四.謹慎

 翌朝、東山の空が薄紫に光り始めようかという頃、安倍晴明の遣いという者が一条邸に現れた。


 頼光はまだ眠っているのだろうか。見送る人もなく、綱は一条邸を後にした。


「確と務めよ」

 昨夜主君頼光が綱に残したのはその言葉だけだった。だが、不出来な家臣を見捨てず、言葉を頂戴できただけでも、綱にとっては有り難かった。


 朝霧が一条通りを覆う。

 通り慣れた道だが、見覚えない場所に思えた。

 そこに居るのは、晴明の遣いの者と綱のふたりだけ。人通りはまだない。

 普段のこの時刻であれば聞こえるであろう、朝餉の支度の音がない。水汲む気配もない。まるで人が消えてしまったかのような静寂だけがあった。


「どちらに向かわれるので?」

 不安になった綱が、二、三歩前を行く遣いの者に声をかけるが、その声も静けさの中に消えていく。

 遣いの者は何も言わず、綱を振り返ることもなく、ただ前を向いて一条通りを東に進み、程なく西洞院にしのとういん通りを南に折れた。

 踵を返してひとり一条邸に逃げ帰ることもできたであろうが、前を行く者の背中に得も知れぬ不気味さがあった。

「人ではないのかも知れぬ」


 そう言えば、先程から通りを進む足音も綱のものひとつだけが聞こえている。前の者の足音はなく、まるで宙を浮いているかのように、滑らかに進む。

 一条邸に現れた時から、未だひと言も声を聞いていないのも気味悪かった。


 思えば、昨夜の老翁も果たして人ではなかったのかも知れぬ。人の形はしていたが、忠義や尊敬や愛憎といった綱が知り得る人の感情というものから懸け離れた思考や物言いだった。

 いやいや――。綱は頭を振る。

「何を臆する!」

 自らを揶揄するように心の中で吐く。腹はもう括っている。


 一条邸を出てから小半刻程も立たぬが、綱には永遠と思える程長い時間が過ぎていた。

 急に遣いの者が足を止めた。御所の西、新在家しんざいけの門に程近い、土御門つちみかどの辺り。

 大きくはないが、どことなく威圧感のある屋敷。門には五芒星の紋。

「晴明殿の屋敷か?」

 思う間もなく、門が静かに開いた。


 門の中は草木が鬱蒼と茂り、奥にあろう筈の屋敷が見えない程であった。

 気付けば遣いの者の姿はない。

「入って来い、ということか」

 綱は茂みの奥を見据え、門をくぐった。

 ふっと周囲が明るくなり、綱の躰が光りに包まれた。

 一瞬どきりとするが、陽が昇り、ひと筋光が差し込んだことによるものだと気付く。

 何やらあらゆるものが意味を持つことのように感じてしまっている。

「まるで術に嵌められているかのようではないか」


 武人である。

 まやかしや呪術のようなものは端から信じずに生きてきた。

 殿上人や貴族の間では陰陽や呪術を重宝する連中もいたし、主君頼光もそういう類のものを否定はしない。然し、綱は自分にとっては無縁のものと信じてきた。

 それがどうだ?

