第40話 新しい朝

 窓の隙間から差し込む柔らかな朝の光が、ルーカスのまぶたを優しくくすぐった。

 遠くから聞こえるのは、朝練に励む兵士たちの勇ましい掛け声と、活気のある朝を告げる城の鐘の音。


 ゆっくりと目を開ける。

 飛び込んできたのは、まだ見慣れぬ木目の天井だった。

 そこはファビウス邸の、無駄に広く、そして冷たい自室ではない。

 王城の一角にある兵士宿舎。

 ベッドと小さな書き物机、それに身支度用のロッカーを置いただけの、簡素な一人部屋だ。手を伸ばせば壁に届くほど狭く、床を歩けば少し軋む音がする。

 だが、その狭さが今はむしろ心地よかった。


 ここには、理不尽な命令を下す父も、嘲笑を浴びせる義弟もいない。朝の光は分厚い遮光カーテンに阻まれることなく、部屋の中を自由に満たし、空気中に舞う塵さえも金色の粒のように輝かせている。


 ルーカスはベッドの上で、誰に遠慮することなく大きく伸びをした。体の節々がポキポキと鳴る音さえ、愛おしい音楽のように聞こえる。

 ルーカスにとって、そこは生まれて初めて手に入れた、誰にも脅かされることのない、自分だけの温かい城であった。


  ――あの日のことを、思い出す。


 兄と別れ、背を向けた、あの屋敷をルーカスは二度と振り返らなかった。

 あの後、ルーカスが最初に向かったのは、自らの職場である王城であった。

 通報、状況報告、そして、場合によってはファビウス家を追放されたことによる、兵士職の返上――つまり、退職を願い出るために。

 ボロボロに汚れ、裂けた兵士服。あちこちに生々しい擦り傷を作り、煤で黒ずんだ顔。そのあまりの姿に、夜勤明けの門番兵は、最初亡霊でも見たかのような顔をして絶句した


「ルーカス!? お前、一体、何があったんだ!?」


 彼が何かを説明するよりも早く、噂は王都を駆け巡っていた。

 ――宰相閣下のお屋敷で、原因不明の大規模な崩落事故が発生したらしい。

 その続報として、宰相閣下の次男が家を追放されたらしい。という衝撃的なニュースが、兵士たちの間に広まるのに、そう時間はかからなかった。


「……そうか。お前、とうとう……」


 最初に沈黙を破ったのは、先輩のバルツだった。彼はルーカスの肩に無言で手を置くと、顔をくしゃりと歪めて、「馬鹿野郎、今までよく一人で耐えたな」と、それだけ言った。

「いや……むしろ、良かったのかもしれねえな。あんな家、こっちから願い下げだ」

 彼のぶっきらぼうな、しかしどこまでも温かい言葉に、他の兵士たちも次々と頷いた。

「だよな!」「お前の苦労は、俺たちも知ってる!」「で、これから、どうするんだ? 行くあて、あんのか?」


 同僚たちの、心配そうな視線。

 自分は一人ではなかった。ずっと見ていてくれる人がいた。その温かい事実に、ルーカスの胸がじんわりと熱くなった。


 そこからの話は、驚くほど速く進んだ。

 バルツたちが、自分たちの上官である部隊長に、必死に掛け合ってくれたのだ。「あいつは真面目だし、腕も立つ。このまま放り出すのは、あんまりだ」と。

 その話を聞いた部隊長は、「……あそこの家の事情は、俺も少しは聞いている」と苦々しげに呟いた。一つ、大きな溜息をつくと、「分かった。俺が、掛け合ってきてやる」とだけ言い残し、上層部へと直談判に向かってくれた。


