第16話 二つの居場所

 王城の兵士詰所は、どこか気の抜けたような、穏やかな空気に包まれていた。

「聞いたか? 貴族街の幽霊騒ぎ、何日か前からピタリと止んだそうだぜ」

「マジかよ!? じゃあ、あの気味の悪い夜間巡回も、もう終わりってことか?」

「ああ。さっき部隊長からお達しがあった。住民の不安を払拭し、街の平和を守ったってんで、巡回部隊全員に労いの言葉と特別手当が出るらしい」

「うおお、マジか! ラッキー!」

 同僚たちの屈託のない歓声を聞きながら、ルーカスは壁際でそっと安堵の息を吐いた。

(……良かった)

 真相を知るのは、ルーカスと『木漏れ日亭』の仲間たちだけだ。

 それでも、自分の行動がこうして「街の平和を守る」という形で、確かに誰かの役に立った。その事実が、彼の胸を温かい誇りで満たした。


「おい、ルーカス!」

 ぱん、と背中を強く叩かれた。振り返ると、そこにはニヤニヤと笑うバルツの顔があった。

「お疲れさん。お前も夜の巡回は初めてで、気味が悪かったろ」

「は、はい。少し……」

「まあ、何事もなくて良かったじゃねえか」

 バルツだけでなく、周りにいた他の兵士たちも、「本当だよな」「お疲れ!」と、口々に声をかけてくれる。それは、上官が部下にかける言葉ではなく、同じ任務をやり遂げた、対等な仲間同士の言葉だった。

(……僕は、一人じゃなかった)

 初めて感じた、組織の一員であるという確かな連帯感。それは、彼にとってくすぐったく、そして何よりも嬉しい感覚だった。


 そして、次の非番の日。

 ルーカスは、これまでになく晴れやかな気持ちで、胸を張って『木漏れ日亭』の扉を開けた。

 カラン、とベルが鳴るか鳴らないかのうちに、店の奥から二つの影が飛び出してくる。


「ルーカスさん! 来てくれたんだね!」

「おう、ルーカス! 待ってたぜ!」

 リネットとカイだった。二人は、まるで英雄の凱旋を迎えるように、満面の笑みで駆け寄ってきた。

「本当に、本当にありがとう、ルーカスさん! あの時、助けてくれなかったら、どうなっていたことか……!」

「お前のおかげで、助かったぜ! あの機転、大したもんだ!」

 二人の手放しの賞賛に、ルーカスは照れくさくて、顔がほてるのを感じた。

「いえ、そんな……僕なんて……」

「謙遜する必要はないよ、ルーカス君」

 カウンターの奥から、穏やかな、しかし誇らしげな声が響いた。ジェラールだ。

「君の働きは、実に見事だった」

 彼はゆっくりとカウンターから出てくると、戸惑うルーカスの頭に、そっと、大きな温かい手を置いた。それはまるで、祖父が孫を褒めるかのような、優しい手つきだった。

(……僕はずっと、こんな風に、誰かに認めてもらいたかったんだ)

 込み上げる熱いものを、彼は必死にこらえた。ここで泣いてしまっては、せっかくの賞賛が台無しになってしまう。

「あのブローチ……『囁きのブローチ』と、妖精は名乗っているが、無事に落ち着いたよ。今は地下の保管庫で、仲間が修繕しているところだ」

「そうなんですね。良かった……」

 苦しんでいた妖精が救われた。その事実が、彼にとっては何よりの報酬だった。


 その夜。

 ファビウス邸の食卓は、いつも通り、凍てつくような沈黙に支配されていた。

 末席で、冷めたスープをすする。

 以前の彼なら、この息苦しさに、心をすり減らしていただろう。

 けれど、今の彼の心は、もう揺らがなかった。

(……大丈夫)

 彼の心の中には、もう一つの温かな食卓の光景が、はっきりと灯っていたからだ。

 笑い声。優しい言葉。そして、自分のための、温かいスープ。

 彼にはもう、心から笑える場所がある。

 王城に行けば、「兵士」としての仲間がいる。

 路地裏のカフェに行けば、「仕入れ係」としての仲間が待っていてくれる。

 彼はもう、虐げられるだけの存在ではなかった。

 二つの世界に、二つの確かな居場所を、彼は自らの力で築き始めていた。

 その一歩一歩は、もう決して、孤独な道のりではなかった。

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