獅子の国と迷子の妖精~宰相に捨てられた息子がたどり着いたのは、亡国の隠れ家カフェでした~【第一巻完】
相野端摘
第1話 灰色の日常と暴走の序曲
宰相家ファビウス邸の朝食は、いつだって儀式のように冷え切っていた。
磨き上げられた長い黒曜石のテーブル。ずらりと並んだ銀食器が、窓から差し込む冬の光を鈍く、そして冷たく反射する。カチャリ、と誰かがカップを置く音だけが、やけに大きく響き渡った。
席に着いているのは五人。
この国の宰相であり、絶対的な支配者として君臨する父、ギデオン・ファビウス。その隣では、完璧な後継者である長男のサイラスが、感情の読めない涼やかな顔でスープを口に運んでいる。国境付近の関税については、と父と兄の間で交わされる言葉は、まるで古代語のようにルーカスの耳を素通りしていった。
そして向かい側では、義母のベアトリスが、異母弟であるノエルの口元についたジャムを甲斐甲斐しく拭っている。
「まあ、ノエルちゃん。そんなにはしたない食べ方をしてはなりませんことよ?」
「やだ! このジャム、すっぱい! もっと甘いのがいい!」
「あらあら。仕方ありませんわね。……そこのあなた、すぐに薔薇の蜂蜜を持ってきてちょうだい」
ベアトリスの甲高い声に、壁際に控えていたメイドがびくりと肩を震わせ、慌てて厨房へと下がっていく。
その光景を、テーブルの一番末席から、ルーカス・ファビウスはただ眺めていた。
彼の前に置かれているのは、硬い黒パン一切れと、白湯の入ったカップだけ。まあ、いつものことなのだが。会話の輪に入ることも許されず、豪華な食事の匂いを嗅ぐだけ。彼はまるで、そこにいないかのように扱われている。
だからルーカスは、ひたすら気配を消し、パンを音もなくかじり、息が詰まる時間が通り過ぎるのを、ただ待った。
早く、庭に行きたい。
父親に命じられた職場は外にあるが、今日は休みであり
彼にとって、この巨大な屋敷で唯一呼吸ができる場所は、あの小さな裏庭だけなのだから。
なんとか朝食の儀式を終えたルーカスは、使用人の詰所で古びた手袋を受け取ると、そそくさと裏庭へと向かった。
冬枯れの庭は少し寂しいけれど、凍てつく空気と共に吸い込む土の匂いが、彼のささくれた心を不思議と落ち着かせてくれる。凍った土の塊を丁寧にほぐし、春を待つ花の球根に「もう少しの辛抱だよ」と心の中で語りかける。それが彼の唯一の対話だった。
冷たい風が、むしろ心地よい。
このまま誰にも邪魔されなければいい。そのささやかな願いは、しかし、
「わーい! 見て見て、母様! 父上の書斎で見つけたんだ! すごいでしょ!」
幼い悪意に満ちた甲高い笑い声と共に、あっさりと打ち砕かれた。振り向けば、義弟がその小さな手に、見慣れないものを握りしめている。
それは、アンティークの懐中時計だった。美しい銀細工が施された蓋には、細かい歯車の模様が透かし彫りになっている。高価な品であることは、素人目にも明らかだった。
「まあ、ノエルちゃん! なんて素敵なんでしょう!」
ベアトリスがうっとりと声を上げる。
だが、ルーカスは胸騒ぎを覚えていた。あの時計はただの装飾品ではない。父が「妖精憑き」と呼び、書斎の奥に厳重に保管していた訳ありの代物の一つのはずだ。下手に扱えば、何が起こるか分からない。
そう思っている間にも、最悪の事態は進行していく。
てってって、と短い足で庭を駆け回っていたノエルは、一匹の野良猫が庭の隅でひなたぼっこをしているのを見つけた。それは、最近時々見かける三毛猫だった。
ノエルはにぱっと笑うと、とんでもないことを叫んだ。
「そうだ! あの猫にぶつけてやるんだ!」
「まあ、素敵なアイデアですわ、ノエルちゃん!」
楽しそうな母子の声が、ルーカスの耳には悪魔の囁きのように聞こえた。
やめろ、と声に出そうとしたが、喉が張り付いたように動かない。この家で彼が弟に意見することなど、許されていないのだから。
ノエルは「えーい!」という掛け声と共に、その美しい懐中時計を、何の躊躇もなく猫に向かって振りかぶった。
まずい!?
ルーカスがそう思った時には、もう彼の身体は地面を蹴っていた。
考えるより先に、身体が動いた、とでも言うべきか。
自分と同じ、この家では弱くて無力な存在。それを見捨てることなんて、彼にはできなかったのだ。
かん、という軽い衝撃。
彼は咄嗟に猫を抱きかかえるようにして、その背中に時計の直撃を受けた。幸い、大した痛みはない。だが――。
チリリ、と時計から鈴が鳴るような、しかしどこか不協和音の混じる音が響いた。
次の瞬間。
ルーカスの身体を、形容しがたい悪寒が駆け巡った。まるで、自分の存在そのものが、この世界から薄められていくような奇妙な感覚。
「ニャッ!?」
腕の中の猫が驚いたように鳴き、彼の腕からぴょんと飛び降りると、あっという間に塀の向こうへと姿を消してしまった。
その場に残されたルーカスは、自分の足元を見て、息を呑んだ。
靴が、透けていた。
靴ごと自分の足首から先が、まるで薄いガラスでできているみたいに、向こう側の景色がうっすらと見えているではないか。
「な……にが……」
「まあ! なんてことするの、この出来損ない!」
我に返ったベアトリスが、金切り声を上げてルーカスに駆け寄ってきた。だが、その目はルーカスではなく、地面に落ちた懐中時計に注がれている。時計の蓋は歪み、美しい銀細工には傷がついていた。
「ノエルちゃんの大事なおもちゃを壊すなんて! あなた、どうしてくれるの!?」
「え……僕は、ただ……」
「黙れ、愚か者めが」
騒ぎを聞きつけたギデオンが、氷よりも冷たい声で言い放った。彼の灰色の瞳は、息子であるはずのルーカスを、道端の石ころでも見るかのように見下している。
「弁解は聞かん。ノエルの遊びの邪魔をしたばかりか、私のコレクションまで破壊するとは。我がファビウス家の汚点だ」
ルーカスは何も言えなかった。
この家で、父の、宰相閣下の言葉は絶対なのだから。
「お前は、呪いが解けるまでこの家に戻るな。……いや、ノエルの役に立てぬのなら、戻る必要すらないか」
ギデオンはそう吐き捨てると、壊れた懐中時計を拾い上げ、ルーカスの手に無造作に放り投げた。
「これを持って、出ていけ」
それが、息子に向けられた最後の言葉だった。
ルーカスは、何が何だか分からないまま、屋敷の門から追い出された。
ポケットには硬貨ひとつ入っていない。あるのは、この奇妙な現象の原因である、壊れた懐中時計だけ。
ざわざわとした王都の雑踏が、急に遠い世界の出来事のように感じられた。
彼は自分の手を見る。指先が、ほんの少しだけ透け始めている。
このままでは、自分は消えてしまうのではないか?
そんな焦燥感に駆られながら、彼はただあてもなく、人波の中へと一歩を踏み出すしかなかった。
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