 足音立てずに歩む者を人ではないと勘ぐったり、突然差し込む陽射しに吃驚する自分がいる。

「晴明殿に誑かされているということか……」


「私がどうかしましたか?」

 綱はびくりとする。

「ええ朝になりましたな」

 背後で老翁が朝日を浴び、和やかに笑っていた。

「佳い朝かどうかは判りませぬ。然し、天気は良いようでございます」

 素っ気なく言ったつもりはなかったが、老翁は詰まらなそうな顔をした。

 綱にしてみれば、これから籠もれと言われている身である。いい朝も糞もない。

「まあよろし。付いて来よし」

 老翁が庭の奥へと進む。綱は静々とその後を追った。


 庭の片隅に荒れた離れがあった。

 土蔵のようにも見える。長く使われていないらしく、蔦が壁を覆い隠し、木張りなのか土壁なのかも判らない。

「手入れが行き届いてない離れで申し訳おまへん。うちで余所の人が気兼ねのう出入りできるのはここぐらいしかおまへんよってに……」

 本当に申し訳なさそうに老翁が頭を下げた。ということは謹慎の場所はここなのであろう。


 老翁が軽く触れると、「ぎぃ」と扉が鳴いた。

 板間の空間が眼の前に現れる。

 明かり取りの窓からの陽射しの中で、埃がふわりと光った。

 中は正しく蔵の様相。土間ではないが、寒々しい板間がただあるだけ。武道場の様でもある。

 埃っぽくはあるが、散らかっている訳ではない。外観からは想像できない程には小綺麗であった。

 何処からかえた匂いが仄かに漂う。


 部屋の中心辺りの板張りの床の上に、ひと振りの業物と小箱が置かれていた。

「あれは?」

「まあ、中に」

 促され、従う。

 朝だということもあってか、冷たい空気が肌を刺す。外よりも蔵の中のほうがやや寒い。



 部屋の中央に置かれた太刀、綱にはその業物に見覚えがあった。

 束も含めて三尺足らず。血のような朱の鞘が朝日に照らされている。やや丸みを帯びた四角い鍔の四隅には猪目の細工。

「これは、髭切……」


 主君源頼光の愛刀のひとつ髭切丸――。

 刀身は朱鞘に収められ見えないが、鍔も鞘もあつらえすべてが頼光の脇に常に在る名刀のそれであった。

 見間違いはない。武人として憧れでもある名刀髭切丸の拵を見間違うことなどあるはずがない。

 何より、それが纏う空気が、綱の知る他の刀とは明らかに違った。


「ちょっと借りて来たんです」

 老翁は膝が崩れるほど軽く言う。

「いやいやいやいや……」

 綱は激しく頭を振った。

「これはお館様の愛刀のひとつ、他に並ぶものがない程の名刀でございます。容易く拝借できるような代物ではございませぬ」

 昨夜の詮議からまだ半日も経っていない。いつの間に拝借する機会があったものかとも思う。

「頼光はんは綱はんの為言うて、快う貸してくれはりましたよ」

「そんな、勿体ない……」

 綱は恭しく髭切に対して膝をつき、深く額を床に擦りつけた。


「ご覧になられますか?」

 武人の所作をめ回すように見ていた老翁が言った。

「よろしいので?」

 綱の瞳孔が大きく開く。その奥には畏れも見えた。

「よろしおすやろ? 頼光はんが綱はんの為に貸してくれはった代物ですよってに」


 綱は恐る恐る束に手を伸ばした。

 太刀から滲み出す力が、触れようとする指先に伝わる。

 ずしりとした重みが腕に走る。

 眼の前でゆっくりと鞘口から鍔を押す。鯉口とはばきの細工が良いのだろう。簡単に抜かれまいとする名刀の意思がそこにあるかのような、心地よい抵抗があった。

 右手で束を握り、心を鎮め、躊躇なく抜く。

 濃い鋼色が仄かに光り、空気の温度を変える。


「私は刀のことはあんまり解りまへんけど、綱はんにとってその太刀はさぞかし綺麗に見えるんでっしゃろなあ」

 髭切に見惚れる綱を見て、老翁が満足そうに言う。

「けど、あんまり長いこと剥き出しの太刀が眼の前にあるのは物騒ですよってに……」

 促されて、綱は刀身を鞘に収めた。収めながら、綱はやや不満そうな顔を見せた。

「ほんまに気持ちに正直な人や」

 老翁がまた笑った。


「さて、本題や」

 主君頼光の愛刀髭切がそこにある真の理由すら説明されていないのに、本題も何もあるまい。最早何の為に自分が晴明の屋敷に招かれたのかも判らなくなっている。

「昨夜、綱はんにけじめとして籠もってもらうと言いました」

「確かにその通りでございます」

 綱は己に言い聞かすように返す。

「この屋敷で七日七晩過ごしてもらうっちゅうことになります」

「察しております」

「よろし」

 老翁が頷いたところで、綱は気付く。

「はて、晴明殿、今、屋敷と申されましたと思いましたが、聞き間違いでしょうか?」

 老翁は表情を変えない。

「いえ、屋敷です」

「この蔵に籠もるのでは?」

「いやいや。こんな蔵の中に閉じ籠もってたら、頭可笑しなりますやろ」

 老翁は莫迦にするように言い切る。


「寝泊まりはこの蔵になりますし、母屋にはいろいろややこしもんも多くありますよってに、ご自由にっちゅう訳にはまいりまへん。勿論屋敷の外に出るのは控えてもらわなあきまへんが、庭なり何なり屋敷内は好いたように出歩いてもろうて構しまへん」

