#154 だれかの心を癒す時…
魚住 陸
だれかの心を癒す時…
第一章:鉄と氷の眼
黒崎 竜司(くろさき りゅうじ)の人生は、常にコンクリートと鉄の匂いに囲まれていた。彼の名は「裏の顔役」としてシマの外にまで響き渡り、組の中でも抜きん出た武闘派として恐れられていた。彼の眼光は鋭く、感情の動きを一切読み取らせない、まるで長期間、雪に閉ざされた鉄の塊のように冷え切っていた。組の仲間たちでさえ、彼がなぜその道を選んだのか、その胸に何を抱えているのか、深くは詮索しようとしなかった。竜司の孤独は、その巨大な体に似合わず、深く静かなものだった。
その冬の凍える夜、竜司は組の厄介事を片付けた帰り道、シマの端、古い雑居ビルの裏にある寂れた路地裏を歩いていた。そこで目撃したのは、場末の違法賭博場で雑用を強いられ、心身共に疲弊しきった一人の少女の姿だった。
少女は、病気の祖母の薬代のために、危険を顧みず大人たちの間で働いていた。今まさに、犯してしまった小さなミスで男たちに囲まれ、屈辱的な罰を受けそうになっていた。竜司は、その光景に、かつて自分自身が抱いた抗いがたい無力感を重ねてしまった。
「お前ら、そこをどけ!」
竜司の低い声は、路地裏の湿った空気を一瞬で氷点下まで凍らせた。男たちは彼の顔を見た途端、血の気を失い、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。少女は顔を上げ、彼の背中から発せられる圧倒的な威圧感と、その奥底に潜む深い空虚さを感じ取った。竜司は少女の方を見ようともせず、ただ静かに立ち尽くしていた。
「二度と、こんな場所で働くな!お前の居場所は、ここじゃねえ!」
その言葉は、命令というよりも、彼自身の魂への自戒のようにも聞こえた。この夜、彼の長年閉ざされてきた人生の防壁に、他者への情けという名の最初の亀裂が入ったのだった。
第二章:路地裏の約束
少女は助けてくれた竜司に感謝しつつも、彼の発する冷徹なオーラに怯え、どう接していいかわからずにいた。しかし、彼の去り際に見せた、一瞬の人間らしい戸惑いの表情が、少女の心に焼き付いた。
数日後、少女の祖母の病状が急変し、少女は為す術もなく病院の廊下に座り込んでいた。そこへ、組の幹部しか知り得ないはずの分厚い札束が、そっと彼女の手に握らされた。竜司だった。竜司は言葉少なに「これは貸しだ…」とだけ言い残し、すぐに背を向けた。彼は、ヤクザの論理を超えて、少女と少女の祖母を遠くから見守り、裏で手を回していたのだ。
病院の待合室で、竜司に向けられる医師や看護師たちの露骨な冷たい視線に、竜司は初めて強烈な居心地の悪さを感じた。それは、裏社会で築き上げた地位や暴力では絶対に太刀打ちできない、まっとうな人間の壁だった。
その日の夕方、祖母に内緒で病院を抜け出した少女は、組の事務所近くの古い喫茶店に竜司がいるのを見つけ出した。そして、自分が大切にしていた古いお守りを、彼の無骨で傷だらけの手に押し付けた。
「これ、おばあちゃんが昔くれたお守り。私、お金ないから、代わりにお礼。おじさんにあげます。おじさんが、もう危ないことしなくてもいいように…おじさんの目が、少しでも温かくなりますように…」
少女の無垢で純粋な願いは、竜司の心臓を直接掴んだようだった。彼は、そのお守りを見つめながら、自分の過去の罪の重さと、少女の穢れのない願いとの間で、激しい葛藤に襲われた。この小さな願いが、彼の凍てついた心に、他者からの信頼という名の微かな熱を灯し始めた。
第三章:静かな訪問者
