もう一つは――

「サァル先輩、現場の声紋届いてます。あとこれ、昼食にどうですか?」

 一つ研究に群がった机の先。離れた場所で男が一人、椅子に片足を上げたまま座り黙々と作業を行っていた。青年の存在を認識こそしているものの、彼はまるで微動だにしない。だが青年もその態度に狼狽えることなく続けた。

「先輩聞いてます? もう昨夜からずっとその姿勢。内蔵諸々が可哀想ですよ」

 瓶を一つサァルの頭の上に乗せ、嫌でも存在を認識させる。怪訝な顔が伺えた。

「俺が初めに、お前になんて言ったか覚えていないのか」

「先輩は俺に合わせないから、俺も先輩に合わせなくていいよって言いました。ですから、先輩に合わせないで俺のタイミングで昼食に誘ってます」

 好み知らないんで適当に調合しました。それが青年の答えだった。

 差し出された瓶を乱暴に受け取り、壊すように蓋を開けた。顔を近づけるが、口ではなく鼻。匂いを嗅いで目を細める。

「悪くないな」

 一口、一気に流し込む。

「嬉しい反応です。一緒に休憩時間としましょう?」

 まだ蓋を開けていない自分用の瓶を、サァルの近くに持ち出す。少し量の減ったサァルの瓶は、高い音を立てて乾杯を鳴らした。

「仕事順調なんですか。検死でしたよね、さすがです」

 適当に空いていた椅子を捕まえて隣に座る彼は、目の前の遺体の一部――胴を持たない頭部と、すぐそばの資料を見ながらちまちまとその瓶の液体を飲んでいた。

 調研の仕事のうち、検死は花形とされており、基本的にはベテランの調研メンバーが一から二名だけで行う。精神的負担や責任の大きな仕事な分、やりがいと憧れも伴っていたのだ。

 サァルの担当する検死は、昨夜見つかった変死体だった。上顎から上のみが残っており耳は無く、右眼の眼窩から側頭部、後頭部にかけては酷く損傷しており、皮膚は破り捨てられたように失っていた。しかし左半分は、下顎はないものの、目立った外傷はない。右頭部のみ鉄球がぶつかったような状態であった。

「被害者は〈無力者〉ですが、この事件に関連はなさそうですね。検体、見せてもらってもいいですか」

「必要ない。破損の激しいエリアはもう進展の見込みがないほど調べたぞ」

 空になった瓶を、生ゴミまみれの簡易ダストボックスに投げ入れた。割れる瓶の音に振り返るような人間はこの空間に一人としていない。

 少し凝り固まってきた肩を慣らして、サァルにとっては後輩にあたる青年の視線の先、壊れた頭部に布を掛ける。

「眼は事故で失ったにしてはあまりにもきれいだ。現場から未だその眼は見つかっていない。被害の激しい眼窩についてはあと少しでチップが完了する」

「なぜ眼窩を? 被害者は〈無力者〉なんですよ、前頭前野……いや、この場合、扁桃体を中心として調査すべきでは」

「〈無力〉の起源は脳ではない、眼だ」

 サァルの睨む目が白い瞳を細める。〈無力者〉の特徴の一つである。威圧的であり神々しく、そして深い心を潜ませた佇む瞳。

「〈無力〉が普及する前までは、感情だの感覚だの第六感的概念を紐付けていたせいで、未だに感情を司る扁桃体やらの信号から〈無力〉が流れているとする説が消えていない……。だが、〈無力〉を使用する際、〈無力者〉は死者と同じく瞳孔散大が発生する。これは瞳孔が視覚から〈無力〉に機能を変えるからだ」

 言葉と同時にサァルの瞳は死者のように暗く沈み、後方からは瓶の割れる音がした。

反鳴はんめい……先輩の〈無力〉、初めて見ました」

「そんな話をしているんじゃない」サァルは視線を戻し、検体の眼部へ。「未だ被害者の眼は見つかっていない以上、加害者が盗んだ線が濃い。そしてその痕跡は眼窩に出るはずなんだ。被害者が〈無力者〉なのだから、死の際に〈無力〉が出るはずだ。そうなれば加害者に何か印を残す真似をしていたはず。実際、通常はそうある」

「……待ってください、それはおかしいです。〈無力〉が目からの情報を元にしていることは否定しませんが、その処理をするのは脳であるはずです。目はただの感覚器官でありアウトプットは脳のみが行う――。〈無力〉が使用される際に瞳孔散大になるのは、〈無力〉へ集中的なエネルギーを使うことによる、一時的な筋肉の弛緩が原因とも言われています」

