第五話:日常の残骸と、短命の刃

夜明け前の空気は冷たく、街はまだ静寂に包まれていた。


松永美咲は、制服姿のまま、水守 みずもり じんと共に学校の門をくぐった。学校の門は鍵がかかっていたが、迅が古式の武術で扉をわずかに歪ませ、音もなく侵入した。


美咲は、立ち入り禁止のテープが貼られた昇降口や、異様にひっそりとした教室の廊下を見つめた。


「…誰もいない。やっぱり、もう学校は始まってないんだ」


「誰もいないのは当然です。彼らはあなたを『化け物』と恐れている。そして、叢雲むらくもは水龍の力を恐れている。彼らがここを避けているのは、あなた自身が引き起こした災いの結果です」迅は感情なく告げた。


美咲は唇を噛みしめ、自分のロッカーへ向かった。鞄から取り出した集合写真。そこには、笑顔の自分と、少し憂いを帯びた一葉、穏やかな碧斗が写っている。


「違う、私は…私は、普通の松永美咲なの」


美咲が写真を強く握りしめた、その時。


非常階段の踊り場から、冷たい声が響いた。


「やはり、ここにいたか、災厄の器」


一葉いちようだった。制服姿だが、その雰囲気は以前の物静かなクラスメイトではない。彼の右手には、くのかいノ会の象徴である青白い禁呪法の紋様が浮かび上がっている。その瞳には、龍への深い憎悪と、短命の運命を背負った者の諦観が宿っている。


美咲は目を見開いた。「一葉いちようくん…!どうしてここに…?」


一葉いちようの背後には、友人の碧斗あおとも立っていた。碧斗あおとは美咲から目を逸らし、苦しそうに顔を歪めている。


一葉いちようくん、碧斗あおと…!よかった、話を聞いて!私、何も知らないの。龍神とか、災厄とか…」


「黙れ!」


一葉いちようは美咲の訴えを遮った。彼は懐から札を取り出し、その禁呪の力で呪力を込めた。これは、彼がくのかいノ会の使命を果たすたびに、自らの命を削っている証拠だ。


「その声も、その存在も、この世界には不要だ。僕たちくのかいノ会の命を弄び、この世界を再び混沌に陥れようとする力を、僕たちの代で断つ」


一葉いちようが札を投げつける。札は廊下に落ちた瞬間、轟音と共に強い風圧と呪力の爆発を起こした。


じんが瞬時に美咲を抱えて壁に張り付き、爆発を回避した。


「龍神様、彼は禁呪法使いです!あなたはすぐに離れ、私から指示があるまで動かないでください!」じんは焦った様子で指示した。


「彼が…一葉いちようくんが、私を殺そうと…」美咲は震える声で囁いた。


その隙を逃さず、一葉いちようが再び札を構える。今度は呪力を込めた短刀だ。


じん!私が隙を作る!」美咲は叫ぶと、廊下の隅に置いてあったバケツの汚い水に手をかざした。


憎しみと悲しみ、そして「何が何でも日常を取り戻す」という強い願いが、美咲の感情を暴走させる。


「水圧(スイアツ)!」


バケツの水は美咲の意志に応じ、一葉めがけて激しい水流となって噴き出した。


しかし、水流は一葉いちように届く前に、急激に威力を失った。


美咲が使用したのは、掃除に使われた汚れた水だった。水の汚染度が高かったため、水龍の力は減衰し、一葉いちように届く頃には、ただの弱い水しぶきになってしまったのだ。


「甘いな」


一葉は水しぶきを払い、冷笑した。彼の禁呪を込めた短刀が、美咲めがけて投げつけられる。


「美咲!」


碧斗あおとが思わず叫んだが、次の瞬間、じんが瞬時に美咲の前に移動し、水龍の臣下としての武術で短刀を弾き飛ばした。


「龍神様!汚れた水では、その力は無力化されます!これが、叢雲むらくもの支配を許した人間の世界です!」


じんは美咲を厳しく叱責した。美咲は、自分の力の無力さと、初恋の相手から命を狙われた現実、そして汚染された水が力を使えない理由であることを知り、絶望に打ちのめされた。


「逃げるぞ、龍神様!今は訓練を優先すべきだ!」


じんは美咲の腕を掴み、廊下の窓を割り、学校の敷地の外へと逃走した。


廊下に残された一葉いちようは、微かに刻印が広がる右手を握りしめた。


「逃がしたか…」


碧斗あおとは、美咲が逃げた方向を、苦痛に満ちた表情で見つめていた。彼の目には、美咲の絶望と、短命の宿命を背負ったくのかいノ会の悲劇が、あまりにも重なって見えた。

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