 綱は理解が追いつかない。

「小さい庭でも、外に出れば気分もよろしやろ。たまに面白いもんも見れるかも知れまへんし」

 思っていた謹慎とは趣が違う。

「罰として軽すぎませぬか?」

「いや、罰ではおまへん」

 老翁はしれっと言う。

「私はけじめと言いました」



っちゅうのは知ってはりますか?」

 老翁が声を潜めて訊いた。

 綱も聞いたことはある。

 貴族の間では死体など不浄のものに接することを触穢しょくえと呼び、触穢に遭った者は忌みを行う必要があるという。

「此度の件、触穢に当たるということでございましょうか?」

 老翁は詰まらなそういう綱を見遣る。

「しょうもないことを……。早呑み込みはあきまへんな」

 老翁が言い出したことではなかったか。

 それに乗っかっただけで咎められたことに納得はいかないが、綱は口答えせず「申し訳ありませぬ」と心なく詫びた。


「触穢は本来、不浄のもんが天子はんに逢うたり、儀礼に参加することを慎む為の慣行です。天子はんに逢う予定もない綱はんには関係おまへん」

 安心させようとしているのではない。綱の立場を低く見ているのだ。

「穢っちゅうてるのんは、あくまでも建前。そない言うといたほうがいろいろ都合がええからです」

「都合がよい……と?」

「まあ、触穢に準じて七日の籠もり、そない思うてもろたらよろし」

 またはぐらかされている。結局触穢をなぞっているのではないか……。


「然し……」

 そのような軽い懲罰でよい筈がない。声が漏れる。

「然しも案山子もおまへん」

 老翁の真意が見えない。何の罰も受けずに事が済まされよう筈もない。

「件についてはちゃんと片付けますよってに、綱はんは私の言う通りにしてくれはったらよろし」

 その「言う通り」が見えず、不安しかない。

「心配せんでも……」

 老翁が不安げな綱を見遣る。

「質素ではありますけど、きちんと朝夕の食事は用意させますよってに」

 心配しているのはそこではない。寧ろ、断食でもして謝意を示したいところだ。


 綱の呆れ混じりの表情に、老翁がにやにやと笑う。

「まあ、話がよう見えまへんわな」

「はい」

 綱の声にやや疲れが混じる。

「きちんと説明したいところですが、先ずは今日の夕刻まで辛抱してもらえますか? その頃になったら、嫌でも少しは見えてくるでしょうし」

「然し……」

 綱は食い下がる。

 老翁は、綱の眼をじっと覗き込んだ。

 濁りはない。単純に意味が知りたいだけと見える。

「然し然しと、困ったお人やなあ」

 そう言いながら、口許は笑っている。


「恐らくは、今日の夕刻には綱はんのお仲間のおひとりか、何人かがここに来られるでしょう。恐らく一番最初に来られるのは、卜部うらべはんですやろかいな」

 老翁が口にしたのは、世に頼光四天王と呼ばれる源頼光家臣のひとり、卜部季武うらべすえたけのことであろう。

 何故、卜部の名前が出るのか判らない。若しかすると頼光から何やら命を受けてここを訪れるのやも知れぬ。


「私もそのお方らがどんなお話を持って来られるのか、それを待っとるんですわ」

「謹慎中ですが……」

「謹慎やないっちゅうとります」

 老翁が被せるように叱咤する。

「彼らと逢ってもよろしいので?」

 綱は首を竦めながら言葉を続けた。

「よろしおす。逢うて訊かれたことにしっかり答えて、訊きたいことはしっかり訊かはったらよろし」

 説明しようとしているのか、そもそも老翁自身に説明する気がないのか。


「ほんなら、朝餉でも用意させますかな」

 老翁がすっと入り口に立つ。

「自分のお屋敷やと思うて、ゆっくりしとくれやす」



 都人独特の嫌みともとれる言葉を残して老翁が母屋の方に消えるのを見送り、綱は改めて太刀を手に取る。

 髭切丸が収まる鞘の朱を眺めながら、頭を巡らす。


 一昨夜、確かに一条通りで遊女と思しき女と逢った。

 ふたりで酒を酌み交わしている内に泥酔し、前後不覚になった。

 呑んでいたのは大将軍近くの茶屋の座敷だ。

 そこまでははっきりと覚えている。


 気付いたときには北野天満宮にいた。

 周囲には刀を振り回した様子があり、自らの手には手折れた太刀が握られていた。

 これも事実だ。

 握っていた束の感触が今も手に残っている。

 綱は髭切の束をぎゅっと握った。


 荒れた境内。

 斬り倒された梅の木の根元にあった女の手首。

 あれは現実だったのだろうか。

 拾い上げたときの冷たい感触、蝋のような肌触りも矢張り指先に残っている。

 で、あれば夢や幻ではなかろう。


 然し、懐に入れた筈の手首。

 あの後、どうした? 消えた訳ではあるまい。

「ああ、検非違使に引き渡したのか……」


 いや、あの場所で検非違使には逢っていない気がする。

 では、誰に渡した?

 宮司か、神職の誰かか?

 そこの記憶がない。


 あの腕は、酒乱の様に暴れてしまったことへの悔い、醒め際に感じた焦り、そんな気持ちが見せた幻だったのか。

 斬られた腕が幻だったとすれば、自らへの沙汰はどうなる?

 刃傷沙汰になっていないのであれば、道長公まで巻き込んだ大事になるだろうか?

 大きな問題になっているからこそ、道長公の命で安倍晴明が一条邸まで出向き、そして今、その晴明の屋敷で己が謹慎を受けようとしている。


 然し、その謹慎がぬるい。温すぎるとさえ思う。

「何か裏があるか……」

 でなければ、わざわざ主君頼光の愛刀を拝借するまでのことが必要であろうか。

 そこに何の意味があるのか、それが見えない。



 それにしても――。

 老翁に対して昨晩から薄々と感じる既視感があった。

 間違いなく安倍晴明という人物に対面したのは、昨夜が初めてのこと。

 然し、老翁の掴み処のない飄々とした会話の節々が、過去に交わした会話と重なる。

「まるで朱点しゅてんと会話しているかのようではないか……」


 綱は五年前の大枝おおえの坂での件を思い返す。

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