天使省天使対策課 ~天使に憑かれた男~

光枝ミヤビ

第一章 天使と天使対策課

第1話 天使との結託

 神は光あれと言われた。

 すると光があった。

 楽園に暮らしていた人という生き物は堕落した。悪魔の王に唆され、神と同等なる存在になろうと知恵の果実を口にした。神は罰を与えた。呪いを与えた。死と呼ばれるそれは、人間の罪が赦されたならば解けるだろうと。神は人間に赦しの機会を与えた。人が犯した過ちを償うための猶予を与えた。

 ──罪深き魂たち。あなた達の全ては、神の所有物だ。

 ──罪深き魂たち。あなた達の罪を償いなさい。

 さすれば、救いを与えよう。さすれば赦しを与えよう。

 これらに背く場合には、神罰が下るだろう。神の遣いがあなた達の元に向かい、あなた達に終わりを与えるだろう。故に、神の言葉に従いなさい。

 だが、人間は罪を犯し続けた。時間は流れ、時代は変化し、人からの信仰が無くなったことで神は生きることが出来ずに──神は死んだ。そして神の忘れ形見である天使達が。

 今も、人々の罪を裁いている。


* * *


「ただいま帰還しました」

 シワひとつない真白いシャツ、型紙から切り抜いてそのまま貼り付けたかのような型崩れをしていない黒いスーツ。夜闇に溶け込む黒い髪と瞳、片目を隠した姿くらいしか特徴を挙げられないような男が立っていた。男は事務所の玄関口をくぐり抜けて、履き慣らした革靴の踵を鳴らしながら廊下を歩く。他の職員たちはどうやら全員出払っているようで、男はただ一人……否、背後にいるヒトならざるものをあわせれば一人と一騎、便宜上二人と呼称すべき状態だった。

「……本当についてくるやつがあるか」

 男は振り返った。男の数歩後ろを歩く、貞淑な嫁入り後の女のようにしていたそれは、外観だけ見ればどう見てもヒトのそれと同等な瞳をぱちりと瞬かせる。

「言ったじゃないか。きみが何と言おうとついていくって」

「お前、ここがどこだか分かっているのか?」

「天使省天使対策課第五支部。天使を屠るエージェント達が働く場所」

「お前の種族は」

「どっからどうみても愛らしい天使だろう?」

「……」

 男は大きく息をついた。コレは、本人の言うように天使という種族だった。見た目はどこから見ても人間の女に過ぎない。先の戦闘で男が首を落とした都合から頭髪は肩よりやや短く、鮮やかなミントグリーンで瑞々しい印象を放つ。女は先程まで纏っていた天使裁判用の法服から衣装の一切を変容させていないが、腰元から大きく広がるはずの翼と天使の生命の証たる天使の輪はどこかへと隠れている。尖っていたはずの耳も先が丸いためか、服だけが天使のそれの人間にしか見えない状態だった。

「人間に寄せておきながらどっからどうみても、になるのかお前は」

「ふふ、ナイスツッコミだ。そうだね、どっからどうみても愛らしい人間の女だ」

「言動がヒトじゃねーんだよ」

 男の名はアベル。本名は疾うの昔に無くし、アベルというコードネームを与えられた。天使省天使対策課第五支部に勤める職員の一人であり、天使を殺害できる数少ない人類の一人。アベルは女から顔を背けた。女はアベルの顔を覗き込み、にこりと柔らかく微笑んだ。

「審堂ルカ」

「……は?」

「私の仮称……この姿での名前と言った方が適切かな。ともかく、真名では無い方の私の名前。気軽にルカちゃんと呼んでくれて構わない」

 女は仮称、審堂ルカ。アベルが何を言っているんだかと息をつくと間もなく、ルカはからからと笑う。その様子にアベルは目つきを鋭くさせてルカを睨み見上げた。胸の内に渦を巻く不快感を隠すこともなく刺々しさを潤沢に含んだ声を放つ。