竜司は、少女からもらったお守りを、もはや手放せないものとして肌身離さず持つようになった。彼は組の仕事の合間を縫っては、人目を避けて少女の祖母が入院する病院を訪れた。病室ではいつも、彼はただ静かに立ちつくすだけで、少女の祖母のために買ってきた、飾りのない一輪の花を黙って少女に手渡すだけだった。
少女の祖母は目が見えなかったが、耳がよく、竜司の低い声の響きと、少女に向けられる時の声色の微かな温かさから、彼がただの恐ろしい人物ではないことを察していた。ある日、少女が薬を取りに席を外した隙に、少女の祖母は竜司に話しかけた。その声は静かで、一切の恐れを含んでいなかった。
「あの娘から聞いたよ…でも、あんたは、本当は優しい人なんだろうね…でも、何か重たいものを背負ってる…」
竜司は、自分の中の最も暗い部分を見透かされたように感じ、言葉を失った。少女の祖母は、遠い目をするように、若き日の夫が過ちを犯した親友を救うため、自身の身を危険に晒しながら奔走した昔の話を語り始めた。
「人はね、いつからでもやり直せるの…私の夫は、そう信じて生きた人だった。夫は優しい人でね。困ってたその人のために自分の事は二の次、三の次で奔走して、あげくの果てに、殺されちゃったの…でも、夫は後悔なんてしていなかったと思うの。大切なのは、誰のためにその力を使うか、その手を使うかだよ…」
少女の祖母の言葉は、竜司の強固な鎧を突き破り、彼の心の奥底にまで響き渡った。彼はこれまで「自分のため」に、そして「組のため」にしか生きてこなかった男だった。しかし、今、それとは違う選択肢が、彼の心の中で、ざわつき確かな光を放ち始めていた。
第四章:過去との対峙
組の抗争は頂点に達し、シマを賭けた最終決戦が避けられないものとなった。竜司は、その戦いの先頭に立たなければならない運命にあった。そして、宿命的に現れたのは、かつて竜司の失策によって命を落とした親友の弟、ジュンだった。ジュンは、兄の死の責任は竜司にあると信じ、復讐心に全身を燃やしていた。
竜司は全てを悟り、決着の場へ向かった。死をも覚悟した竜司の頭には、もう組の意地も、自分の名誉もなかった。あるのは、少女と少女の祖母の顔だった。彼は武器を捨て、丸腰でジュンの前に立ち、自らの罪を告白した。親友を失った悲しみ、そして、その命を裏切ってヤクザとして獰猛に生きてきた後悔。全てを吐き出した竜司は、ジュンに命を差し出した。
「俺を殺せ!だが、復讐は、誰も救わねぇんだ。お前もだ!お前の心は、俺を殺しても晴れねえよ…」
ジュンは、激しい怒りに震えながらも、静かに立ち尽くす竜司の姿に、復讐の空しさを感じ始めた。そして、竜司の眼差しが、鉄の冷たさではなく、初めて何か大切なものを守る者の光を宿していることに気づいた。ジュンは刃を振り下ろすことができず、その場を去った。竜司が暴力以外の道を選び、己の命で罪を償おうとしたこの行動は、組の規範を根本から揺るがす大事件となった。
第五章:抗う道
竜司の「暴力ではない解決」は、伝統と掟を重んじる組長からすれば、許されざる裏切りだった。組長は本家で竜司を詰問した。周りには、制裁のための刀を携えた組員が控えていた。組長の声は冷たく響いた。
「侠(おとこ)として筋を通せ!裏切り者には死をもって償わせるのが掟だ!」
竜司は、刀を前にして全く動じなかった。彼は、組長に対して初めて真正面から意見した。彼の低い声には、命を懸けた者の重みがあった。
「力で押さえつけるだけでは、何も救えない。俺は、命を賭してでもちがう道を選びたい。その道を歩きたい。それが、今、俺が通すべき筋です!」
竜司は、組を抜けることを決意し、厳しい制裁を覚悟した。しかし、竜司の心の変化と、その目に宿る光を静かに見ていた組長は、意外な言葉を発した。
「竜司、馬鹿げた道だぞ…いや、お前は、人間に戻りたいんだな…」
