第3話 木漏れ日亭の温もり
扉が開いた瞬間、ルーカスは温もりのあるハーブの香りにふわりと包まれた。
そこは、彼がこれまで生きてきた灰色で冷たい世界とは、まるで別世界のような空間だった。
使い込まれた木のカウンターが、ランプのオレンジ色の光を優しく反射している。壁には乾燥させた薬草の束がたくさん吊るされ、ステンドグラスから差し込む月光が、床に虹色の模様を描いていた。
パチ、パチと暖炉で薪が静かに爆ぜる音だけが、店内に穏やかに響いている。
あまりの温かさに、凍えていた身体の力が、ふっと抜けそうになった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、中へ」
カウンターの奥から、柔和な皺を刻んだ初老の男性が、穏やかな声で彼を招き入れた。その後ろでは、腕を組んだ黒髪の青年が、獲物を値踏みするかのような鋭い目で、じろりとルーカスを一瞥する。
ルーカスがきょろきょろと視線を彷徨わせていると、案内役だった金色の猫――レオンと呼ばれていたか――は、当然のように店内を横切り、暖炉の前に置かれた一人掛けの立派なロッキングチェアにぴょんと飛び乗ると、満足げに丸くなってしまった。まるで、そこが自分の玉座であるとでも言うかのように。
「いらっしゃい! 大変だったみたいだね」
その時、太陽みたいな明るい声が、彼のすぐそばで弾けた。
ハッとして顔を上げると、そこには茶色い髪の、快活な笑顔を浮かべた少女が立っていた。彼女こそ、扉を開けてくれた少女だった。その大きな紫色の瞳は、少しも臆することなく、真っ直ぐにルーカスを見つめていた。
少女はルーカスの足元――半ば透けてしまった、その痛々しい足を見ても、眉一つ動かさない。ただ、本当に心配そうに、少しだけ眉を下げた。
「その足、ずいぶんひどい『暴走』に巻き込まれたみたいね。大変だったでしょう?」
「え……あ……」
当たり前のように言い当てられ、ルーカスは言葉に詰まる。
助けを求めたい。でも、自分が何者かを知られれば、きっとこの温かい場所からも追い出されてしまうに違いない。警戒心と安堵感の狭間で、彼の唇は震えるだけだった。
少女はそんな彼の葛藤を見透かしたように、にっこりと微笑むと、彼が握りしめていたものに視線を移した。
壊れた、銀の懐中時計。
「ああ、やっぱり。その子が原因なんだね。なんだか、すっごく苦しそうに泣いてるね」
「な……泣いてる……?」
ルーカスは思わず、手の中の時計を見た。彼にはただの壊れた時計にしか見えない。だが、少女には何か違うものが見えているらしい。
「うん。大丈夫、私がなんとかしてあげるね。だから……」
少女――リネットは、そこで一度言葉を切ると、いたずらっぽく片目をつむって見せた。
「その時計、私たちに譲ってくれるならね、あなたの身体、元に戻してあげるね!」
……え?
あまりにも突飛な提案に、ルーカスの思考は完全に停止した。
時計を譲る? 身体を戻す? まるで子供のおとぎ話だ。でも、彼女の紫色の瞳は、冗談を言っているようには到底見えなかった。
「おい、お嬢! そんな簡単に……」
「いいの、カイ! レオン様が連れてきたお客さんだもんね!」
後ろで何か言いたげだったカイと呼ばれた青年を、リネットはぴしゃりと制する。
ルーカスの前には、二つの道があった。
この怪しい申し出を断り、再びあの冷たい雑踏の中へ戻り、孤独に消えていく道。
そして、目の前の少女の言葉を信じ、この温かい場所にもう少しだけ留まる道。
答えは、決まっていた。
「……はい」
蚊の鳴くような、か細い声だった。それでも、彼は確かに頷いた。
「……お願いします。助けて、ください」
それを聞いたリネットは、ぱあっと花が咲くように笑った。
「うん、任せてね!」
その笑顔は、彼がこれまでの人生で見てきたどんな宝石よりも、ずっと眩しく、そして温かかった。
「話は決まったようだね。では、まずはお掛けなさい。冷えただろう」
ずっと黙って成り行きを見守っていたマスターらしき老人――ジェラールが、カウンターの内側から、一番近くの椅子を引いてくれた。
ルーカスは、まるで夢の中にいるような気分で、おそるおそるそのスツールに腰を下ろす。
ジェラールは手際よく棚から小さな瓶を取り出すと、乾燥した花びらをティーポットに入れ、湯を注いだ。途端に、ふわりと甘く優しい香りが立ち上る。
やがて、琥珀色の液体が注がれたマグカップが、彼の前にそっと置かれた。
「カモミールティーだ。神経を落ち着かせる効果がある」
「あ……ありがとう、ございます……」
差し出された温かい飲み物。
それは、彼にとって、生まれて初めて誰かから差し出された、見返りを求めない純粋な優しさの塊だった。
ごくり、と一口。
優しい花の香りと、ほんのりとした甘みが、冷え切った身体の芯をじんわりと溶かしていく。ぽかぽかと温かいマグカップを両手で包み込むと、強張っていた指先の感覚が、少しずつ戻ってくるようだった。
その温かさが、彼の心の奥底に、固く閉ざしていた扉の鍵を、いとも簡単に見つけ出してしまった。
気づいた時には、もう遅かった。
ぽろり、と。
マグカップを持つ彼の手の甲に、温かい雫が一つ、落ちた。
あれ、と彼自身が思う間もなく、それは次から次へと溢れ出して、止まらなくなった。
嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。
ただ、心の奥が温かくて、苦しくて、どうしようもなかった。
しゃくりあげる声も出せず、ただ静かに涙をこぼす彼の姿を、リネットたちは少し困ったように、けれどとても優しく見守っていた。
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