新太郎定廻り控え帳
地徳真猿
第一話 「白瓜の初見参と二つの顔を持つ闇
🏮新太郎定廻り控え帳
第一話
「白瓜の初見参と二つの顔を持つ闇」
一. 日本橋、初秋の喧騒
天保元年(一八三〇年)、初秋。
夏の熱気が引いたとはいえ、江戸の町は相変わらず活気に満ちている。
だが、その底には、長い不作と、贅沢を極める幕府の重臣たちへの、市井の不満が重く沈んでいた。
秋風が運ぶ穏やかな香りの向こうに、やがて来る嵐の気配を誰もが感じていながら、日々の暮らしに追われている。
夜が白み始める日本橋魚河岸は、すでに湯気と潮の匂いの坩堝であった。
「へい、こっちァ活きのいい真魚だ!四つ一貫でどうだ!」
「四斗樽を割んな!水ェかけすぎだぞ!」
威勢のいい声が飛び交い、硬い木のまな板を叩く音が、波の音のように押し寄せる。
その喧騒の一角に、北町奉行所定廻り弐番組の面々が立っていた。
「見習い殿、ぼさっとしてるんじゃねえよ。こういう場所ァ、目ェと鼻の先に闇が転がってるもんだ」
大八木七兵衛は、まるでそこに居るだけで周囲の空気を歪ませるような、異様な威圧感を放っていた。
一刀流の免許皆伝である彼の周りだけ、時間が遅く流れているように見える。
彼の深々と被った笠の下、射抜くような鋭い眼光は、決して群衆ではなく、その奥にある「穢れ」を探していた。
その隣に立つ、新しく組した見習い同心、真鍋新太郎は、まだ場慣れぬ様子が隠せない。
新太郎は、剣術はからきしだが、組同心株を金で得て、北町奉行所勤めとなった。
商家の次男坊であったため、仕立ての良い羽織姿は、この殺伐とした魚河岸にはいかにも場違いである。
その白い肌と整った顔立ちは、誰が呼んだか、早々に「白瓜」という渾名を付けられていた。
「大八木さん、あの、朝餉の汁の匂いが、なんともいえませぬな」
新太郎は目を閉じて、その匂いを味わうかのように息を吸い込んだ。
「あっちでは、煮締めの醤油と砂糖が焦げた甘い香り。こっちでは、大根の味噌汁の湯気が立ち、その奥に、今朝揚がった真鯛の新鮮な潮の香がまざり合って……」
「おめぇさん、優雅な鼻だな」
大八木は鼻で笑った。
「鼻を利かせるなら、闇から這い出た血の匂いだろうが。優雅な暮らしを捨てて、わざわざこんな泥水に浸る道を選んだんだろうが、白瓜殿」
大八木は新太郎を蔑むでもなく、ただその覚悟を試すように言い放った。
新太郎は幼き日に知った、世の不条理を正す「道理ある世」を求める志を胸に、静かに目を開けた。
彼の目には、大八木の言う闇ではなく、この魚河岸で懸命に生きる人々の営みが映っていた。
その時、魚河岸の奥の、乾物問屋が軒を並べる一角で、若い衆の悲鳴が上がった。
二. 文鳥の糞と旅のわらじ
「親方!お、親方!いねえんでさぁ!」
騒ぎの元へ行くと、中堅の小ぶりな魚問屋の主人が忽然と姿を消したという。
床には、主人が肌身離さず持っていたはずの大福帳が、泥にまみれて落ちているばかり。
中身は空ではなく、昨日の売上を示す金高が確かに記されていた。
「まったく、博奕で身を持ち崩して夜逃げか。この手の話は飽き飽きだ」
組同心の一人が吐き捨てた。
「そうでもない」
豊田磯兵衛が、古参の同心らしい落ち着きで、大福帳の傍らにしゃがみ込む。
弐番組筆頭である豊田は、温和だが厳しい目を持つ意見番的存在だ。
「磯兵衛さん、見つかりやしたかい?」
「七兵衛。お前はどう見る」
大八木はすでに、大福帳の傍らに残された、わずかな足跡に目を留めていた。
「磯兵衛さん。こいつはただの失踪じゃねぇ。問屋の親父が履くはずの草鞋の形じゃねえ。……これは、旅のわらじだ」
旅のわらじ――それは、親方を無理矢理連れ出した、あるいは追ってきた何者かが履いていたもの。
江戸の市井の者ではない、外部の人間だということを示唆していた。
「しかし、大八木さん…」
新太郎は、一歩前に出た。彼の顔は白く、優男だが、その声は冷静で理路整然としている。
「足跡は一つしかありませぬ。誰かが親方を無理矢理連れ出したのであれば、揉み合いの足跡が二つ三つと交錯するはず。旅のわらじの足跡があるにも関わらず、親方のわらじの跡がない。これはおかしい」
大八木は無言で新太郎を見た。大八木が追うのは、完璧な手口で証拠を残さぬ「闇」そのもの。新太郎が指摘するのは、その闇に隠された、物理的な矛盾だ。
「だから、闇なんだよ、白瓜」
大八木は吐き捨てるように言った。だが新太郎は怯まず、泥を丁寧に拭い取った大福帳を、改めて見つめた。
「大八木さん。この帳面を見て下さい」
新太郎は、帳面の角を指差した。
「極小さな、円い濡れた跡がついております。これは、昨夜からの雨や泥によるものではなく、帳面が濡れた後に、また乾いたような跡で……恐らく、文鳥の糞の跡かと」
