美食探偵 御厨凛の事件簿

ソコニ

第1話「金沢・治部煮の密室」



## プロローグ


金沢の夜は、静謐だった。


兼六園の外れ、観光地図には載らない路地の奥に、料亭「花籠亭」はある。創業二百年。加賀藩の御用商人が建てた屋敷を、そのまま料亭に転用したこの建物は、国の登録有形文化財に指定されている。


御厨凛は、タクシーを降りた瞬間、この料亭の「匂い」を嗅ぎ取った。


出汁の香り。鰹と昆布。そこに微かな椎茸の含み。


――本物だ。


凛は三秒間、目を閉じた。


これは彼女の儀式だった。食事を前にするとき、必ず行う。味覚を研ぎ澄ませ、雑念を払う。


目を開けると、玄関に男が立っていた。


「御厨さん、お待ちしておりました」


若宮征一郎。五十八歳。投資家。今宵の宴の主催者だ。


凛は彼の顔を見て、すぐに読み取った。


――この男は、高級なものしか口にしていない。しかし、それを"味わって"はいない。


若宮の口元の筋肉の使い方、歯の白さ、肌の質感。すべてが語っている。彼は「高価なもの」を食べているだけで、「本物」を知らない。


「ようこそ、花籠亭へ」


凛は軽く会釈した。


「お招きいただき、ありがとうございます」


彼女の声は、いつも一定のトーンだった。感情を込めない。それが、彼女の流儀だった。


---


## 第一章 饗宴の客たち


座敷には、すでに四人の客が待っていた。


スイスのホテル王、レオナルド・シュミット。シンガポールの投資家、リム・ウェイ。ドバイの不動産開発業者、ハリド・アル=ファリス。香港の美術商、張慧敏。


凛は、全員を一瞥しただけで、それぞれの「食の履歴」を読み取った。


シュミットは、乳製品の過剰摂取。おそらく幼少期からチーズとバターに囲まれて育った。リムは、東南アジア特有の香辛料。ハリドは、羊肉と香草。張は――


凛の視線が止まった。


――この女性だけ、"隠している"。


張の肌は異様に整っている。まるで、食の履歴を消そうとしているかのようだ。


「皆さん、今夜は"本物の日本食"を堪能していただきます」


若宮が宣言した。


「そして、こちらが御厨凛さん。食の真贋を見抜く鑑定士です。今夜の料理が本物かどうか、彼女に判定してもらいます」


客たちの視線が、凛に集まった。


凛は表情を変えなかった。


「では、楽しみにしています」


その時、襖が開き、料理長が現れた。


「本日の献立をご説明いたします。私、料理長の鈴村慶一と申します」


凛は鈴村を見た。


瞬間、すべてが見えた。


――この男は、貧しい家庭で育った。子供の頃、安い炭水化物ばかりを食べていた。白米、うどん、パン。野菜は少ない。タンパク質も不足していた。


しかし、二十代で何かが変わった。おそらく、"本物の料理"に出会ったのだろう。そこから、彼の人生が変わった。


今、鈴村の手は微かに震えている。


――これは緊張ではない。何か、別の感情だ。


「まずは前菜から」


運ばれてきたのは、加賀野菜の煮浸し、金箔をあしらった蓮根の酢の物、能登の小鯛の酢締め。


凛は箸を取り、一口ずつ丁寧に味わった。


味覚が、情報を送ってくる。


この野菜は、朝採れたものだ。鮮度が違う。酢の物の酢は、米酢。しかも、三年以上熟成させたもの。小鯛は、能登の定置網。ストレスがかかっていない。


――すべて、本物だ。


凛は若宮を見た。


「素晴らしい料理ですね」


「さすが御厨さん。では、次の椀物も期待してください」


---


## 第二章 治部煮の椀


前菜が下げられ、椀物が運ばれてきた。


治部煮。


鈴村が説明する。


「治部煮は、鴨肉に小麦粉をまぶし、椎茸、加賀麩、そして加賀野菜を出汁で煮たものです。とろみが特徴で、冷めにくいため、武家の饗応料理として発展しました」


凛は椀を手に取った。


温度を確かめる。熱い。しかし――


彼女は、若宮の椀を見た。


――あの椀だけ、湯気の立ち方が違う。


若宮が箸を取った。


「いい香りだ」


そして、一口。


若宮の顔が、一瞬歪んだ。


「……ん?」


次の瞬間、彼の手から椀が落ちた。


畳に飛び散る治部煮。


若宮は喉を押さえ、苦しそうに呼吸を繰り返した。


「若宮さん!」


客たちが駆け寄る。


鈴村が慌てて携帯電話を取り出した。


「救急車を!」


凛は冷静に、若宮の側に膝をついた。


