第4話

エピローグ 雪の底で


雪は、すべてを覆うために降るのではない。

真実が春になるために、一度白くなるのだ。


——だが、すべての雪が溶けるわけではない。


深い場所に積もった雪は、長い時間をかけて氷になり、

やがて誰も触れられない場所に沈んでいく。


武の罪も、香織の復讐も、令子の計算も——すべては、そうやって凍りついていった。

表面だけが溶け、春の光を反射する。


その光を見て、人々は言うだろう。

「ああ、もう終わったことだ」と。


だが、氷の下では、真実がまだ眠っている。

そして、その氷を見つめるひとりの男がいた。



退院の日の朝。

武は、ナースステーションに手を振り、静かに病院を出た。

雪はまだ、街の片隅に残っている。

歩道脇の白い残雪が、車の排気で灰色に濁っていた。


ポケットには、香織の筆跡を真似た練習紙が一枚。

それを胸の内ポケットに入れたまま、彼は北へ向かう列車に乗った。


窓の外を流れる雪景色を見ながら、

彼の指先は、無意識に便箋の線をなぞっていた。


《あなたのせいじゃない》

——香織の最後の言葉。

だが今、武には分かっていた。

自分のせいでは「ない」のではなく、

「ある」ことに気づいてしまったからこそ、生きていくことができない。


赦されることが罰であるように、

生き延びることが、彼にとってはもう罪そのものだった。



列車を降りたのは、あの山の麓だった。

吹雪の日とは違う、穏やかな空気。

積もった雪の表面を、陽光が溶かして水滴が流れている。


武は山道をゆっくりと歩いた。

足跡のひとつひとつが、白い布の上に刻まれるように残っていく。


ポケットから、練習紙を取り出す。

その上に、震える手で短く書いた。


《香織へ

お前の設計は、俺の中でまだ動いている。

だけど、それを終わらせるのは、俺自身の手でなきゃいけない。

——これが俺の正しさだ。》


紙をストーブの残骸の上に置く。

マッチの火が小さく灯り、文字がひとつずつ燃えていく。


煙が上へと昇る。

その灰色の筋が、まるで誰かの手紙のように空へ溶けていった。


武は、静かに腰を下ろす。

あの日と同じ姿勢。

香織が崩れ落ちた場所に、背を預けるように。


ポケットから取り出したのは、

彼女が使っていた薬瓶——中には、半分ほどのカプセルが残っている。


「香織……これで、本当に“終わり”にしていいか?」


風は答えない。

ただ、雪の匂いだけが鼻腔を満たした。


武は、カプセルを掌に載せ、ひとつずつ数えた。

そして、ひと息に飲み込む。

冷たい水を口に含むように、静かに。


周囲の音が遠のいていく。

雪が降り始めた。


世界の輪郭が白に溶け、

炎の残像のように香織の姿が浮かんだ。


——ありがとう、香織。

——これで、やっと“正しい側”に戻れる。


その言葉を最後に、武の瞼が閉じる。


雪が降り積もり、彼の身体を静かに包んでいく。

風も、足跡も、やがて消えた。


ただ一枚の練習紙だけが、焦げ跡のないまま、

雪の下で凍りついた。



数日後、東京。

令子は、朝刊の片隅に載った短い記事を見ていた。


《男性服毒死。自殺の可能性。》


指先で紙面をなぞり、

一度だけ、静かに目を閉じた。


泣きはしない。驚きもしない。


彼女の口元が、わずかに動いた。

それは祈りでも、赦しでもない。


——計算の終わりに打たれる、小さな句点のような微笑だった。


「……これで、本当に、雪が止むわね」


そう呟くと、令子はカーテンを開けた。

窓の外では、雪がゆっくりと春の光に溶けていく。


その目には、悲しみも慈しみもなかった。

ただ、完了を見届ける者の、静かなまなざしだけがあった。

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雪に埋もれた真実 奈良まさや @masaya7174

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