第6話 世界の断片
王城での兵士の任務は、相変わらず地味で骨の折れるものだった。
父ギデオンから「お前は騎士の器ではない。せめて兵士となり、軍部を探る私の目となれ」という命令一つで放り込まれた職場である。しかし、下っ端であるルーカスに回ってくる重要な情報は存在しない。広い廊下を巡回し、城壁の上で見張りに立ち、貴族たちの馬車へ敬礼を送る――そんな単調な毎日が過ぎていく。
かつての彼は、ただ父の命令ゆえに時間を無気力に消費し、同僚たちとも一定の距離を保っていた。宰相の息子というだけで、彼らにはどこか煙たがられていた。ルーカスはそう確信していたのである。
しかし、現在のルーカスの内面は、その日々の様相と明確に異なりつつあった。『木漏れ日亭』での予期せぬ出会いが、閉ざされていた彼の視野に一つの窓を開いた。あのカフェの温もりを思い返すだけで、重い槍の荷重も、凍てつく風の痛覚も、不思議と苦痛には感じられなかった。これまで聞き流していた兵士たちの会話が、今や世界の輪郭を知るための、極めて貴重な情報源のように思えた。彼の視野は、僅かに、しかし確実に広がっていた。
その日の昼休憩。兵士たちが集まる詰所は、常日頃よりも幾分かのざわめきを内包していた。配給されたシチューと黒パンを口に運びながら、ルーカスは隅の席で、静かに彼らの会話に聞き耳を立てる。下級兵士用の食事は質素ながら、熱が失われずに供給され、満たされるだけの量がある。それは屋敷で口にする冷めた残飯とは比べものにならないほど、心を満たす味だった。
「おい、聞いたか? 今朝、東門のパン屋の娘と衛兵のマルコが一緒にいるところを見たって奴がいてな」
「なんだよそれ! マルコの奴、抜け駆けかよ! 俺だってあの娘にパンの一つも多く包んでもらおうと、毎日通ってたってのによぉ!」
「お前は下心がバレバレなんだよ」
そんな他愛のない噂話に、兵士たちがどっと笑う。ルーカスも思わず、くすりと笑ってしまった。
やがて、その雑談の潮流は、より真摯な論へと移っていった。
「そういえば、サイラス様が今朝、獅子様の神殿にかなりの額を寄付したらしいじゃねぇか」
「へえ、宰相閣下のご子息にしては、殊勝なこったな」
年かさの兵士が、嘆息と共にそう呟いた。
「『勇敢』『正々堂々』が、獅子様から与えられた我が国の美徳だったはずなんだがな……。すっかり忘れちまった奴らが多すぎる」
「そもそも、有翼の獅子様だって、昔は時折そのお姿を民衆の前にも見せてくださったって言うじゃねえか。今じゃ、王族の方々の前にしかお姿を表さないそうじゃねぇか」
その会話は、ルーカスにとって聞くことの叶わなかった未知の事実に満ちていた。父も兄も、家の内部で「有翼の獅子様」にまつわる事柄を口にしたことは一度もない。
そこへ、休憩を終えた部隊長が入ってきた。
「おい、お前ら。午後の巡回だが、南門の穀物倉庫の警備を増やすことになった。覚えておけ」
「倉庫、ですか? 何かあったんですかい」
「ああ。どうも、今年の地方からの搬入量が、例年より異常に少ないらしい。盗っ人でも出たら大事だからな」
部隊長の言葉に、詰所を支配する空気が一層の重さを増す。地方出身の若い兵士の一人は、隠しようのない不安をその顔に滲ませて口を開いた。
「それって、やっぱり……」
「ああ、間違いないだろうな」
年かさの兵士――バルツという名の、百戦錬磨の風格を持つ男は、大きくため息をつくと、重い口を開いた。
「西の方から吹いてくる、あの『嘆きの風』ってやつのせいさ」
その不吉な単語に、詰所が一瞬、水を打ったように静寂に包まれた。
「『嘆きの風』、ですか? すいません、俺、都の生まれなもんで、よく知らなくて」
別の若い兵士が、おずおずと尋ねる。
「お前もか。まあ、無理もねえさ。この王都レオリカにいる限りは、関係のねえ話だからな」
バルツは、シチューの最後の一滴をパンで拭って口に入れると、まるで若い兵士たちに言い聞かせるように語り始めた。
「『嘆きの風』ってのはな、ここ数年、西方のソルグランデ平原から吹き付けるようになった、乾いた呪いの風だ。あれに当たると、植物はあっという間に枯れちまう。豊かな土壌も、ただの砂に変わっちまうのさ」
「そんな、恐ろしいことが……!」
「ああ。西の村じゃ、畑を捨てて都に流れてくる連中も後を絶たないって話だ。だというのに、宰相閣下をはじめ、お偉いさん方はこの問題を重要視しちゃいねえ。所詮は田舎の些事、とでも思ってんだろうよ」
バルツはそう告げると、手にした空の木の皿を、自らの胸中を映すかのように忌々しげにテーブルへと叩きつけた。
ルーカスは、ただの聞き手として、そのやり取りを黙して受け止めた。それは衝撃だった。彼の視界の及ばぬところで、国全体が静かに、しかし抗い難い確実性をもって蝕まれているという、圧倒的な現実に。さらに、その腐敗の元凶の一端を、他ならぬ己の父親が担っているという、自明なまでの事実に。
屋敷の壁の中で、自分の小さな不幸だけを嘆いていた昔の自分が、今はひどく恥ずかしく思えた。世界は、彼の想像したよりも遙かに広く、同時に遥かに複雑な病巣を抱えていたのである。「木漏れ日亭」の彼女たちもまた、同様に何らかの巨大な問題と格闘しているに違いない。
ならば、守られるだけの自分ではなく、自分もまた「戦わなければならない」という切実な思いが去来した。何と戦うべきか? いまだにその形は明確ではない。しかし、今、まず初めに挑むべき敵は、他でもないこの「無知」な自分自身であった。
「知ること」。それが、現在の彼に許された、唯一の武器となるかもしれない。有翼の獅子様が重んじるという『勇敢』の第一歩とは、きっと、現実から目を逸らさず真実を見つめる勇気を持つことだ。
ルーカスは内に静かな決意を固めた。窓の外に広がる王都の街並みを、彼はこれまで見たこともない真剣な眼差しで、その目で捉え返す。今、この瞬間に一体何が起こり、人々は何に呻吟し、何を渇望しているのか。
ただの無力な存在から、いつの日か何かを確かに守り抜ける存在になるために。
ルーカスの魂に、『知りたい』と名付けられた静かな炎が灯った――その瞬間が、彼にとっての決定的な転機となった。
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