閑かさや、僕に沁み入る君の声
彩原 聖
君の声がずっと聞こえていた
始発電車の、窓に映る自分の顔は、なんだか他人めいていた。僕はイヤホンを外し、静寂に身を委ねる。すると、深海のような世界に、ふと君の声が忍び寄ってきた。
「あのね、、」
はっきりとは聞こえないが何度も、何度も聞いたことのある声。鈴を転がしたような朗らかな声である。それがぽっかり空いた胸に流れ込み、
「次は、、海浜公園前、、」
少し気だるげな車掌のアナウンスで、目的地に辿り着いたことに気づく。
電車を降り、ゆっくりと歩く。駅のホームに立つ人々の足音が遠き、確かに僕だけがそこに取り残されているようだった。匂い、冷気、湿ったコンクリートの感触──五感がゆっくりと目覚める。
ふと、過去の記憶が蘇る。君の笑顔、君の泣き顔、そして、あの日の痛み。世界が一瞬、白黒に変わったかのような感覚。息を呑むような静けさの中で僕は思わず目を閉じた。
改札を抜けると、すうっと海の香りがした。
その匂いをかき消すように15年前に君からもらった香水をふりかけると、鼻に抜けるその香りが妙に、懐かしくて目元が熱くなる。
歩いていると、向かってくる誰かと肩がぶつかった。
「あぁすみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
香水を嗅ぎ、感傷に浸っていた僕がナルシストに思われるのが恥ずかしくて、頭を掻いてその場を立ち去ろうとすると、その人が呼び止めた。
「泣いてますか」
言われるまで気がつかなかった。僕の瞳は大粒の涙で溢れていた。ハッとしてその人をよく見ると、10代後半くらいの少女で目元がほんのりと赤く、潤んでいた。
そんな姿があの時の君と似ていて……
僕はそそくさと袖でまぶたを拭き、その人と向かい合う。
「ちょっと感傷に浸ってて……」
「まあ、そういう時もありますよね」
心配おかけしましたと、軽く頭を下げた。彼女の手にはハンカチが強く握りしめられていて、気になった僕は飲み込んだ疑問を投げかけた。
「もしかして、あなたも泣いていたのでは?」
「えぇ、なんだか自分の居場所がわからなくて」
彼女はそっと静かに目線を外し、ハンカチをギュッと握り直す。深い悲しみの中には、怒りが混ざっているのだろうか。
「そうですか、それであなたはこの場所へ?」
「えぇ、こんな気持ちなんか海に流したくて」
「奇遇ですね、僕も同じ考えで来ました」
僕の本来の目的はちょっと違うかもしれないが、わざわざ訂正することではないか。
では、とその場を後にして階段を降りる。すると、じんわりと懐かしい香りがして、くるりと振り返ると、さっきの少女がついてきていた。
「どうかされました?」
「あなたが何をするのか気になって」
純粋な好奇心の奥に隠しきれない深淵が見えた。
「見ても面白いものじゃないですよ」
「よければ私も連れて行ってください」
それでも、と僕はすげなく接する。
「まだ10代でしょう、あなたにはまだまだ未来がある」
「それでも、もう生きていく理由がないんです」
「40年間も生きてきた僕だから言える、君はここでお家にでも帰るべきだ」
「帰らない、帰る家もない」
彼女の瞳には僕と同じかそれ以上の決意が見えた。一度引き返したからか、もう二度と引き返すことをしない強情さが伺える。
本当の目的はこの海で身投げをすることだ。予想外なことに1人増えてしまったが。
その後は言葉を交わすことはなかった、ただ一歩一歩と浜辺に近づき、流れ着く波を眺める。僕らの間を吹き抜ける風は、塩気を含みつつ、悠々と死へと誘う。
僕は着ていたジャケットを脱ぎ、無造作に砂浜の上に置いた。そして、その隣に座り、先程の少女にジャケットの上に座るよう指を差した。
