第30話 交わされる言葉

 ルーカスの声に、小休止を取っていたサイラスの一行が一斉に振り返った。

 埃まみれの侍女たちの、驚きに見開かれた瞳。

 そしてサイラスは、初めて見る凍りついたような表情を浮かべていた。

 その氷の仮面に一瞬だけ走った亀裂を、ルーカスは確かに見た。

「……ルーカス?」

 絞り出すような、か細い声。

 次の瞬間、サイラスはそれまでの冷静沈着な振る舞いがまるで嘘であったかのように、侍女たちを押し退けるようにして、ルーカスへと駆け寄ってきた。

(なっ……!?)

 ルーカスは、咄嗟に身構えた。

 ノエルのあの狂気に満ちた裏切りが、彼の脳裏に鮮明な残像として焼き付いて離れなかったからだ。

 だが、サイラスの行動は、ルーカスの予想をあらゆる意味で遥かに超えていた。


 力強い腕が、問答無用でルーカスを抱き寄せた。強く、強く。

「……生きて、いたのか」

 耳元で聞こえたその声は、震えていた。安堵と、そしてこれまで決して感じたことのなかった、深い感情の色を帯びて。

 ルーカスは、何が起きたのか理解できないまま、兄の腕の中でただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 背中に回された腕の、力強い感触。伝わってくる、兄の温もりと、わずかな震え。

 これは、罠なのか。それとも。

 ルーカスの混乱をよそに、サイラスはゆっくりと身体を離すと、今度はルーカスの両肩を掴み、その姿を頭から足先まで、真剣な眼差しで確認した。

「……大きな怪我は、ないようだな。良かった」

 そう言って、心の底から安堵したように、一つ、長い息を吐いた。

 そのあまりに人間的で、あまりにも一般的な兄のような振る舞いに、ルーカスはただ言葉を失っていた。


「……まずは、ここを離れよう。もう少し、安全な場所がある」

 サイラスは、すぐにいつもの冷静さを取り戻すと、そう言って一行を促した。

 全員は、厨房と食料庫が、無理やり溶け合ったような歪んだ空間を進んでいく。ルーカスは先程の兄の態度に呆然としたまま、まるで夢遊病者のようにサイラスのすぐ後ろを、ふらふらとついていった。

 やがて一行は、巨大な業務用のオーブンが壁となり、比較的、空間の歪みが少ない一角へとたどり着いた。

 サイラスの指示で、侍女や庭師たちがようやく腰を下ろして息をつく。ある者は近くの棚から、まだ食べられそうな果物や干し肉を探し始め、またある者は、ただ呆然と床に座り込んでいる。

 その中で、サイラスは改めてルーカスと向き合った。

「一体、何があった。お前が見たことを、ありのままに話せ」

 ルーカスは、一度ごくりと唾を飲み込むと、自分が意識を失うまでの出来事を、順を追って、客観的に話し始めた。

「……気がついた時には、屋敷は既にこの有り様でした。生存者を探して奥へ進むと、客室で、ノエルと、彼の友人たちを見つけました」

「あの愚か者が、やはり原因か」

 サイラスが吐き捨てるように言う。その声には、義弟であるノエルへの同情など、微塵も感じられなかった。

「ノエルは……ひどく錯乱していて、まともな会話もできませんでした。そして、僕が助けようとしたところ……逆上したノエルに、力任せに突き飛ばされ……気づいたら、先ほど、兄上がいた場所の近くに……」

 ルーカスは、銀線細工の馬車の置物についても付け加えた。それが禍々しい赤い宝石を乗せ、空間を滑るように移動しながら、新たな亀裂を生み出していたことも。


 サイラスは腕を組み、目を閉じて、その報告を黙って聞いていた。

 やがてサイラスは、静かに目を開くと、自身の推測を語り始めた。

「その置物は、おそらくシルヴァ王国から手に入れた国宝の一つ、『羽根の車駕しゃが』だろう」

「『羽根の車駕しゃが』……」

「馬車ではなく、車駕しゃがとあえて名をつけたなら、王族か、それに準じた者の乗り物をイメージして作られたのだろう。どのような能力かわからないが、本来は国宝にふさわしい力を持っていたはずだ」