 そして驚くべきことに。

 兵士としての継続勤務と、寮への入居許可。それは異例ともいえるほどの速さで、あっさりと下りたのだという。


 それが、単なる同情からくる温情なのか。

 それとも、ギデオンへの当てつけをしたい、誰かの政治的な思惑なのか。

 あるいは兄上が、水面下で何か手を回してくれた結果なのか。

 その理由は、ルーカスには分からない。

 だが、どうであれ、彼にとっては感謝以外の何物でもなかった。


 ――そうして手に入れた、今日の休日。


 兵士の非番である、今日。

 ルーカスは、すっかり履き慣れたブーツで、活気に満ち溢れた王都の雑踏の中を歩いていた。

 その表情は、かつての何かに怯えるような、陰鬱なものではない。

 自信と、そして未来への希望に満ちた、一人の青年としての晴れやかな顔であった。


 以前はただ自分を拒絶する壁のように見えた街並みが、今は守るべき人々の暮らしの営みに見えた。貴族たちが馬車で通り過ぎても、もう卑屈に目を伏せることはない。自分には自分の戦うべき場所がある。

 路地裏で見かけた、顔なじみの野良猫の頭をくしゃりと撫でて、「おはよう」と挨拶をする。

 市場を歩けば、以前リンゴを渡してくれたあの店主が、その恰幅のいい身体を揺すって彼に声をかけてきた。


「おや、兵士さんじゃないか! なんだい、最近、すごくいい顔になったじゃないか! 何か、いいことでもあったのかい?」


「ええ、まあ、色々と」

 ルーカスは、はにかみながらそう答えた。


 やがてルーカスは、見慣れた円い看板の前へとたどり着いた。

 そっと、扉を開ける。

 カラン、という涼やかなベルの音。

 そしていつもの、心を落ち着かせてくれる温かいハーブの香り。


「――いらっしゃい、ルーカス!」


 カウンターの向こうで、リネットの太陽のような笑顔が弾ける。

 その隣ではジェラールが、黙々と、しかしどこか満足げに銀のカップを磨いている。

 厨房から顔を出したカイが、ぶっきらぼうな、しかし親しみのこもった声で軽口を叩いてくる。


「よお、ルーカス。遅かったじゃねえか。腹、減ってんだろ」


 その光景に、ルーカスの胸が温かいもので満たされていく。


 店の隅、特等席である暖炉際のロッキングチェアでは、金色の猫レオンが、まるで王のように尊大に、ふぁあ、と大きなあくびをした。

 ルーカスはその傍へ近寄り、「先日はありがとうございました」と頭を下げた。


 あの夜、人気のない時間帯であっても、この国では平民であるリネットたちが貴族街、しかも宰相の屋敷という重要地域に侵入するのは極めて危険だった。

 しかし、奇妙な偶然が重なっていたのだ。

 後で兵士仲間から聞いた話によると、屋敷から離れた別の場所で、何十匹の野良猫たちが屋台をひっくり返さんとばかりに大騒ぎを起こし、衛兵や巡回兵たちの注意がそちらに釘付けになっていたらしい。


 たまたまかもしれない。

 けれどそれが、野良猫たちに対し絶対君主として君臨する、レオンの采配であったとしか、ルーカスには思えなかった。

 礼を言うルーカスに対し、レオンは言葉が聞こえているのかいないのか、ただ、パタリと一度だけ気怠げに尻尾を振っただけだった。


 ここはルーカスの、もう一つのかけがえのない大切な居場所。

 だがそれは、家族の温もりとは少し違う。

 志を同じくする、仲間たちの集う場所。


 ルーカスは自らの力で未来を切り開いているという、確かな実感と、そして、幸福に包まれていた。

 胸元で、兄から受け取ったあの金のロケットが、新しい朝の光を浴びて、キラリと温かく輝いていた。




獅子の国と迷子の妖精

~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~ 了


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【あとがき】


 頭の中に棲みついていた設定や、ふとした瞬間に浮かぶ情景。

 それらをAIに補助してもらいつつ、ひとつの物語として形にしてみました。

 始まりは誰かに見せるためではなく、自分の中から解き放つために生まれた作品です。

 しかし、せっかく形になったので、「読んでみたい」という方がいれば……と思い、公開することにしました。

 つかの間の暇つぶしとして、お楽しみいただけたのなら嬉しいです。


 都合により、感想欄は閉じております。

 ご感想やご意見は、ご自身のSNSアカウントなどへ書いていただければ幸いです。


 続きについては、フォローや★などの反響を想像以上にいただくか、再び発想が頭の中に居座ったら作成すると思います。

 このたびは、拙作を見つけてくださり、ありがとうございました。


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獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完】 相野端摘 @AIno_Hatsumi

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