第三章&第四章
第三章
忘れもしない、噂が流布する一年ほど前、村を台風が襲いかかった日のことだ。日が沈む前の段階ですでに風雨の勢いは凄まじい勢いとなっており、村の家々は早々に戸も、窓も締め切っている状況だった。村には昔ながらの木造家屋も多く、なんとか被害を受けずに無事に台風が通り過ぎてくれるよう祈るように時を過ごしている人たちも多かったことだろう。
学校が授業を打ち切ってお開きとなったときにはすでに台風の勢いはかなり増しており、家まで遠い生徒たちの中には帰宅を諦めて学校で一晩を過ごすことになった者もいた。わたしの家も村はずれにあるため学校からの距離もそれなりにある。教師からは危ないからお前も今晩は泊まっていけ、と言われたのだが、わたしはそれを振り切って帰宅することにしたのだった。とくに理由はない、もう高校生でもあり、学校で同級生たちと一晩を過ごすことにワクワクするような期待感を持つような歳ではなかったのもあるし、台風だからこそ、家で静かに過ごしたいと思ったのかも知れない。
結果としてわたしのこの愚かな行動は高い代償をともなうことになるのだが、そのときは叩きつけるような雨と強風をものともせずに気合をいれて自転車をこいで帰路についたのだった。
思えば道中転倒など帰宅を諦めざるを得ない状況に出くわして引き返さざるを得ない状況に陥っていればよかったと思わずにいられない。しかし幸か不幸か、わたしは自転車を進めるのに苦労したほかはさしたる障害にも出会わず帰宅することができた。
家には明かりがついておらず、暗闇に包まれていた。誰もいないのだろうかとも一瞬思ったが、おそらく台風の影響で停電になっているのだろうと思い直す。父は職場から戻れないかもしれない。母はどうしてるんだろう? 直也と紗代子はもう中学校から帰ってきているのだろうか? いつも家事の手伝いに来てくれている人は今日は来ていないか、もしくはもう帰ってしまったのではないか。
電気がついていないのは理解できるとして、蝋燭の明かりすらも外からは見えない。まだ誰も帰っていないのだろうか? とりあえず風雨をしのぐためにも早々に家に入ることにした。しかし…
裏手に自転車を置き、玄関に回ろうとしたわたしの耳に頭上の窓からかすかな物音が聞こえてきた。すぐにそれが声だということに気づいたわたしは怪訝に思いつつ、近くにあった木箱を壁に寄せてその上に乗ると窓に顔を寄せて耳を澄ませた。その窓は納戸にとりつけられたもので、採光性をあまり考慮されていない小さなサイズだ。
ますます勢いを増す風にその大半がかきけされてしまうなか、わずかに耳がとらえた声は紗代子の、それもうめき声だった。
状況がまるで掴めぬなか、不吉な予感を全身に走らせたことをよく覚えている。
閉ざされた窓にさらに顔を寄せ、耳を傾ける。室内の暗闇は視界を完全に閉ざしていたが、しかし声はより明瞭に聞こえてきた。妹のうめき声が再び。
一瞬強盗の類を連想し、紗代子に危害が加えられているのではと緊張と戦慄が走ったが、次に聞こえてきた声にわたしはその戦慄さえも吹っ飛ぶほどの激しい衝撃に打ちのめされることになった。
妹のうめき声には艶が籠もっていた。堪えようにも堪えられない女の響き、悦び。性にもだえ、悦ぶ女の声以外の何物でもなかった。
当時の私は高校生、まだ性というものを知らない子どもだった。しかしそれでも、いや、性を知らないがゆえに興味や好奇心を覚えていたからこそその響きに紛れもない性の悦びを聞き取ったのかも知れない。間違いない、紗代子は今この瞬間、性の悦びを味わい、その声が漏れ出てきているのだとそのときのわたしは確信した。
妹がわたしの、というより家族がいない間に男と情交を結んでいるという事実はわたしに大きな衝撃と動揺とをもたらした。当然のことだろう。しかも彼女はまだ中学生なのだ! それもこんな台風の日に男を家に連れ込むとは! がしかし、妹の嬌声に応じた声はさらにわたしの頭を叩き割るような衝撃をもたらすことになった。
その声は誰あろう、直也のものだったのだ。その声もまた、まぎれもない性の悦びが宿っていた。
打ちのめされるわたしの耳に間断なく声が聞こえてくる。快楽の高まりとともに声も大きくなっているのか、それとも周囲をはばかることを忘れてしまっているのか、その声はますますあからさまなものになっていく。
窓の向こうは闇に包まれ、納戸の中の様子をうかがうことはできない。しかしそのときのわたしの脳裏には直也と紗代子、わたしの弟と妹とが禁断の肉欲にふけり、悦びに震える肉を交わらせている情景がありありと浮かび上がっていた。
衝撃に愕然とし、なかば思考回路が麻痺しつつもわたしはふらふらと玄関まで戻るとわざと音を立ててドアを開き、平静をよそおいつつわざと玄関先でノロノロと時間をかけながら家の中へと入っていった。すると二人はわたしの帰宅に喜びを露にして出迎えてきた。情事にふけっていた素振りを微塵も見せることなく。よく帰って来れたね、てっきり学校で一晩過ごすものだと思っていた、などと驚きとねぎらいの様子を見せながら。
すべては台風が立てた物音がもたらした妄想だったのだろうか、二人の様子を見ながらそんな希望混じりの思いに一瞬とらわれたが、耳に残る声は確実に現実のもので、記憶から蘇らせるとそんな虚しい思いも瞬時に打ち砕かれてしまうのだった。
第四章
あの台風の日の後、再び二人の情事と遭遇することはなかったし、あれから彼らの態度やわたしとの接し方にも何ら不審な部分も見られなかった。ゆえに時が経つにつれあれはやはり夢だったのだ、台風の混乱に惑わされてありもしない記憶を作り上げてしまったのだ、と結論づけようとしたことも幾度となくあった。しかしなかなかあの記憶は風化しようとはしてくれない。
そんなときに例の二人についての恐ろしい噂が立てられたのだ。それを知ったとき、わたしはついに真相が知れ渡ってしまったのかと全身を恐怖と絶望とに震わせたものだった。
幸い噂は消えた。そして直也は家を出て姿を消した。
心ない噂によって追い出されたと村人たちは同情してくれたが、わたしにはそうは思えなかった。弟が出ていった理由は…おそらくわたしの存在だろう。おそらく彼はわたしが自分たち二人に対して疑惑を抱いていたことに気づいたのだ。噂が流れたときのわたしの態度から真相を知っていると察したのだろう。そんな状況下で噂は根も葉もないことだと退けて何事もないかのように振る舞いながら一つ屋根の下で過ごし続ける日々にいたたまれなくなったのかもしれない。それは恥ゆえか、それとも罪悪感ゆえかは定かではないが。
それから現在の紗代子に対する疑問もわたしの心に巣食い続けている。なぜ彼女が縁談を拒んで家で暮らし続けているのか。それは直也が帰ってくるのを、あるいは自分に向けて何らかの便りを寄越してくるのを待っているのではないか、というものだった。弟から届いた便りは最初の一通のみ。その後はまったくの音信不通の状況だったのだ。そしてその便りにもあったように弟が家に帰って来る可能性は限りなく低いだろう。両親の葬儀にも姿を見せなかったし、そもそも両親が亡くなったことを知っているのかさえも定かではない。
おそらく紗代子も可能性は低いことはわかっているのだろう。しかしそれでも、完全に直也と縁が切れてしまうのを恐れ、わずかな望みとともに家で暮らし続けているのではないだろうか。
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