「紳士なんですね」
「まぁ長年苦楽を共にした人がいたので」
彼女はその言葉を聞いて居心地が悪そうに、遠慮がちにそっと座る。僕は、なぜかその様子が気になって仕方ない。
「どうせ死ぬつもりですし、あなたの話を聞かせてくれませんか?」
「私の? もちろんいいですよ、あんまり面白い話じゃないですけど」
年齢不相応な対応をし、大人びた様子の少女は遠慮がちに僕の顔を覗いた。
「えぇ、変に笑ったり咎めたりするつもりはありません」
「それなら安心です、聞きたくなくなったら途中で止めてもいいですからね」
きっと全てのはじまりは私が生まれた頃からだろう——
今から15年前に私は生まれた。親はいない。病院で過ごした後、孤児院に引き取られたそうだ。私の首には生まれつき古傷があって、見た目のせいか、同じ孤児院の子どもに悪魔の末裔だと、大層忌み嫌われた。
他の子とはこの世に生を受けた時点で差があって、なんともまあ不平等だな、と子どもながらに思っている。
それでも、小さい頃はそれなりに笑うこともあった。孤児院の先生が読んでくれる絵本の中の“おかあさん”という言葉が、どんな響きなのかも知らずにただ音として好きだった。
“おかあさん”って、どんな匂いがするんだろう。夜眠れないとき、古びたシーツの端をぎゅっと握って、そんなことばかり考えていた。
12歳の頃、私は街へ働きに出された。掃除や皿洗い、誰かの靴磨き。小さな手で、できることをして、少しのお金をもらった。そのうち、街の人に「よく働く子だね」と言われるようになったけれど、心のどこかでいつも思っていた。
“誰も、本当の私を見てはいないんだ”って。
14歳の春、仲良くしていた子が里親に引き取られた。笑顔で手を振っていたけど、その夜、私は一人で外に出て、港の方へ歩いた。海はまだ冷たくて、潮の匂いが胸に刺さった。
もしもあの時、もう一歩、波に近づいていたら——たぶん私は、今日ここにはいなかったと思う。
でも、その時、ふと風に乗って、懐かしいような香りがした。甘くて、少し切ない匂い。道の先には見知らぬ男性がいて、どこか寂しそうにウロウロしていた。
その姿を見てか、涙が出た。
自分でも理由はわからなかったけれど、「もう少しだけ、生きてみよう」と思った。それから一年、気づけば十五歳になっていた。
誰かに愛された記憶も、帰る場所もないけれど、それでもどこかで誰かが本当の自分を呼んでいる気がして——
それを確かめたくて、私は今日、ここに来たのかもしれない。
……ねえ、不思議ですね。あなたとこうして話していると、初めて会った気がしないんです。
「奇遇ですね、僕もなんだか初対面とは思えないんですよ」
少女と駅で会った時に微かにした、懐かしい匂い、話し方や態度。そのどれもが、君に似ていて……
「そんなあなたなら、私の気持ちも理解してくれると思って」
僕は袖でそっと涙を拭い、落ち着いて深呼吸をした。季節外れもいいところだな、波がつれてくる秋風が海流の影響かほんのり暖かい。静けさの中、いつものように君の声が聞こえてくると思っていると、ふと隣から声がした。
「あなたの話も、良かったら聞かせてください」
「話すと長くなりますがそれでもいいなら」
「かまいません、時間が決意を風化させてくれるほど、お互い生ぬるい気持ちじゃないでしょう」
「それもそうですね」
あれは今から15年前のこと——
「
「いいね、
「へへ〜」
なんの曇りもなく満面の笑みの姿が愛おしい。もこもことしたその服は、冬を迎える準備が完了したことを示唆している。
「冬になったら何をしようか」
「鍋も食べたいし雪まつりなんかも行ってみたい!」