組長はそう吐き捨てた後、静かに組員を下がらせた。
「行け。だが、忘れるなよ!お前は一度、この道を選んだ。お前の選んだ道が、本物かどうか、俺がこの世のどこからか、見届けさせてもらうぞ!」
竜司は組長に深く頭を下げ、重い過去と決別し、裏社会から去ることを許された。彼は、自らの手で第二の人生の扉を開いたのだった。
第六章:小さな街の光と決意
カタギとして再出発した竜司は、少女と少女の祖母が暮らす小さな商店街の片隅で、知人の経営する花屋の店員として働き始めた。腕に彫られた刺青を包帯で隠し、土埃にまみれたエプロンをつけた彼の姿は、かつての冷徹なヤクザからは想像もつかないものだった。
当然、当初は誰もが彼を不信に思った。街の住人はなぜか竜司を避けて通り、花屋の客足は途絶えがちになった。しかし、竜司は一切の弁解をせず、ただひたすらに、傷ついて折れた花や、売れ残った花を懸命に手入れし、水をやった。彼のその寡黙で真摯な姿は、周囲の心を少しずつ溶かし始めた。少女や、花屋の店主夫婦、そして商店街の住人たちが、彼に次第に温かい言葉をかけ始めた。
竜司の心は、初めて感じる平穏に満たされ、彼の眼差しから鉄の冷たさは完全に消え去り、そこには命を育む者の慈愛の光が灯っていた。彼は、少女の祖母の「誰のために、何のために生きるか?」という言葉の真の意味を理解し始めていた。彼はこの小さな街で、懸命に誰かのために生きるという、やり直す決意を深く固めた。それは、彼にとっての本当の「生」の始まりであり、その決意は誰にも揺るがせられないものとなっていた。
第七章:いつかの青空、永遠の安息
少女の祖母が奇跡的に回復し、ついに退院の日を迎えた。商店街の人々は、竜司の手入れした色とりどりの花で少女の祖母の家を飾り、ささやかな退院祝いの会を開いた。
彼は少女と少女の祖母に、花屋で一番大きく、太陽に向かって咲き誇る向日葵の花束を渡し、深々と頭を下げた。
「ありがとう。俺は、もう一度人間として生きる道を選ぶ。二人のおかげだ…」
少女の祖母は竜司の手を握り、目が見えないにも関わらず、彼の心の温かさを感じ取っていた。
「あんたの手、温かいよ。太陽の匂いがするね。あんたは、もう大丈夫だよ…」
その優しい言葉に、竜司の目頭は熱くなり、彼は初めて心から笑みをこぼした。
その瞬間、一台の黒塗りの車が、商店街の賑わいを切り裂くように猛スピードで突っ込んできた。それは、竜司の「カタギへの道」を許さない残党による、最後の、無慈悲な報復だった。
竜司は、迷いも躊躇もなく、少女と少女の祖母を抱き寄せ、道路の反対側に押しやると、その巨大な体で車からの激しい衝撃を全て受け止めた。鈍い衝突音と、ガラスが砕ける音、そして花束が飛び散る悲痛な音が、その場に響き渡った。
血だまりの中に、美しく咲き乱れる向日葵の花びら。竜司は、朦朧とする意識の中で、少女と少女の祖母が無事なことを確認し、安堵の息を漏らした。彼の今閉じられようとする眼差しには、彼の周りに集まる商店街の人々の、悲しみと助けを求める声に満ちた光景が映っていた。彼は、暴力ではなく、己の命を賭して誰かの心を癒し、その笑顔を守り抜いた。
「これで…いいんだ…」
竜司の体から力が抜け、その魂は、重い過去の鎖から解き放たれたかのように、穏やかに昇っていった。彼の命は終わってしまった。
残された少女の手の中には、彼がくれた向日葵の花びらがしっかりと握られていた。その花びらは、彼のやり直す決意が結実した証として、悲しみの中の青空の下で、力強く光を放っていた…
#154 だれかの心を癒す時… 魚住 陸 @mako1122
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