「おい、ルカ。お前、なんのつもりでここにいる」

「おや、呼び捨てとは。心の距離ってやつが近づいたかな?」

「質問に答えろ。コミュニケーションも取れないのかお前は」

 笑って話を流し、なあなあに済まそうとするルカの態度はアベルには苛立たしいものであった。ルカはそう短気にならないで、と諫めるような声で囁き、グルリと周囲を見渡す。 

「まあ確かに、普通の天使であればここには寄りつきたくもないだろうね」

「だったら何故──」

「私がきみに惚れたから」

 壁に貼ってある注意啓発ポスターを見つめ、ルカは言い切った。アベルが思わず口を閉ざす。この女が口にするこの惚れた、というのが、どこまで人間のそれと同一のものとして扱って良いのか分からないのが半分、お前を殺そうと首を掻き切った先の邂逅のみで惚れたとのたまう異常性への恐怖がもう半分。ルカへの恐ろしさから、アベルは静かに後退る。靴が地面を擦るちいさな音がして、ルカは口元をふっと歪めて笑う。その視線がアベルの方へと向き直る。アベルがなにかを言うよりも前にルカは息をつかせる間もなく近づいて、アベルの頰を両手で包み込んだ。

「アベル」

「な……、何……」

 先程までの浮ついた掴み所のない様子はどこにも無く。真剣そのものと言った真っ直ぐな目がアベルを射すくめた。額を伝う汗の感覚と、彼女の指先が触れる耳許の血管が激しく、大きく、強く脈を打つ。

 ──人間という生き物は非常に弱い。神が作り、与えたこの立ち姿は神にかなり似ているが、本物とは程遠い。

 ルカが内心に思い描いた人物はこんな当惑なんかしなかった。ただいつも曖昧に微笑んで、我らの活動になんの興味も示さず淡々と成すべき事を為していた。神はそうであったのだ。だからこそ面白い。彼をどこまで愛し抜けば、彼はそこへと至るのか。ルカはそう、子供じみた好奇心の突き動かすままに、悪辣に、アベルを愛すと決めた。

「……チョロいなぁ~、きみは」

 目を見開いて心臓を高鳴らせていたアベルは、ルカの言葉にビクリと体を震わせてから今度は怒りに震えた。目の前で自分に迫り、自分になにか言葉を与えようとしていたこの天使がなにかを企てていることなどとうに読み取っていたはずなのに、アベルは確かに心に入りこまれそうになっていた。寸前で止まったことへの安堵と、それを許しかけていた己と、そんなことは分かりきっているだろうルカが手を引いた理由へ思考が及べば、アベルの胸中にあるのは鮮烈な赤を思い起こすような怒りだった。不快感を煽る酸化したにおいが引き摺り出されるように呼び起こされて、アベルは思わず拳を握って女の腹に叩き込んだ。

「おっ……、と、乱暴だなあ」

 ルカは一瞬よろめいてアベルから離れるが、痛みなどまるで感じていないらしい。当たり前か。人間と天使では質量が違う。殴った側であるはずのアベルの拳の方がひりひりと日焼けしたときのような痛みを感じている。

「まあでも、気持ちは分かるよ。人間ってのは恐怖に駆られるとなんだってやるからね」

 ルカはふふ、と口角を上げた。アベルはその笑みに神経を逆撫でされた感触を得て、不快感に眉をひそめる。痛恨の一撃になればいいと行った行為にもなんら意味が生まれなかったのだと思ったら途端に全てがどうでも良くなってきた。後の祭りだと分かっていても、女を罵倒してやる。人でなしめ。人の社会に生きる魔性の、生き物ですらない分際で。

 どれだけ相手を貶す言葉を吐いてもそれに弄ばれたのは自分であるという事実は変わらないのに、どうにも自分はそれとこれとは別のことだと思いたいらしい。身勝手は人間の特権だが、それでもこんなに許容をされては理解に苦しむと言わざるを得ないだろう。天使とは、人間の罪を裁く存在だ。生物かそうではないのかさえ曖昧で、人間の感情なぞに共感するようなモノでは無いはずだ。