その頃の僕らは1DKのアパートながらも、2人揃って大の字で眠るような幸せな暮らしを送っていた。それに、若奈のぽっこりしたおなかからは可愛らしい天使が生まれてくる予感がした。
この子が産まれてくる頃にはもう少し大きな部屋に住めるよう、仕事をして、もっともっと立派になって、君たちの自慢のパパになりたいと思っていた。
例え、どんなに忙しくても家族のことを第一に考えるし、君を愛しているから、君とならどんな未来でも歩んでいけると考えていた。
『通り魔殺人事件。それは最寄駅の構内で起こった。犯人はすぐに捕えられたが、彼の手には血がどっぷりとついた刃物があった。動機は不明。』
まだ仕事場にいた僕はそっとそのニュースを閉じて、異様に高鳴る心臓を落ち着かせながら若奈に電話をかける。違う、そんなはずはないと願いながら。
電話はすぐにつながり、やわらかな君の声が聞こえた。
「どうしたの?」
その声が聞こえたことが本当に嬉しくて、胸を撫で下ろした。
「通り魔のニュースを見てさ、もし君が犠牲になっていたらと考えたら、いてもたってもいられなくて」
「通り魔? ふふ、私はそんなに簡単に死にませんよ」
軽口を叩くその声に若干、不安を覚えながらもいつもの様子にほっとした。
「今日はお買い物だったよな、帰りは僕が迎えにいくからどこかのカフェで待っていて」
「あら、ありがとう。嬉しいわ」
残っていた仕事をすぐに終わらせて、車を走らせた。本当によかった、若奈は殺されていなかった。待ち合わせ場所である最寄駅の駐車場に停めて、カフェに向かう。若奈はもう出てきていて、少し寒そうに手を合わせている。
「お待たせ」
「全然待ってないわよ」
「それじゃあ、帰ろうか」
手を繋ぎ、ゆっくりと歩き始めた。二人で今晩の夕食のことを話したり、生まれてくる子どものことを話したり。そんな時間が永遠に続けばいいなと思った。
駐車場まではあと500メートルくらい。
全身に鳥肌が立つ。
刹那。ドスっと鈍い音が聞こえた。繋がっていた手が離れて、若奈はその場に倒れる。首元からはとくとくと血が溢れている。
もうぴくりとも動かない妻の後ろ姿に思考が止まる。
加速度的に速くなる脳裏によぎるのはニュースで見た通り魔殺人事件。あぁそうか、このことだったんだと冷静さを欠いた脳が無駄に思考する。
後ろには、刃物を持ったその男は手と足をカタカタと震わせて、ニヤリと笑っていた。
周囲の悲鳴やサイレンの音が遠のき、まるでこの場だけが切り取られたように思えた。
状況を飲み込めず、また、頭に靄がかかる。でも、はっきりとわかることがある。
"この男が若奈を刃物で刺した”
僕はジャケットを脱ぎ、そっと彼女に被せた。せめて体温が下がらないように、愛する妻を、子どもを殺させてたまるか。
その男に近づく。
男がニヤリと笑った瞬間、頭の中で何かが弾けた。
理性も言葉も全部吹き飛んで、ただ叫びながら飛びかかっていた。
「返せ……若奈を返せよ!!」
男の襟首を掴んで砂利の上に叩きつけ、拳を振り上げる。
でも振り下ろす前に、男が持っていたナイフが僕の脇腹を抉った。熱い。痛い。でも痛みすら遠い。
それでも殴った。振り上げる拳がだんだん重たくなる。
どれだけ殴ったかわからない。顔面がぐちゃぐちゃになっても、血まみれの手が震えても、止まらなかった。
「若奈……若奈……若奈……!!」
名前を叫ぶたびに、喉が裂ける。
誰かが後ろから抱きかかえて引き剥がすまで、僕はただ泣き叫びながら殴り続けていた。
気がつくと、僕は若奈の横にへたり込んでいた。
そっとジャケットを脱いで、そっと彼女にかける。震える手で首元の傷を押さえる。血が指の間から溢れて、砂利を黒く染めていく。
「寒くない? ほら、ちゃんと着て……」
