第12話 仕入れ係(仮)の誕生

 ルーカスの心からの申し出に、店の空気は再び沈黙に包まれた。

 だが、それは先ほどまでの重苦しいものではなく、どこか温かく、それでいて戸惑いの混じった沈黙であった。

 最初に反応したのは、やはりリネットだった。

「ほんと!? 手伝ってくれるの、ルーカスさん!」

 彼女は、ぱあっと顔を輝かせて喜んだ。その純粋な反応に、ルーカスは少しだけ心が救われるのを感じる。

「おいおい、お嬢。そんな簡単に……」

 カイが戸惑ったように口を挟むが、その声には以前のような鋭い棘はない。ただ、ルーカスという存在を、自分たちの危険な世界に引き込んで良いものか、という真摯な躊躇いが滲んでいた。


「……ルーカス君。君の気持ちは、ありがたい」

 静かに、しかしはっきりとジェラールは静かに言った。

「だが、我々がやっていることは、君が思う以上に危険なことだ。君はレーベダイドの者だ。そんな君を、我々の事情に巻き込むわけにはいかない」

 それは、彼の身を案じた、真摯で、そして揺るぎない拒絶の言葉であった。


 だが、ルーカスはもう、引き下がるつもりはなかった。

 一度開けてしまった心の蓋を、もう二度と閉ざしたくはなかったのだ。

「危険なのは、分かっています。でも、それでも……」

 彼は、自嘲気味に、しかしはっきりとした口調で続けた。

「今の僕には、父が命じる未来のための準備をすることが、許されていません。勉強することも、誰かと交流を持つことも、何もかもです」

「ただ、兵士としての日々を送り、何もせずに、時が過ぎるのを待つだけ……。そんな無為な時間があるくらいなら、その時間で、誰かの役に立ちたいんです」

 それは、彼の絶望的な状況から生まれた、切実で、偽りのない願い。

「僕にできることがあるのなら、どうか、やらせてください」

 その真っ直ぐな瞳に、ジェラールはしばらく何かを考えるように押し黙っていた。

 彼の脳裏には、様々な危険性が浮かんでいたことだろう。宰相の息子を仲間に引き入れることのリスク。彼の覚悟が、ただの一時的な同情心である可能性。

 だが、ルーカスの瞳の奥に宿る光は、そんな計算を吹き飛ばすほどに、純粋で、そして強固であった。

 やがて、ジェラールは、ふう、と息を吐き、諦めたように頷いた。。

「……分かった。君の覚悟は、本物のようだ」

 そして、彼は一つの条件を提示した。

「ならば、君には我々の『目』となってもらおう」

「『目』、ですか?」

「そうだ。君は、これまで通り兵士として城で働きながら、何か妖精憑きの所在に関する噂話や、貴族たちの不審な動きに気づいた時、それを我々に教えてほしい。いいかね? 教えるだけだ。直接的な行動は、決してしてはいけない。それが、君を受け入れるための、絶対の条件だ」

「はい……! ありがとうございます!」

 それは、ルーカスを危険から遠ざけようとする、ジェラールなりの最大限の配慮であった。

 他国の者、むしろ加害者に近いはずのルーカスに向けられる優しさに、ルーカスは胸が締め付けられた。

 そして一方的に使われる存在ではなく、仲間として、役割を与えられた。その事実が、彼の凍てついていた心を、じんわりと温かく満たしたのだ。


 張り詰めていた空気が緩んだのを見て、ジェラールは「さて、と」と、カウンターの上に置かれていた大きな果物籠に手を伸ばした。

「長い話で喉も乾いただろう。何か果物でも……」

 彼が籠の中の、少し青みがかったリンゴに手を伸ばした、その時であった。

「あ、すみません!」

 ルーカスは、ほとんど無意識に、声を上げていた。

「え?」

「そちらのリンゴも美味しいとは思いますが……もしよろしければ、こちらの洋梨のほうが、よく熟れていて甘いかと」

 彼は、籠の中の一つの洋梨を指さした。ごく自然に口をついて出た言葉だった。

「ほら、皮に少しだけ透明感が出ていて、ヘタの周りに皺が寄り始めている。これが、完熟の印なんです」

 それは、彼の悲しい過去が身につけさせた、ささやかな処世術だった。限られた食事の中で、最も美味しく、最も栄養のあるものを、瞬時に見分けるための知恵。

 その何気ない一言に、リネット、カイ、そしてジェラールの三人が、きょとん、と目を丸くして彼を見つめている。

「……へえ。坊主、詳しいじゃねえか」

 感心したようにカイが言う。ルーカスは、はっと我に返ると、顔を真っ赤にしてうつむいた。

「す、すみません! でしゃばったことを……! その、昔から、食べられるものを探すのが、癖で……」

 その言葉が、彼が語った壮絶な半生を再び思い出させ、店の空気が一瞬だけ、切ないものになる。

 だが、カイは、そんな空気を吹き飛ばすかのように、ニヤリと笑った。

「よし、じゃあ両方味見してみようぜ!」

 彼は腰のナイフを器用に抜き放つと、するりと、二つの果物の皮を剥き始めた。その手つきは、まるで熟練の料理人のようであった。


 カイが切り分けてくれた洋梨とリンゴが、それぞれ小皿に乗って、全員の前に配られる。

 しゃくっ、という瑞々しい音が、静かな店内に心地よく響いた。

「「ん……!」」

 リネットとカイが、同時に声を上げる。

「……甘い!」

「本当だ! こっちの洋梨、とろけるみたいだ!」

「リンゴの方は、確かに少し若いな。酸味は良いが、まだ硬さが残ってやがる」

 二人の素直な感想に、ルーカスは自分のことのように嬉しくなって、思わず顔がほころんだ。

 ジェラールも、黙って洋梨の一切れを口に運ぶと、ほう、と深く感心したように息を漏らす。

 そして、何かを閃いたかのように、ポン、と手を打った。

「……決めた」

 彼は、悪戯っぽく片目をつむると、ルーカスに向かって、厳かに宣言した。


「ルーカス君。君を、この『木漏れ日亭』の『仕入れ係』仮に任命しよう」


「え……し、仕入れ、係……?」

 思いがけない言葉に、ルーカスは呆然と繰り返した。

「うむ。これだけ確かな目利きができるのなら、店の食材選びを任せられる。表向き、『店の仕入れを手伝う青年』という肩書きがあれば、君が我々と客以上の付き合いをしていても、誰も怪しむまい」

 それは、確かに納得の行く言い訳だった。

 仕入れ係。

 それは、ルーカスが初めて、自分から求めて手に入れた、誇らしい『役割』であり、『肩書き』だったのだ。

 出来損ないでも、スペアでも、奴隷でもない。

 確かな役割を持った、一人の人間として、ここにいることを許されたのだ。

「……はい」

 彼は、込み上げてくる熱いものを必死にこらえながら、震える声で、しかしはっきりと答えた。

「はい……! このルーカス・ファビウス、本日より木漏れ日亭の仕入れ係を拝命いたします!」

 その必死の、しかしどこか時代がかって、ずれた返答に、リネットとカイは一瞬顔を見合わせた後、こらえきれずに、ぷっと吹き出した。

「あはは! 何それ、大げさだよ!」

「拝命、だぁ? お前、どこの騎士様だよ!」

 そして、店は、今日一番の、どこまでも温かい笑い声に包まれたのだった。

 それは、一人の孤独な青年が、初めて、本当の居場所を見つけた瞬間の、祝福の音色であった。

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