 サイラスは一旦言葉を切り、続けた。

「……だが、今は憎悪に染まり、ただ空間を引き裂くだけの、災厄の化身と成り果ててしまったか」

 サイラスの口調は、まるでどこか遠い国の歴史を語るかのように、淡々としていた。

「父上は、あれを十四年前の武勲の証として、国王陛下から直々に下賜されたのだ。可能ならその力を手に入れるため。難しいなら、自らの功績を誇るためのトロフィーとして、書斎の奥に私蔵していたのだろう。そしてノエルは、それを嗅ぎつけた。……全く、救いようのない、愚か者め」


 その時であった。

「サイラス様! 食料庫の方に、まだ手つかずの木箱が!」

 若いメイドの一人が、少しだけ明るい声を上げた。

 庭師と二人で、大きな木箱を一行の前へと運び出す。蓋を開けると、中には色とりどりの果物が、まだ瑞々しさを保ったまま、ぎっしりと詰められていた。

「おお……!」

「これで、喉の渇きだけでも……」

 だが、最初に手に取ったメイドが、ひっ、と短い悲鳴を上げた。彼女が持っていたリンゴの裏側は、半面がどろりと、黒く腐り落ちていたのだ。

「なっ……!?」

 別の庭師が慌てて別の洋梨を手に取る。だが、それはまるで石のように硬く、まだ熟すにはほど遠い状態であった。

 希望は、すぐに奇妙な恐怖へと変わった。

 箱の中の果物は、この歪んだ空間の影響か、その時間の流れが、滅茶苦茶になってしまっているらしかった。あるものは腐り落ち、あるものは未熟なまま。どれが安全に食べられるものなのか、コックでもない彼らでは、全く判断がつかない。


 その、絶望的な光景を前にして。

 ルーカスはほとんど無意識に、口を開いていた。

「……すみません。その、右から三番目のリンゴは、食べられます。あと、その下の、少し色の薄いリンゴも」

「え……?」

 メイドが訝しげな顔で、ルーカスを見る。宰相家の、何の役にも立たない、出来損ないの次男坊。その彼が何を根拠に、そんなことを言うのか。彼女の瞳はそう語っていた。

「どうして、そんなことが……」

「昔からの慣れです……ただ、分かるんです。どれなら、安全に食べられるのか……」

 ルーカスの言葉を、誰も信じようとはしなかった。

 その張り詰めた空気を、破ったのは。


「――そうか」


 サイラスであった。

 彼は、こともなげにそう言うと、自ら木箱に歩み寄り、ルーカスが指し示した、そのリンゴを、手に取った。

 そして何の躊躇もなく、その皮にかぶりついたのだ。

 しゃく、という瑞々しい甘やかな音。

 サイラスはゆっくりとそれを咀嚼し、飲み込むと、ただ一言、静かに告げた。

「……うまいな」


 そのたった一言が、全てだった。

 ルーカスは呆然と、兄の姿を見つめていた。

 兄は僕を信じてくれたのか。

 疑うことなく。

 サイラスのその行動を見て、他の使用人たちもおそるおそる、ルーカスが選んだ果物に手を伸ばし始める。

 ルーカスはサイラスから、無言で差し出された別のリンゴを受け取った。

 甘い果汁が、乾ききった喉を、ゆっくりと潤していく。

 これまで、決して交わることのなかった兄弟の視線が、その歪んだ空間の中で、確かに初めて交わされた。

 兄は、やはり、ただの冷酷な人間ではないのかもしれない。

 その孤独な仮面の下に、確かに何かを隠している。

 その何かを、知りたい。

 ルーカスの心に、これまでとは全く違う種類の感情が、芽生え始めていた。

 だが、その束の間の静かな対話は、


 ゴゴゴゴゴゴゴッ!!


 空間そのものが悲鳴をあげるように響き渡った、断末魔の轟音で終わった。

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