声が裏返る。
「ねえ、返事してよ……いつもみたいに笑ってよ……」
冷たい。指先が、唇が、もう全部冷たい。
それでも僕は彼女を抱きしめた。重い。こんなに軽かったのに、今は鉛みたいに重い。
「……ごめん、迎えに来るの遅くなって」
嗚咽が漏れる。
世界がぐるぐる回って、吐きそうになる。
でも吐けない。吐いたら、若奈を汚しちゃうから。
遠くでサイレンが鳴ってる。でももう遅い。全部遅い。
僕はただ、若奈の髪に顔を埋めて、
「生きててくれ……頼むから……」
と、何度も何度も繰り返した。
いつもみたいに燦然と輝く太陽のような笑顔を見せてよ。あぁ、僕も死ぬのかな。だんだんと意識が遠のき、なんの音も聞こえない。
目を覚ますと、病院のベッドにいた。僕は生き延びてしまったのだ。
ため息をつくと、そばで控えていた女性の医者が目に入る。
「悠太さん……ひとつ、伝えなければならないことがあります」
医師の口調は慎重で、言葉の端にためらいがあった。
「奥さまは亡くなられました。ただ、お腹のお子さんが——助かりました」
その言葉が僕の頭に届くまで、しばらく時間がかかった。
「助かった?」
「えぇ。臍帯が奇跡的に機能していて、緊急手術で……。女の子です」
女の子。
それは、若奈がずっと望んでいた未来だった。だが、その未来は彼女を失うことでしか訪れなかった。胸の奥が焼けるように痛い。僕は手で顔を覆い、ただ嗚咽した。
「すみません。この子は……生まれてきた子は僕には抱けません」
それが、精一杯の言葉だった。
二ヶ月後、子どもは退院した。
けれど、僕は迎えに行けなかった。体力的にも、それに他に親族もいない僕に養育は難しいと医師は言った。孤児院に預けられることになり、名前だけを残して——
“
若奈の“奈”と、僕の“悠”をとった名前。
それが、最初で最後に贈った愛の形だった。
——もし、君が生きていたら、あの子を抱いて笑っていたんだろうな。失意のどん底で、ただそう呟いた。
溢れる想いに蓋をして、僕は現実を見ることにした。
それからの日々のことはあんまり覚えていない。味のしない病院食をむさぼり、リハビリに励む。色も香りもない世界でただ生きているだけ。あれから二週間が経った。僕はもう仕事をする意味もないなと考えて、自ら退職を望んだ。
退院した後、自分のアパートに戻った。
15年前と変わらない木の階段、少し軋む扉の音、湿気を含んだ畳の匂い。けれど、中に入った瞬間、何かが決定的に違っていた。
若奈がいない。その事実が何度も何度も僕の心を突き刺す。カーテンの隙間から射し込む光が、埃を白く浮かび上がらせ、その粒がゆっくりと沈んでいく。
居間の机の上には、きれいな包装紙に包まれた小さな箱があった。
これは……?
リボンの結び目が少しゆるんでいて、紙の端には若奈の丸い字でこう書かれていた。
『悠太くんへ お誕生日おめでとう』
僕はその場で崩れ落ちた。そういえば全てを失ったあの日、12月8日は僕の誕生日だったな。震える手でその包みを開けた。中にはどこか見覚えのある香水の瓶が入っている。
透明なガラスに薄く琥珀色の液体が光っていた。それは、彼女が初めてデートのときにつけていたものと同じ銘柄だった。
小さな封筒が添えられていて、便箋には彼女の文字が並んでいた。
————————————————————
悠太くん
26歳の誕生日おめでとう!!
最近、あなたは仕事ばかりで疲れているように見えます!
本当は、誕生日には手料理をふるまって、二人でゆっくりお祝いをしたかったんだけど……お腹の子がちょっと重たくて、それはまた今度にします。
この香水ね、あなたがいつも着ているジャケットの匂いと少し似てるの。
運命みたいだよね!