「知っているかのような物言いだな」

「天使だぞ。何年生きたと思ってる」

「さあ。俺にはどうでもいいことだ」

 ──どうにも、この天使は掴み所がない。

 アベルは困惑していた。先に真名の話が上がった以上は何らかの名を持つ天使であることは分かるが、現在日本国内で確認されている天使の中でこの女の持つ特徴に一致する名有りの天使は心当たりが無い。それだけならば名無しの天使が勝手に名があるのだと名乗っているのではと考えることも出来るが……名無しの天使は名有りの天使の許可、指示無くして人を裁くことは出来ない。

 もっと言えば、天使の性格傾向から考えてもこの女は異質だった。天使は厳格で、決まり事に口うるさく、そしてなによりも理不尽だ。理不尽さは一般的な天使のそれと大差は無いが、この女はあまりにもルールを軽視し過ぎているように見える。

 死んだ神の代行者たる天使は、死んだ神の遺した言葉のみに忠実に従う。神が死んでからゆうに二千年あまり経って人間達の社会は変化をしたが天使達の常識は二千年前のそれそれのままであることが通常なのに、この女は妙に現代に馴染む。

 こいつは一体……。

「ふふ、惑っているね?」

「…………当たり前だろう。天使対策課の事務所に上がる天使なんて」

「そうだねえ。私が本気になれば……間違いなくきみは瞬殺だものね。文字通り。しかも先の出逢いできみは私に攻撃を与えた。これは『神の許可なく神の所有物を傷付けてはならない』という法律ルールに反する」

「……」

 アベルは手を自らの後ろに回す。やはりこの天使は危険だ。早い内に始末をつけてしまった方がいい。どんな真名を持っているのかは分からないが、天使の輪から供給されるエネルギーさえ断てれば天使は死ぬ。再生をするならばすぐさま潰し、再生しようとするエネルギーを使い切らせればいい。

 腰のハーネスベルトに装着したナイフを手に取る。オフィスの廊下を血で汚すのは忍びないが、一騎でも多く天使を殺す方が大事だ。それにこの天使が本当に名有りの天使なのだとすれば、コイツさえ殺せば大量の部下も死ぬ。そうすれば今の世界情勢は一気に好転に傾く。

 やるしかないんだと、アベルは自らに言い聞かせるようにした。心臓の鼓動が確かにちょっとずつ早くなって、アベルは自らの緊張を捨てるようにフゥと息を吐く。

「……おい、ルカ」

 低い声でルカを呼びつければ、ルカはにこりと微笑んだ。アベルは一歩踏み出した。ルカは「学びが足りてないなあ」と言葉を漏らし、途端にその背に真白い大きな翼を広げた。アベルはナイフを抜こうとしたその手をもう片方の手で押さえ込んだ。自らの腰骨のところでカシャン! と鞘にナイフの刃が擦れる音が鳴る。ルカは大きく広げていた翼を折り畳んで口を開く。

「言っとくが、私は強いよ」

 単なるはったりだと強がれたならばどれ程よかっただろう。女の言葉はどこまでも本気で、悍ましさすら感じるなにかが溢れている。そばに立っているだけで目の前が不可思議な明滅とノイズに染まり、ルカを真っ直ぐ見ようとしてもその輪郭が捉えきれない。ルカはニコリと微笑みを浮かべたら少しずつその力を弱らせていき、最終的にはごく普通の女の姿と同等のそれへと戻った。アベルがふっと息を吐くと、ルカはもう一度微笑みかけて、「えらいえらい」と猫撫で声でアベルに告げた。

「ねえ、やっぱり契約しようよ。きみ悪魔とは契約してないんだろ。天使と戦うのなら必要だろ?」

「……契約は、しない」

「頑なだねえ……」

 やれやれ、などとわざとらしく肩をすくめるルカに、アベルは険しい顔のままその顔を見つめた。どちらからの発言もない時間が数分、そうして睨み合い──といっても、アベルが一方的に睨んでいるだけだが──の時間が続くと、事務所の出入り口の方からどうっと人の声が溢れ出してきた。

「うーすただいまー。アベル帰ってるかあ?」

「うわっなんか知らないひといる……って、天使!?」

 どやどやと部屋に入ってきた人々はアベルとルカを交互に見ては驚いた声を上げる。ルカはその度に和やかな笑みを浮かべて「どうもー」などと手を振る。まるでアイドルがファンにサービスをするような素振りだが、天使対策課は天使を殺すための事務所。ルカのそのような様子を受け入れがたいと思う者は多いはずだが──。