「その原理だと、全身の筋肉が機能しなくなり立つことさえ、ままならないはずだ」

「いいえ。〈無力〉に必要なエネルギーを最小限に抑えるため、初期の〈無力〉は全身から少しづつエネルギーを奪っていましたが、現在は瞳孔散大による心の潜在的な仮死により、不要に余っているエネルギーを使用していると俺は思っています」

 青年の意見に、サァルは席を立ち彼と距離を詰める。冷めた瞳であった。

「本年の研究会のために嘘を真にするつもりか? 脳を起源とすることは元より、初期の頃という言い方もおかしい。まだ〈無力〉がこの世界に発表されて五〇年と少しなんだぞ。人間の進化はこんな一瞬では成立しない。それとも君は〈無力者〉を人間と分けて考える、古いタイプの研究者か?」

「違います。人体構造の進化ではありません、〈無力〉は病気です。心の影響を強く受け、伝播する病気なんです。〈無力〉の反動を抑える、いわば防御的反応で瞳孔散大という形の、心の死を擬似的に表現し伝播と暴走にリミッターを作っているんです。〈無力者〉自身が壊れては元も子もないですから」

「当時、〈無力〉は悪魔の力と言われていた。馬鹿で愚かな無能は悪魔や天使のせいにしたがる。それが今では心の病気か。――ではなぜ初めの〈無力者〉は殺された? 伝播と暴走を持ちながら、彼女は呆気なく我々に殺された。無害な少女はSIGに無抵抗に殺された。心の病気を患った可哀想な初めの〈無力者〉エバ・ンナレバブルはなぜ? 弱い悪魔だったからか? 天使が取り憑いたからか? 俺たち〈無力者〉が存在してはいけないからか?」

 サァルの発言に後輩は勢いよくテーブルを叩き椅子から身を乗り出す。

「それは違う! あれは生かさなくてはいけなかった! 大陸を滅ぼすためにSIGが仕組んだことだ!」

 彼の言葉に場は凍りつく。銃声のような発言であった。離れた場所に群がっていた調研の人間も皆、若手の発言に興味深く視線をやる。続きを待つように、じっと見ていた。

 我に返った青年は周りの視線を感じ取り、下唇を噛んでは言葉を噤んだ。

「……煽った俺が悪かった。研究会頑張れよ、意見が出来る後輩には期待している」

 言葉の途切れた後輩に気遣い、サァルは調査を仕切り直した。眼窩の粘膜を採取。〈無力〉の痕跡があるはずだと、昨日から行っている行動を再三と繰り返す。変化は望まず、訪れない。


 数日後、会議報告にてサァルの担当した検体と同じ被害を受けた遺体が、間もなく調研ちょうけんへ死因究明のため運ばれることとなった。



          σ



 二人目の遺体もサァルの担当となり、その責任は重くのしかかっていた。連続した〈無力者〉を狙った犯罪――非常に珍しい事件。

 〈無力〉に関する事件は、主に〈無力者〉がその力を無闇に振るうことにより発生する。SIGメンバーを除き、日常生活に〈無力〉を扱うことは禁止されており、その事自体が罪となるのだ。SIGの、特に各地方・地区に設けられた分署は、八割がこのような犯罪を取り締まる。そのため必然的に〈無力者〉が加害者となり、被害者となることは比較的少ない。これはガタイの良い人間、刺青を入れた人間が外見だけで犯罪に巻き込まれづらいように、〈無力者〉もまた襲われる確率が比較的少ないことと関係している。

 大陸のほぼ全域に〈無力〉という概念が浸透し早五〇年。〈無力者〉が被害者となる殺人事件は、怨恨、復讐が大半。その分、遺体には執拗な打撲痕、刺創がわかりやすく残っている。そして現在サァルが担当する遺体もこれに当てはまっていた。

調々ちょうちょからの報告はあがっていないんですか」

 個々で作業することの多い調研ちょうけんにとって、彼のようにやたらと意見をし、ついて回る人間は多くはいない。つまるところ、サァルはこの後輩の行動が理解できないでいた。