だから私、この香りが大好きなの。
もし私に何かあっても、この匂いを纏えば、いつでもあなたと一緒にいられる気がする。
……なんて、ちょっと縁起でもないわね。
でもね、悠太くん。
あなたは優しい人だから、自分を責めないで。
たとえどんなことがあっても、この世界にはあなたを必要としている人が必ずいると思うの。
私も、その一人です。
大好きだよ。
若奈
————————————————————
気がつけば文字がにじんでいった。視界はだんだんと歪み、嗚咽混じりの声が部屋に響く。僕はぎゅっと便箋を握りしめ、顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
何時間泣いたんだろう。目も腫れてぐしゃぐしゃになった顔を鏡で見て、相変わらずひどい顔だなと苦笑する。
もらった香水の瓶を開けると、甘くて少し苦い香りが部屋中に広がった。それは出会ったばかりのあの日、君の髪から漂っていた匂いだった。この香りを纏えば、君に触れられる気がする。
けれど、同時に、君がもういないという現実が痛いほど突き刺さる。僕はその香水を手にしたまま、窓を開けた。
外の風はどこまでも冷たかった。
——悠奈。
きっと君がこの香りを知ることはないだろう。
でもいつか、どこかでこの匂いを感じたら、そのときはきっと、母さんの記憶が君を包んでくれる。そう願いながら、僕は瓶の中の香りをひとしずく、空に放った。
光が、それを抱くように揺れた。
静寂の中、ただひとつ、君の声が耳の奥に沁みていく。
「悠太くん、生きていてね」
波が押し寄せ、幕が下りた。
なぜか僕も君とは初めて会った気がしないんだ。君と若奈を重ねて見ていたのかもしれない。君の声も纏う香りも、よく似ていて——
ふと、彼女の方を見ると、目を見開いて全身を震わせていた。僕がじっと見つめていると、途切れ途切れながら声が聞こえた。
「……あの」
掠れた声だった。まるで喉の奥にずっとしまってあった言葉を、ようやく吐き出すような。
「私の名前……
その瞬間、僕の心臓が一度、大きく跳ねた。
悠奈。
若奈の“奈”と、僕の“悠”を合わせた、あの日、病院のベッドの横で震える手で書いた名前。
まさか。
まさか、そんなはずは——
でも、香水の匂い、話し方の癖、肩に見えた古傷の痕、すべてが一本の線になって繋がっていく。悠奈は僕の顔をじっと見つめていた。瞳が揺れている。まるで水面に落ちた石の波紋のように、感情がどんどん広がっていくのがわかった。
「……もしかして」
彼女の唇が震えた。
「あなたが……?」
言葉にならない。なる必要もなかった。僕の目から、熱いものがこぼれ落ちた。頬を伝って、砂に染みていく。悠奈の表情が、ゆっくりと変わった。
驚きが、理解に、そして——怒りに。
「どうして……」
声が裏返る。
「どうして早く迎えに来てくれなかったんですか?」
その一言で、15年間の時間が一気に崩れ落ちた。彼女は立ち上がった。膝が震えている。握りしめた拳が小刻みに震えている。
「私、ずっと待ってたんです。誰かが来るって、信じてた。誕生日も、クリスマスも、正月も……誰も来ないから、だんだんわからなくなってきて。どうして私だけがいらないんだろうって」
涙が頬を伝う。でも声は止まらない。堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「孤児院の窓から、他の子が親に抱かれて帰っていくのを見て……私もいつか、って思ってた。でも来なかった。誰も、私の名前をちゃんと呼んでくれなかった」
彼女は一歩、僕に近づいた。
「あなたが……私のパパだったんですか?」
問いかけではなく、確信だった。
僕は立ち上がろうとしたけど、膝が笑って崩れそうになった。なんとか砂をつかんで体を支える。
「……ごめん」
それしか出てこなかった。
「本当に、ごめん……」
悠奈は僕を見下ろしていた。怒りと悲しみと、ほんの少しの安堵が混じった、複雑な表情で。
「死にに来たのに……」
彼女はふっと笑った。泣き笑いだった。
悠奈の目を見て言う。
「生きててくれて、ありがとう」
無責任なことをしたとわかっている。でも感謝せずにはいられない。こんな奇跡があっていいのか。
悠奈は目を閉じて、少し震えた声で言った。
「……怒りたくて仕方ないのに、あなたの顔を見てたら、それもどうでもよくなっていくのが、悔しい」
それに、と続けて言う。
「生きてる人が、私を必要してくれてる人がいるってわかったら、もう死ねなくなっちゃったよ」
ゆっくりと目を開き、その場で立ち上がる。
「……お父さん、私、もう少しだけ生きてみようと思う。あなたが生きているこの世界を、もう少しだけ見てみたい」
潮の香りが、ふたりの間をやさしく通り抜けていく。風が香水の匂いをさらい、どこまでも高く、遠くへ運んでいった。静けさの中、悠奈の声が僕の胸に沁み入った。
——それは、15年前に失った“生きる理由”そのものだった。
若奈が残してくれた香水の残り香が、潮風に混じって二人を優しく包んだ。
まるで、若奈がここにいて、ぎゅっと抱きしめてくれているみたいだった。
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