「わっすごい!人間に敵対的じゃない天使だっ、しかも相当上級じゃない?」

「それはそれは。お眼鏡にかなったようで光栄だよ、愛らしい仔猫くん」

「ひゅう~っしかもホメ上手! アベルが連れてきたのかよ?」

 こうなるとは、思っていた。アベルはため息を一つつくと、近くの椅子にどかっと大きく音をたてて座り込む。わざとらしい仕草が、彼の不満を表している。

「アベルく~んそんなふて腐れないでおくれよぉ。私だってきみのお友だちと仲良くしたいだけなんだ」

「嫉妬じゃねぇよ」

 呆れたため息が漏れたら、同僚達は顔を見合わせて「でも、殺さなかったんだろ?」とアベルに問いかけた。アベルは忌々しげに舌打ちをすると、「殺せなかった。輪から供給されるエネルギー量と殺害のためのパワーに差がありすぎた」と。そう答えた。

「あれはアベルくんの渾身の一撃だったもんね。私もまさか生首になるとは思ってもなかったよ」

「生首!?」

「アベル自身かなり超人的なパワーだし、そのナイフもあるし、かなり強いはずだけど……」

 視線に、アベルは静かに息を吐いた。問いかけた少女は上司なのだろうか、アベルは先ほどよりもトーンを落とした低く、丁寧な言葉を発する。

「血を使いませんでした。……中流の天使かと思って。判断を誤りました」

 アベルのハーネスベルトからカチャリ、と音がした。ルカはいつの間にかそれを抜き取って、自らの手元でくるくると弄ぶ。「なるほど、これがアベルくんの切り札だったわけか」。淡々とした言葉の中に、探りを入れる声音が混ざる。

「血……って言ってたけど、どういうこと?」

「アベくんのそのナイフは神聖を殺すことに特化していてね。人間の血を浴びると、天使の回復力や攻撃意欲を少しずつ削ぐことが出来るんだ」

「ほう。人間の血」

「私たちは悪魔と契約してその力を借りて戦ってるけど、アベくんは頑なでなぁ。悪魔と契約しないし、そのナイフ一本でずっとエンジェルハントしてるよ」

 アベルは何も言わなかった。止めても無駄だろうと思い、口を挟まなかった。が、補足をするように、付け加えるように、口を出す。

「罪のある血に触れると普通の天使は弱る。ソイツは返り血を浴びていたが普通に俺と対話をした。……その時点で、引き下がるべきだったと後悔してるぜ」

 静かな言葉には重みがあった。それを見ていた彼の同僚の一人が、神妙な、それから決心したような面持ちで口を開く。

「ルカちゃん、俺らの仕事、手伝ってくんね?」

「はあ!?」

 アベルは真っ先に声を張り上げた。当然だ、天使が天使殺しに加担なんかするはずがない。普通の人間が人間を殺さないように、同族を殺さないという同じ倫理があるはずだ。

「いいよ。て言っても、アベルくんが死なないようにしてあげるくらいだけしかしないけど」

「はあ!?」

 アベルは先ほどと全く同じトーンで声を張り上げた。

「お前、それ……神の命令に背く行為じゃないのか!? 神の復活のためには人間を裁く必要があるってのがお前達天使の日頃の言い分だろ、お前は神を復活させたいんじゃないのか!?」

 もう黙っては居られなかった。普段、イヤというほど積まされた天使達の論理を語り、ルカに迫る。ルカが「おっ美形が近づいてきてくれた」などと呑気なセリフを吐くとアベルは「話を逸らすな!」と机を強く叩く。机上の資料が崩れて床に散らばっていく。その紙きれの擦れる音が止んでからルカは宣った。