「……お前、自分の仕事は?」

「やってますよ。ただ、一年目は覚えることばかりでつまらないんです。それに比べて先輩の仕事は楽しそうで」

 勝手に資料をつまみ取り、瓶に詰まった簡易的な昼食と共に散らかった近くの机に置いていく。必要なものを選別し、いらないものはすべて別の場所へ。

 後輩の彼はそれを一つ一つ読み、時折瓶の中身を口に運ぶ。数分。

「二件目の遺体。お前の意見は?」

 いい加減読み終わったかとサァルが声をかけた。体も目線もまるで合わせないまま、それぞれがそれぞれのことを進めながらの会話だった。それはまるで先日の言い争いなど初めからなかったと言っているような自然な態度であった。

「そうですね……俺が思うに――」続きを言いかけて、彼は口を止め読んでいた資料写真をアップにした。

「これ、なんですか」画面には一件目と同じく右側が消失した頭部が映し出されている。彼が拡大表示したのはその耳があるべき位置。固まった血が黒くこびり付いているものの、例に同じく、そこに耳は無い。

 後輩の言葉に振り返り、彼の元へ向かうも、すぐその画面を見てサァルは黙った。

「先輩」

 彼の呼びかけにも反応せず、いくつか採取した皮膚をシャーレに移す。

 しばらくしてようやく「わかっている」とだけ発し、後輩から資料を取り上げた。

「一件目は、お前に言われたとおり脳の損傷が死因。そして〈無力〉により右目を盗られている。被疑者は、被害者の知り合いか、〈無力者〉そのものへの恨みを持つものか――このあたりは調々の仕事だから推測程度でいい。だが問題は、二件目は一件目と違い、。一件目と手法、目的が違っている証拠になる」

 模倣犯――その言葉が二人の脳内に浮かぶ。

 だがそれにしても疑問はあった。

「……おかしい。おかしいですよ。一件目からまだ一週間です、模倣犯としても早すぎる。それにまだこの遺体の状態に関しては、我々SIG本局の人間しか知らないはず。もし二件目が別人による犯行ならば、あまりにも情報を仕入れるのが早すぎます。そして何より……」

「似た〈無力〉を持っていないと模倣は不可能」

 別人の犯行という結論に現実味を思わせない一番の原因。〈無力〉による犯行の模倣は事実上、限りなく不可能に近い。それは〈無力〉が過去に一度も、同じ症状を持ったことがないからだ。たとえ一件目の現場を目撃し、真似を目論んだとしたも、それは偶然見た〈無力〉が偶然模倣犯も真似できたということになる。つまり奇跡に近い模倣――

 こうなった場合、一件目と二件目が違う人物による犯行だとして、唯一現実的に有り得る結論はただ一つしかなくなる。

「……先輩。この事件は、我々の領域ではないのではありませんか」

 〈無力〉を持たない人間による犯行。地方警察の領分。つまりは、SIGによる調査の終了を意味する。

 しかし二人の疑念とは裏腹に遺体の検死だけは順調に進んでいく。

 作業は一部を除いてサァル一人でスムーズに行われ、それはただ目の前の遺体から痕跡という痕跡を根こそぎ取り、その記録をつけるというだけの思考しない作業であった。考えるのは調査班研究係の仕事ではなく、調査係の仕事だと、手を動かし記録を増やす。



          σ



 二件目の遺体が一件目と似ていること以外、全くの別人による犯行という推論はそのまま上まで報告され、地方警察との兼ね合いを含め現在は遺体の受け渡しについて上で会議が行こなわれている。

 中途半端に行った調査にオチをつけないまま手放せるような性分ではない。そう己を自負するサァルだったが、だからといって司令部に掛け合うことも調々に報告書を先延ばしにさせることもできない。仕方のないことだ。それが今回の妥協点だった。こんなこと、滅多ではない。所属歴が二桁になったとしても、三度に二度は最後の最後を見届けることのない仕事。それが調研の立場だ。それが真実のみ提示する研究者の扱いだ。もう青くない彼はそれを理解し飲み込んでいた。

「でも俺は納得できません」

「いい加減しつこいぞお前。に譲るのは二件目の事件だけだ、何が不満なんだよ」

 いつまでもついて回る後輩に慣れた対応で、朝食か昼食、または夜食のいずれかに当たる食事を取っていた。外は薄暗く、勤務時間が固定されている司令部が丁度シフトを入れ替えている。食事スペースは作業場から離れた階にあるという理由で、二人は適当な別棟に入り、大きな窓を背中にライトの当たらない隅の方で休憩を。不規則な仕事が多い調研メンバーにはよくあることだった。

