第八話 「闇を食らう鬼と、手探りの春の匂い」
🏮新太郎定廻り控え帳
第八話
「闇を食らう鬼と、手探りの春の匂い」
一. 鬼の視線と、春の兆し
天保二年、年の明けた春の兆しが見える頃。
江戸の街は、札差・柴田屋勘兵衛捕縛と旗本・中沢壱岐守頼正切腹の沙汰で持ちきりであった。
幕府の権威が回復し、北町奉行所定廻り弐番組の誉れは高まっていた。
しかし、同心部屋の空気は、一時的な安堵と共に、新たな緊張を孕んでいた。
「柴田屋の残党は、いまだ深川で燻っておる。特に、勘兵衛に飼われていた闇の連中は、奉行所への報復を虎視眈々と狙っているはずだ」
筆頭同心・豊田磯兵衛の言葉は重い。
事件は解決したが、その残滓はまだ江戸の闇に深く根を張っていた。
その時、同心・大八木七兵衛が新太郎に鋭い視線を向けた。
「白瓜。お前は、金子の生臭い匂いを嗅ぎ分け、事件の核心を掴んだ。だが、お前の剣の腕は、あの時の激闘で、不足を露呈した」
大八木の言葉は辛辣であったが、それは「鬼」の異名を持つ彼なりの情であった。
新太郎は斬り合いの真っただ中で己の武力の非力さを痛感していた。
「大八木さん。ご指摘の通りでございます。私は、あの激闘の中で剣の道の未熟さを知りました。柴田屋の闇は去れど、江戸には、武力でしか解決できない闇がまだ多くある」
新太郎は、武士としての己の在り方について、深く考え始めていた。
二. 新太郎の決意と、異動の噂
新太郎は「武力不足の克服」を決意し、非番の日も自宅の裏庭で剣術の鍛錬に打ち込んだ。
早朝の空気はまだ冷たく、梅のほのかな香りが漂う中、新太郎の木刀の音だけが、静寂を破った。
彼は事件解決後、大八木七兵衛から「命を守るための心得」として贈られた、一冊の古びた剣術書を肌身離さず持っていた。
その書には、「力ではなく、機の先を読むこと」が説かれていた。
そんな折、同心部屋に一つの噂が広まった。
「なあ、聞いたか? 定廻り弐番組から、誰か勘定方へ異動になるらしいぞ」
勘定方は計算と事務処理が主であり、定廻りの華々しい捕物とは無縁の部署である。
同心たちは柴田屋事件の功労者である弐番組からの異動などあってはならないと騒いだ。
新太郎はこの噂に胸騒ぎを覚えた。
彼が剣術の未熟さを克服しようと努めている今、武士としての役目から遠ざけられることを最も恐れていたからだ。
三. 豊田の計らいと、大八木の示唆
数日後、豊田磯兵衛は、一膳飯屋「のりひょう」で新太郎を呼び出した。
煮魚の香ばしい匂いが漂う店内で、豊田は静かに切り出した。
「白瓜。勘定方への異動の件だが...お前に白羽の矢が立った」
新太郎は饂飩の湯気の中で、息を飲む。
「まさか...」
「お前は剣術は未熟だが、頭の回転と推理力は、奉行所随一だ。御奉行は中沢と柴田屋の金の流れを見事に解明したお前を単なる同心で終わらせたくないのだ」
新太郎は武士としての成長の機会を奪われることに、強い葛藤を覚えた。
その夜、新太郎は道場で大八木七兵衛に会った。
大八木は、無言で木刀を構えるよう促した。
新太郎の剣は以前よりも遥かに鋭くなっていたが、大八木の一撃はその全てを無力化した。
「白瓜。剣の道は一朝一夕で極まるものではない。だが、お前の行く道は、剣だけではない。勘定方へ行けば、江戸の闇を動かす「金」の匂いが、より深く嗅ぎ分けられるようになるかもしれんぞ」
大八木は武士としての情を込めながら、新太郎の別の才能を認める言葉をかけた。
四. 春の異動と、新たな備忘録
新太郎は、豊田の期待と大八木の示唆を受け剣の道を諦めるのではなく「金銭の裏側にある闇」を追うための新たな備忘録をつけることを決意した。
数日後、新太郎の勘定方への異動が正式に決まった。
定廻り弐番組の同心たち、大八木、豊田は、新太郎の門出を祝った。
別れ際、豊田は新太郎に一本の筆を手渡した。
「白瓜。これは、お前が初めて事件を記録した控え帳の筆だ。札差の金の流れは、定廻りの事件に必ず繋がってくる。奉行所の表にいても、裏の闇を見逃すな」
新太郎は深く頷き、新たな決意を胸に、勘定方へと向かった。
その夜、自宅に戻った新太郎は控え帳の新たなページを静かに広げた。
外は春の夜の柔らかな匂いが漂い始めていた。
『七、春の異動と、新たな備忘録を記す。筆頭同心・豊田磯兵衛の計らいと、同心・大八木七兵衛殿の示唆により、私は勘定方へと身を移した。剣の未熟さを悔いる心は変わらねど、これからは黒い金と、幕府の闇を繋ぐ、「勘定の裏の闇」を追う備忘録を記す。』
新太郎の筆は、江戸の春の夜の風で新たな決意を克明に記録し続けた。
(第八話 完)
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