場は水を打ったように静まり返った。魚河岸で文鳥を飼う者はいない。
「文鳥……」
大八木の脳裏に、深川の岡場所「月光」の女郎、おえんの顔が浮かんだ。
彼女の愛玩する文鳥の名は「七兵衛」。
「親方を連れ去った者は、文鳥を飼っている場所に、この大福帳を持っていった。そこで、この帳面を何かの拍子で開いたか、床に落とした。その場にいた文鳥が、帳面に糞をした。そして、また持ち出された……」
新太郎は、剣術の代わりに磨き上げた、常人にはない驚異的な「観察眼」と「機転」で、大八木の知る闇とは全く異なる場所――それは、深川の匂いを突きつけた。
大八木は、無言のまま、魚河岸の橋の欄干にもたれかかっている、一人の男へ、鋭い視線を向けた。
煤けた鳶口を肩に担いだ男――大八木の信頼厚い手先、鳶の二吉だ。
二吉は、今しがた新太郎が推理を終えたばかりだというのに、もう、大八木が追うべき方向を理解したかのように、わずかに頷いた。
その二吉がある意味、闇の住人であることなど、新太郎は今は知る由もない。
大八木の耳元に、新太郎の推論が、冷たい水のように響いていた。
大八木の頭に過ぎる(文鳥……深川、月光……)の言葉…
大八木七兵衛が追う「旅のわらじの闇」と、真鍋新太郎が突き止めた「文鳥の糞の真実」は、鳶の二吉という媒介を通して、一本の糸で結ばれた。
三. 白瓜の真実と、奉行の決断
その日の夕刻、事件はあれよあれよの間に解決した。
大八木の指示を受けた二吉が、魚問屋の主人が抱えていた裏借金の絡みを嗅ぎ付け、あっという間に犯人を深川の岡場所付近で追い詰めた。
犯人は、主人を脅して大福帳の金を持ち出させようとした下級武士の残党であり、大八木が「鬼」の剣で捩じ伏せた。
しかし、大八木は獲物を引き渡しながら、どこか腑に落ちないものを感じていた。
新太郎の言う「文鳥の糞」が指し示した場所は、大八木が二吉に指示した場所とは僅かにずれていた。
犯人を追い詰めた場所は、文鳥とは関係のない場末の賭場だったのだ。
(白瓜の推理は、外れたのか…?いや、だが奴の観察眼は鋭かった。まさか…二吉め…)
大八木の心に、ほんの僅か、彼の片腕である二吉への疑念が影を落としたが、それを深く追求する間もなかった。
北町奉行所。
日が暮れて、提灯に灯が入り始めた時刻。
新太郎は、同心長屋へ戻る途上、奉行所の使いに呼び止められた。
「真鍋さん。榊原様がお呼びでございます」
新太郎は、まだ着任したばかりの見習いの身で、奉行榊原忠之直々の呼び出しに、内心、緊張を隠せなかった。
奉行所の一室に座した榊原忠之は、政略によって前任の矢部定謙を失脚させ、北町奉行の座に就いたばかり。
幕閣の圧力と、将軍の側近、そして老中水野忠邦の期待という、いくつもの板挟みの中にいる、まさに本格武士の強さを持つ男であった。
「面を上げよ、真鍋」
榊原の視線は、鋭く、それでいて温かい。彼は新太郎の白い顔をじっと見つめた。
「お前の活躍、豊田、大八木から聞き及んでいる。剣はからきしだが、その機転、そして庶民の暮らしから真実を見抜く目は、同心として貴重な才だ」
新太郎は、「ははっ」っと平伏する。
「この江戸の町は、水面下で腐り始めている。市井の悪事だけではない。奉行所の中、そしてこの幕府の中にも、金に目が眩んだ武士が巣食っている。老中水野様は、この金権幕政を正そうとされているが、敵は多い」
榊原は、懐から一冊の真新しい、厚みのある帳面を取り出した。
「真鍋新太郎。貴様に、同心としての職務を超えた、重大な役目を命ずる」
帳面は、新太郎の目の前の板間に置かれた。
「この帳面を『定廻り控え帳』と名付ける。お前は、この町で、そしてこの奉行所や幕府内で起こる、武士の不正、悪事、非道を、誰にも知られぬよう、克明に記し続けよ」
新太郎は、顔を上げた。帳面は、その重責を示すかのように、ずっしりとした存在感を放っている。
「老中水野様を護り、世の不正を糺す。その為に、この控え帳は必要だ。私がこの控え帳によって、幕府の闇を明らかにする。お前は、その代筆者となれ」
新太郎は、その使命の重さに、息を飲んだ。
これは、単なる見習いの仕事ではない。
命を懸けた、奉行直々の密命である。
秋の夜風が、奉行所の廊下に吹き抜ける。新太郎の胸には、幼き日に見た、道理ある世を求める優しい同心の姿が、鮮やかに蘇っていた。
新太郎は、深く頭を下げた。
「御意にございます。見習い同心、真鍋新太郎、命に代えましても、この『定廻り控え帳』を記し、武士の不正を糺す所存にございます」
新太郎の手が、板間に置かれた真新しい帳面に触れた。
それは、彼が歩むべき、険しい同心人生の始まりを告げる、重い感触であった。
(第一話 完)
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