 人の出入りは比較的少ないが、これから訪れる夜になれば慌ただしくなるだろう――ぼんやりフェンス越しに本棟のロビーを眺めては一口、味気ない食事を進めていく。

「俺思ったんですよ、もしかしたら二件とも同一犯で、手口を変えざるを得ない理由があったんじゃないかって」

 彼の言葉にサァルは黙って聞いていた。

 一口。

「あのとき先輩と口論になっちゃいましたからあまり掘り下げたくない推測ではありますが、被疑者は一件目の際には〈無力〉で殺め、二件目の際には誤って先に被害者を殺害してしまい、あのような状態になったのではないかと」

 目は合っている。

 一口。

「〈無力〉はその痕跡が残りづらい。まして、殺害してしまえば無いも同然です。感情に作用する力の――力と仮定して、死者に痕跡は残りません。ですから、どちらも殺害の意思はある。ですが目的は別。怨恨ではない、愉快犯でもない……頭部の状態からして、おそらく眼を奪いたかった。そう考えます」

 空になった瓶はサァルの吐いた息に小さく音を鳴らす。

「先輩、こうなればまだ〈無力〉は関係しています。我々の事件です。報告書と調査の申請を――」

「初めの〈無力者〉とされるエバ・ンナレバブル。彼女の立ち歩いたとされる記録が無いのはなぜだったと、お前は考える?」

「……何の話ですか?」

 明らかに声のトーンが落ちていた。思うところがある様子でただ静かにサァルを見つめている。

「何日か前の口論。あのときお前は〝エバ・ンナレバブルはSIGに殺された〟と、意訳としてはそう言ったな」歩みを始め、ここから一五階ほど上にある調研ルームへ向かい始めた。近道は中央エレベーター。そこに向かう。後輩の彼は、つばを飲み込み緊張を顕にしていた。

「SIGのアカデミーでは、〈無力〉は目から作用していると習う。SIGの一般学では、その歴史の根本に存在する初めの〈無力者〉エバ・ンナレバブルを無害無抵抗な少女として扱わない」エレベーターに乗り込み、一八階に向かわせる。「彼女は、俗に魔女と呼ばれていた」

 しかしなぜ、アカデミーを出てSIGへ入ったはずの彼がこの歴史に倣わないのか。その言葉が喉から形になる前に、視線を落とした青年は無意識に乱暴な嫌味を放つ。

「なんですか。それじゃあエバは魔女狩りにでも合ったと?」

 悲しい笑みを含ませた後輩の言葉に、扉の開閉ボタンを押す指が止まった。ゆっくりと振り返り、確かに後輩の発した言葉を脳内で再度咀嚼し、さらに思考したその上で口を開く。

「魔女狩りって、なんだよ」

 自動で扉は閉まり、中は時が止まったように呼吸さえ忘れるほどの揺らぎが消えていた。

 魔女とは、絵本に登場する奇妙な力を持つ架空の存在。魔女は悪者であることが多く、最後に懲らしめられて物語が終わりを迎える。

 サァルはこれを魔女狩りのことだと、ほんの一瞬思ったが、それは彼の表情を見て違うと断定できた。

 後輩である彼は、南西地方以外では珍しいブロンドの髪色をまとい、眉は濃く、瞳は髪色とは離れたブルーに近い色だった。極々珍しい、〈無力者〉以外での髪と瞳の乖離色を持つ人間。彼が普通の血筋でないことは明確である。

「お前、どこの生まれで――」

「俺はただのノアです。ノア・シルバ」

 ヘラリと笑って害の無さを表すように両手を無気力にあげる。どこか焦りと不安を感じる笑みに変わっていた。

「魔女狩りに合って逃げおおせた、ただの。魔女なんてこの世に居て堪りませんよ。冤罪です」

 サァルは彼の態度に未だ唖然としていた。彼の言葉が突然、未知の言葉のように聞こえたような、そんな感覚があったのだ。

「ちょっと、そんな怖い顔しないでくださいよ。ここでは魔女狩りなんて野蛮な文化、ないじゃないですか。そもそもエバのことを魔女だなんて呼んだ先輩のせいでもありますよ」

 不謹慎な喩えだった、そう認めたようにノアは平謝りし、それと同時に扉が開く。

「ほら、着きましたよ。どこに連れて行ってくれるんですか? 何か見せてくれんのでしょう?」

 ノアに対し、サァルは未だ怪訝な顔を振り払うことなく黙って調研ルームへと向かった。


 SIG本部の位置する本棟。大陸全域で定番化している高床式の造りを採用し、一階はなく二階がロビーとなっている。〈無力〉に関する一般相談は基本的に低層で行われ、外部の人間は会議室を設けた一〇階までは立ち入りが許可される。