脈を確認する。ない。


「……亡くなっています」


座敷に、沈黙が落ちた。


凛は立ち上がり、畳に飛び散った治部煮を見た。


その匂いを嗅ぐ。


――出汁、鴨、椎茸、加賀麩。異常はない。


彼女は他の客の椀を一つずつ確認した。


すべて同じ匂い。同じ温度。


しかし、若宮の椀だけが――違った。


---


## 第三章 過去の影


十五分後、石川県警の沖田警部が到着した。


「状況を説明してください」


鈴村が震える声で答えた。


「治部煮を食べた直後に、若宮さんが倒れました」


「治部煮? この料理を作ったのは?」


「私です」


「他に厨房に入った者は?」


「いません。すべて私一人で調理しました」


沖田は頷いた。


「では、あなたが容疑者ということになりますね」


「待ってください! 私は何もしていません!」


凛は黙って、二人のやり取りを聞いていた。


彼女の頭の中では、すでに複数の仮説が浮かんでいた。


しかし、まだ確信はない。


――もう少し、情報が必要だ。


「御厨さん」


沖田が声をかけた。


「あなたは何か気づいたことはありますか?」


「……一つ、確認したいことがあります」


「何です?」


「厨房を見せていただけますか?」


沖田は渋々頷いた。


厨房には、五つの椀が並んでいた。それぞれに治部煮が盛られている。


凛は、一つ一つの椀に手を触れた。


温度を確認する。


「……この椀だけ、冷たい」


「冷たい?」


「はい。明らかに、他の椀より温度が低い」


凛が指差したのは、端に置かれた一つの椀だった。


鈴村が顔を上げた。


「それは……若宮さんの分です」


「なぜこれだけ冷たいのですか?」


「わかりません。すべて同じ鍋で調理し、同時に盛り付けたはずです」


凛は椀を持ち上げ、光にかざした。


「とろみの層が、他と違います」


彼女は指先で、とろみの表面に触れた。


「小麦粉は、加熱することで粘度が増します。しかし、この椀のとろみは――加熱が不十分です」


沖田が眉を寄せた。


「どういうことです?」


「この椀だけ、再加熱されていない可能性があります」


凛は鈴村を見た。


「鈴村さん、心当たりはありますか?」


鈴村は俯いた。


「……いえ」


凛は、彼の表情を読んだ。


――嘘をついている。しかし、それは罪悪感からではない。何か、別の感情だ。


――恐怖? いや、違う。これは――悲しみだ。


---


## 第四章 食卓の真実


凛は座敷に戻り、残りの客たちと向き合った。


「皆さん、若宮さんとはどのような関係ですか?」


最初に答えたのは、シュミットだった。


「ビジネスパートナーだ。彼とは十年来の付き合いだ」


「今夜、若宮さんは何か重要な話をする予定でしたか?」


「ああ。彼はこの料亭を買収する計画を立てていた」


凛の目が、わずかに鋭くなった。


「買収?」


「そうだ。花籠亭を外資ファンドで買い取り、高級ホテルの一部として運営する計画だ。私もその計画に出資する予定だった」


凛は、鈴村を見た。


鈴村は拳を握りしめていた。


「鈴村さん、その話は本当ですか?」


「……はい」


「あなたは、反対していた」


「当然です。花籠亭は、金沢の食文化を守る場所です。外資に売り渡すなんて……」


鈴村の声が震えた。


「でも、若宮さんは聞き入れませんでした。彼は言ったんです」


鈴村は顔を上げた。


「『伝統なんて、金で買えるものだ』と」


凛は何も言わなかった。


彼女の頭の中で、父の顔が浮かんだ。


――お前だけは本物を見抜ける人間になれ。


父の最後の言葉。


凛は、その記憶を振り払った。


「皆さん、治部煮を食べる前に、何か飲み物を召し上がりましたか?」


シュミットが答えた。


「私はワインを飲んだ」


「他の方は?」


全員がワインを飲んでいた。


凛は、若宮の席に目を向けた。


「若宮さんは?」


「彼は健康ドリンクを持参していた。いつも飲んでいるものだ」


凛は、若宮の鞄を開けた。


中には、小さなボトルが入っていた。


彼女はそれを手に取り、蓋を開けて匂いを嗅いだ。


味覚と嗅覚が、同時に情報を送ってくる。


ビタミン剤、アミノ酸、そして――


――これは。


凛の表情が、わずかに変わった。


---