「神は死んだ。…………それだけだよ」

 神は死んだ、と口にする天使は稀であった。

 大抵の天使は、神は眠っていると言う。目を覚まさなくなったのはヒトが罪を犯したせいで、それをなお繰り返し続けるからだと。しかしルカは云った。神は死んだ。

 アベルは目眩がするような心地がした。一体コイツはなんなんだ。普通の天使のような振る舞いをしていたのに、急に自分に惚れたと言い出して、つきまとい初めて、天使の根源であるはずの神の存在すら否定をするようなことを口にしている。なんなんだ。なんだっていうんだ。

「…………お前、何なんだよ……」

 思わず漏れ出た言葉はひどく怯えに染まっていた。それを目前に見ていた彼の同僚たちは困ったように顔を見合わせてから、その片方がルカに問う。

「ルカちゃん、俺らいま試したつもりだったんだけど、本気?」

「うん。アベルくんが私のことを役に立つと思ってくれるなら、祝福を授けるくらいなんてことないさ」

 ルカの手が宙を切る。すると、彼女の手にはガベルと天秤が露わになった。

「うわ……! 上級の天使しか持ってない奴じゃん、それ!」

 裁判を開くのに必要とされる2種の道具だった。ガベルは中級以上、天秤は上級以上の天使でないと持つことはおろか、触れることさえ出来ない代物だ。無論、人間や悪魔にも触ることは出来ない。

「……アベルくんは随分と天使を殺してきたんだね。すごいスコアだ。これを献上すれば、きっと神もお喜びになるに違いないと勘違いする天使も出てきそう」

 囁くような声はどこか慈愛に満ちていて、信仰とはまるで真逆な残酷なことを肯定している。アベルは黙ったまま、真っ青な顔色でルカを睨む。

「一方でこれは仔猫くんのスコア。う~ん、ハッキリ言って低いね! 情報収集を担当しているのかな、直接手を下したわけじゃない罪の重さ、神に背いた量であることが分かるよ」

 ルカは手の中の天秤が大きく傾いた状態であることを気にも留めず、語る。

「罪の重さを可視化し、これを自由に操れることが上級天使の特権。きみたちガブリエルやミカエルと会ったことは?」

「あるわけがない。そうしたら俺達はもうこの世には居ないだろ」

「でしょ。アイツら潔癖症でさぁ。人間のこと嫌いすぎて下界に降りるの超嫌がってるんだよね。だからアイツらが直接人間を裁いたことはない」

 並の天使でも、普通に生きてきただけの人間は殺されてしまうだろう。人間の不審死の七割は天使が関連していると言われる今の世で、聖書にさえ名前が載っているような天使が姿を露わにしないことは人間たちにとってはチャンスだった。生存区域を変えたらあるいはと宇宙開発事業団が活発なのも、いわゆるセラフィムが地上にはほとんど現れないから。

 静かに言葉を紡ぐルカは、薄く目を開くと天秤の片方に指をかけた。く、と少しそれが押されるとアベルの重しは少し減ったかのように、もう片方の重しへと変換された。

「はい、これでアベルくんの明日死ぬ運命が明日生き残る運命になった」

「え?」

「ユディトくんにアベルくんの運命を半分肩代わりさせちゃった。ごめんね?」

 猫耳がピンと伸びて立つ。ユディト、と呼ばれた青年は自らの名乗ってもいないコードネームを呼ばれたことと、死の運命を半分肩代わりさせた、となんてことないようにいったルカの言葉に、ようやく自分がフレンドリーに接した彼女が魔性の存在であることを思い知る。

「それって、どういう……」

「明日、きみとアベルくんは大怪我をするだろう。これは単なる預言じゃなくて、確実な預言。その運命を変えるなら……ま、明日その場に私が居ればなんとかなるかな?」

 平行になった天秤を見つめて、ルカは軽いことのように言う。ユディトが息を呑んだ。あまりにも唐突な宣告に呆気にとられていたと言って差し支えがない。誰よりも先に動き出したのはアベルだった。