 そこから上には各部署別の専用ルームが存在し、サァルらの所属する調研ちょうけんは一七から一九階を改造し研究用に使用していた。

 そして今、サァルが歩みを止めたのは、SIG本棟一八階調研専用ルーム。現在彼が調査している第一被害者の頭部が保管されている階である。

 SIGに所属していると不思議な現実に直面できる――そう直感し志願したノア・シルバはまさに今その時がきたと、真実を見る恐怖と期待に妙な震えを覚えていた。

「振り出しに戻りましたね。初めてこの事件を先輩に聞いた場所だ」

 あたりを見渡し、彼は当時と違い人気のなさに息を吐いた。実に静かであり、片付いており、そこにほうってある剥き出しの頭部は異様な物体であった。

 壁に並ぶ解剖早見図。人体の構造を直感的に見えるよう施された模型。見たことも使ったこともない、名前だけを覚えた化学物質の手書きの図式。これら文字はすべてただ静かにそこに佇み、彼らをじっと見つめ外の雨音を消し去る思考の一部となっていく。

「一件目の頭部。これは現在、司令部からの報告によれば|手違いで〈無力〉が暴発した〈無力者〉本人の事故﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅というオチになったらしい」

 サァルはその抉れた下顎を指先でなぞり、固まった血液に触れる。

「また二件目は偶然似た〈無力〉を持たないもの――有力者の犯罪と決まり、これ以降我々が関与することはない」

「ですから、そのおかしな顛末を変えるべきだと俺は――」

「これが正しかったんだ。一件目は事故、二件目はサツの管轄。我々は関与していない、誤って調査を行っただけの、ダストボックスに向かう記録だ。これは無い話だ」

「さっきから何言っているんですか、先輩。なにかおかしいですよ」

 ノアの言葉に構わず、サァルは近くの棚から柄のついた、硬いものを壊すためだけの刃物を取り出した。それは冷たい視線を浴び、ゆっくりと、ただ一瞬に振り下ろされ、刃先は物体を潰した。

「何を!」

 刃先は検体の脳天へ余すことなく突き刺さっていた。すっかり抜けた血は飛び散ることなくほんの少しの体液が小さな悲鳴をあげていた。

「あの日、お前は俺に〈無力〉の起源は脳……感情だと言った。ならば、お前は今何を思っている。〈無力〉を持っていたら、どうなっていた。誰のために今何を思っている?」

 ゆっくりと引き抜かれた刃先は、再度頭部を破る。その勢いに器ごと検体は落下し、刃の刺さった頭部はノアを見つめるように顔を合わせていた。地面に液体を零し、面を合わせ、真実を問うようにノアをただ静かに、失った右眼と虚を共にする左眼が見つめる。見つめる。見つめている。

「狂っている」

 思わず口にした言葉は、サァルへの応えではない。自然と湧いた、ただ漠然とした気持ちだ。

「……証拠を消すつもりですか。なぜそのようなことを」

「なぜだと思う」

 指導するように、自然な口ぶりだった。サァルにとってノアは未だ後輩の一人でしかない。特別さなんて一つない、名も知らぬ後輩でしかない。

「少なくとも、先輩の判断は間違っています。この部屋の前には警衛官が立っている。そして俺は今司命に現状を通信で伝える手立てがある。先輩――あなたは間違っています」

「俺はお前の価値観に合わせない。他の奴らもだ。だからお前もお前自身の価値観にのみ従え。そう言ったはずだ」すぐそばの机の下に収納された椅子を引き、転がった検体を前に座る。何も異変のない部屋のように。「お前が本当に思っていることはなんだ。俺の行動が理解できないか? 職務を放棄する罪人とは話したくないか? ……違うな。お前は今、調査中だった検体が壊されたことに怒りと悲しみを感じている。遺体の死因を追求することにのみ執着し、まるで他のことは見えていない。この組織は慈善活動を行っているわけでも真実に固着しているわけでもない。〈無力〉を――魔女を狩る事が仕事だ」検体を靴越しにノアの方へ蹴り、彼は乾いた笑いを見せた。「こいつは自殺者。SIGにとって用済みだ」