## 第五章 温度という凶器


凛は、全員を座敷に集めた。


「皆さん、事件の真相をお話しします」


沖田が腕を組んだ。


「御厨さん、あなたに推理する権限はありませんよ」


「では、これを警察に任せて、誤認逮捕をお望みですか?」


沖田は黙った。


凛は続けた。


「若宮さんは、毒殺されました。しかし、毒物は治部煮には入っていません」


「では、どこに?」


「健康ドリンクです」


凛は、ボトルを掲げた。


「このドリンクには、血液凝固を促進する成分が混入されていました。通常、この成分は体内で分解されます。しかし、ある条件下では心停止を引き起こします」


「ある条件とは?」


「温度です」


凛は、治部煮の椀を指差した。


「この成分は、摂氏六十度以上の熱で無害化されます。しかし、それ以下の温度では、血液凝固を引き起こす」


沖田が眉をひそめた。


「待ってください。では、なぜ若宮さんの椀だけ冷たかったんです?」


「それが、犯人の計算です」


凛は、シュミットを見た。


「レオナルドさん、あなたですね」


シュミットの顔が強張った。


「何を言っている?」


「あなたは、若宮さんの健康ドリンクに成分を混入しました。そして、鈴村さんに細工をさせた」


「細工?」


「若宮さんの椀だけ、再加熱しないように。そうすれば、治部煮の熱でドリンクの成分が無害化されることはない」


鈴村が顔を上げた。


「違います! 私は知らなかった!」


凛は、静かに首を振った。


「いいえ、あなたは知っていた」


彼女は鈴村を見た。


「あなたは、若宮さんの椀を意図的に冷ましました。しかし、あなたは毒物を入れたわけではない。ただ――」


凛は言葉を切った。


「あなたは、若宮さんが死んでもいいと思った」


鈴村は俯いた。


長い沈黙の後、彼は口を開いた。


「……はい」


「なぜ?」


「花籠亭を守りたかった」


鈴村の声は震えていた。


「私は二十八年、この包丁を握ってきました。父から受け継いだこの技術で、どれだけの人を喜ばせてきたか」


彼は顔を上げた。


「でも若宮さんは言ったんです。『料理人なんて、何千人いても同じだ』と」


鈴村の目に、涙が浮かんだ。


「……違う。私たちは、ただの歯車じゃない。この一椀に、二百年の歴史が入っている」


彼は拳を握りしめた。


「それを、金で買えると思うな」


凛は何も言えなかった。


彼女の中で、何かが揺れた。


――この男は、父に似ている。


父も、こうして誇りを守ろうとした。そして、壊れた。


凛は、静かに言った。


「鈴村さん、あなたの気持ちは理解できます。しかし――」


彼女は言葉を選んだ。


「本物の味は、誰かの命を奪ってまで守るべきものではありません」


鈴村は俯いた。


沖田が立ち上がった。


「鈴村慶一、レオナルド・シュミット、あなたたちを殺人の容疑で逮捕します」


---


## エピローグ


事件から三日後。


凛は金沢の街を歩いていた。


花籠亭は、一時休業となった。鈴村は逮捕され、シュミットも国際手配された。


凛は、近江町市場を訪れた。


そこには、地元の料理人たちが集まっていた。


「御厨さん」


声をかけてきたのは、鈴村の弟子だった。


「鈴村さんのことは、本当に残念です」


「彼は、花籠亭を守りたかった。その気持ちは、嘘ではなかったはずです」


「はい。でも……」


弟子は俯いた。


「守り方を、間違えた」


凛は頷いた。


「食は、誰かの誇りと痛みでできている」


彼女は空を見上げた。


「それを忘れてはいけない。でも同時に――」


凛は言葉を切った。


――本当は、私も答えを知らない。


弟子は、小さな包みを差し出した。


「これ、鈴村さんが作った治部煮のレシピです。よかったら」


凛はそれを受け取った。


「ありがとうございます」


翌朝、凛のスマホに一通のメールが届いた。


差出人不明。


件名は「次の宴は、函館で」。


凛は画面を見つめた。


そして、三秒間目を閉じた。


――また、誰かが死ぬのだろうか。


彼女は目を開け、金沢駅へと向かった。


その手には、鈴村のレシピが握られていた。


---


【第一話 完】

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