「ふざけるな!」

 アベルは椅子を蹴飛ばすように立ち上がる。足元に散らばった書類を踏んづけて滑りそうになりながらも、腰元のハーネスからナイフを抜き取ると自分の手のひらに刃を通す。

 アベルの血で濡れたナイフはすぐさまルカに突きつけられた。

「今すぐ戻せ」

「そうしたらきみが明日死ぬよ?」

「お前の言葉は信用できない」

 なるほど、とルカは瞬いた。

 アベルは、自らの命以上に仲間の命が脅かされることに過敏な様子だ。死の運命を半分こしたというルカの言葉は信じたのに、それを戻したら自分が死ぬという言葉は信用できないと言う。なるほど、これは随分と自己犠牲じみた献身の精神をしている。

 アベルは云う。

「俺の血で濡れたナイフなら、お前ほどの上級天使であっても治癒の困難な傷を残せるはずだ」

 しかしその切っ先は震えていた。

 ルカへの恐怖の消えきらないまま、アベルはナイフを濡らして血を流している。

 ルカが微笑みを携えたまま歩み寄ると、アベルはピクリと体を震わせる。

「では、そのナイフで私のことを傷つけてみるといい」

 腕を広げたルカから、そう宣言が為された。どこからどう見ても人間の姿をした異物。人の形をしたバケモノ。そんなことは分かっているのに、アベルは手が震えるのを押さえられなかった。

「…………クソッ!」

 怒りに任せ、ルカに駆け寄る。空中でナイフを逆手に握り直し、ルカに飛びかかるように蹴りを入れてから押し倒し、切っ先を喉元へ突きつける。

 ぽた、と白い肌にアベルの血が落ちるが、ルカは意にも介していない。

「さあ、殺せる? それとも、利用する?」

 握り込んだナイフの刃は少しだけ安定性を取り戻すが、ルカの言葉が圧になってまた不安定になる。

「……なぜユディトのことを知っていた」

「オフィスのデスクに書いてあるじゃないか。彼はごく自然にそこに荷物を置き、私に話しかけてきた。コードネームだろう?真名じゃない」

「なぜ執拗に俺を付け狙う」

「繰り返してるじゃないか。きみに惚れた。きみの顔が好みだって」

「じゃあ、なんで俺の血を浴びてもなにもないんだ!」

「きみ程度、簡単に殺せるからさ」

 ルカは次第に、高揚からか瞳孔の開いた目でアベルを見つめる。会話になっているようでなっていない。なんて悍ましい話だろう。招き入れてしまったモノは、相当な変わり者で相当ないかれたヤツだったと証明されていくばかりだ。

 アベルはドクドクと激しく脈を打つ心音に正気を吸い取られそうだと思い、ルカの上から退いた。

「お……分かってくれた? 抵抗しても無駄だって」

「……お前のその力は強大だ。本当に俺に惚れているというのなら、俺のために使って見せろ」

「最初からそうしてるじゃないか」

「だが! 他の誰かを犠牲にすることは許さん。そんなことを許せるほど、俺の心は広くない」

「……わがまま」

 わざとらしく、愛らしく、ふて腐れた声音でルカが言うと、アベルは「どっちがだ」と言い返した。自分の血で濡れたナイフに布を当てて血を拭い払うと、「ラザロさん」と黙り込んでいた仲間の名を呼ぶ。

「治癒を」

「はい。……アベル、あの天使、飼うの?」

「そうするしかないです」

 ラザロ、と呼ばれた少女は、アベルの手のひらにそっと触れて「巻き戻れ」と囁く。たちまちにアベルの手のひらの傷は治っていき……正確には、傷ついたという事実が無かったことになり、元通りになった。

「どうあれ、アイツを放っておくことは出来ない」

 アベルの鋭い目つきがルカを睨む。ルカはにこりと笑みを浮かべると、ラザロに向けてひらひらと手を振って「よろしく~」などと述べる。

 アベルがもう一度ルカを睨めば、ルカは口角を上げて微笑んだ。

「警戒しすぎ。そんなんだと、気疲れしちゃうよ?」

 誰のせいだと……。

 なんて、思い描いた言葉を口にするのも馬鹿らしくて、アベルは黙り込む。黙り込むアベルにを憐れむような目を向けたラザロに、ユディトは「こら」と小さな声で叱る。

 一連のやりとりは、この変わり者の天使に振り回される日々のほんの一端に過ぎなかった。

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