「自殺者……って! 被害者自身の〈無力〉の暴発だったとして、眼窩と脳、さらに人体の激しい損傷はどうやって説明するつもりですか!」

「二度も言わせるな、用済みだ。その瞬間にこれはただのモノに成り下がった。眼窩の不自然な痕跡? 頭部のみの遺体? それがなんだ。我々調研の仕事は真実を漠然と他部署に報告する。その真実から、事件性の有無、死因、それら予測の全ては司命、調々ちょうちょ並びに行実こうじつが行う。考える部署と考えない部署があることにはもう気がついただろ。我々はそのだ。わかったら巻物式端末グリトニラーを起動し、今すぐに司命からの報告を読め」

 ノアのポケットを指差し、すぐにしろと急かす。何も考えるな、言われたことだけを行えばそれが正しさとなる。そう言っているようだった。

 ノアがグリトニラーを起動し放置しきっていた連絡欄を覗くと、最も新しい報告にサァルから転送された、司命からの指示が出ていた。内容には『調査班研究係サァル・ファエロ宛――統合暦五三年第二〇号変死事案に関して』『死因を過思自殺とする。本件に事件性なし、SIGでの捜査は終了とする』目を流し、最後の一文。『遺体は通常通り、調査班研究係にて処理』それが答えだった。

 ゆっくりと彼は力を落とし、左手に握るグリトニラーを無意識に床へ落とした。掃除しやすく汚れの残りずらいクリアな地面はグリトニラーを拒むように硬い音を返し、すぐそばの遺体へ跳ねさせる。

「これが我々の仕事だ、受け入れろ」

 静かな声だった。強く握られた拳は彼の見えない内心を深く映し、言葉には複雑に入り混じった感情が隠れきれずに喉を通る。ここに表立った正直さは何一つない。

「結局、この組織も嘘をつく。文化の違うこの世界でなら、利益を重視した歴史は残らないと、そうしないと思ったからSIGに志願したのに。結局どこにいっても人間は皆、利益と保身のために嘘をつく」踵を返し立ち止まることなくノアは部屋を出た。後悔一つ残らないと信じての行動だった。

「こんな場所、もう居られない」

 最後に発した言葉は、サァルには理解のできない言語であった。



          σ



 SIG内で自殺者が出たと噂があった。サァルがノアと別れてからわずか半日後のことである。


 人の群がる調研ちょうけんルーム。端々から聞こえる声には、新人はどうしたのか、まさか、なぜ。そんなありふれた言葉が並んでいた。半円に集まった群衆の中央には、片足をあげたまま椅子に座り、検死を行う彼がいた。

「死因は?」

 声をかけてきた人物に心当たりはなかった。彼は無視を決め込んだ。

「なんでファエロさんがまた検死担当なんだよ……」

 聞こえるように言ったであろう言葉であった。彼は聞こえないふりをした。

「俺にもよく見せてくれ」

 伸びた手。伸ばされた手。彼は

「触るな、俺の仕事だ」

 普段と変わらぬ他人を避ける振る舞いに、集まっていた人間は露骨に不機嫌となり、まあ〈無力者〉でもない遺体だしと、ものの数十秒ほどで散り散りに去っていった。

 彼にとって、これが普段と変わらぬ態度であったのだ。馬鹿で愚かな、モノとなった後輩だけがそれでも彼を追いかけていただけだった。

 手っ取り早いと筆を取り、後で読めるのか怪しい字体で彼は記録をつける。


   統合暦五三年第三号特殊事案(報告者:サァル・ファエロ)

   死因:頭部多量出血によるショック死とみられる

   検死実施日:統合暦五三年六月三〇日明け六つ半ば

   検死担当:サァル・ファエロ


   備考欄:検視を調々に任されたい。


 天を仰ぎ、額に手を当て深呼吸をする。周りはもう各々の仕事を始めており、騒がしさに終わりを感じない。

 ふと、ほんの少し胃部に不快感を覚え、それをきっかけにしたように、こめかみの痛み、腰付近の神経痛、吐き気、呼吸のしづらさ、手足の若干の痺れ、寒さ、倦怠感――身体のありとあらゆる部位が悲鳴を上げていることに今更気づき、数日前の忠告を思い出す。

 目の前のモノは彼と目を合わせている。潰れた頭部に、はらはらと散った頭髪。ほんの少し前までは、まだマシな見てくれであったはずだ。首から下はまるで原形がなく、いったい何を思ってここまでバラバラになりたかったのか。

 内臓諸々が可哀想だと、他人事のように呟いた。

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