第14話 🕰もちゃぷきん、時間をずらす。
ヨーロッパの小さな町。
霧のかかった朝に、振り子時計の塔がゆっくりと鐘を打った。
金属の音が、まだ冷たい空気を震わせる。
エミールはその音を聞きながら、机の上の懐中時計を磨いていた。
職人の手。指先に油の匂いが染みついている。
窓の外には駅の蒸気。
汽笛が短く鳴り、白い雲のような煙が漂っていた。
「午後三時の列車で」と、昨日のアンヌは言っていた。
手紙の最後に、かすれたインクでそう書いてあった。
“父に見つかる前に駅で。
あなたとなら、どこまでも行ける。”
エミールは、指先の震えを止めるように深呼吸した。
彼の目の前には、亡き父から受け継いだ懐中時計。
それを見つめながら、彼はもう一度針を確かめる。
「三時……きっと、三時だ。」
その頃、町の広場では、振り子時計の塔に一匹の猫が登っていた。
ふわふわした毛、赤いリボン。
もちゃぷきん。
駅裏のパン屋でよくパンくずをもらっている猫だ。
今日は珍しく蝶が一匹、彼の鼻先をひらひらと通りすぎた。
黄色い羽が光る。
もちゃぷきんは、それを追って鐘楼の中に入りこんだ。
歯車が回り、油の匂いと鉄の音が満ちている。
蝶が振り子の向こうにとまる。
もちゃぷきんは後ろ足で立ちあがり、前足を伸ばした。
カチリ。
振り子が少しずれ、歯車が噛み合う音が響く。
針が、わずかに動いた。
ほんの一瞬のいたずら。
けれど時計の針は、一時間早く進んでいた。
町の広場の人々は、その音を聞いて「昼か」と動き出す。
エミールもまた、その鐘を耳にした。
「もうそんな時間か……!」
彼は慌てて工具を片づけ、コートを羽織った。
机の上に眠っていたもちゃぷきんをつかみ上げる。
「おい、寝坊助。今日は一緒に行くぞ。」
もちゃぷきんは目をしぱしぱさせて、ただ「にゃ」と鳴いた。
外の空気は蒸気で重たく、鼻の奥に鉄の味がした。
彼は駅へ向かって走る。
靴音が石畳に響く。
町の時計も、家々の柱時計も、すべてが“早まった時”を刻んでいた。
駅の構内は、人の声と蒸気でいっぱいだった。
列車の汽笛が鳴る。
出発の合図。
「待ってくれ!」
エミールがホームへ駆けこむ。
ちょうど扉が閉まる瞬間、彼は手を伸ばした。
間に合った。
金属の冷たい取っ手をつかみ、車両に飛び乗る。
息を切らしながら、もちゃぷきんを腕に抱えている。
そのとき、反対側のホームにもう一台の列車が入ってきた。
「……あれ?」
車窓から外を見たエミールの目が、止まった。
向こうのホーム。
そこに、淡いピンクの傘を持った女がいた。
アンヌ。
彼女もこちらを見ていた。
一瞬、ふたりの目が合う。
列車が動き出す。
エミールの乗った列車は北へ。
アンヌの列車は南へ。
まるで、すれ違う運命のように。
「違う! 俺は三時の列車に――」
叫びながら懐中時計を見る。
針は、四時を指していた。
「そんな……! まだ三時のはずなのに……!」
彼の腕の中で、もちゃぷきんがあくびをした。
列車の振動に合わせて、しっぽがゆらゆら揺れる。
そして、軽く肉球で時計を叩いた。
カチリ。
秒針が止まった。
そして、ほんの少しだけ逆に戻る。
「……え?」
車窓の外。
さっきまで遠ざかっていた景色が、ゆっくり止まった。
汽笛の音が巻き戻るように消えていく。
エミールが顔を上げた。
目の前のホームに、ピンクの傘があった。
列車はまだ出ていなかった。
彼は息をのむ。
「アンヌ……!」
彼女が振り返る。
風が吹き抜け、傘が開く。
ふたりの間に、ひとすじの光が差した。
もちゃぷきんが、腕の中で小さく鳴く。
「にゃー。」
エミールは笑った。
「そうか……時間を……ずらしたのか。」
アンヌが駆け寄る。
「遅いわ、エミール!」
「いや、君が早かったんだ。」
ふたりが顔を見合わせて、笑った。
汽車がゆっくり動き出す。
今度は、同じ列車の中で。
外の空に、雲がほどけていく。
陽の光が、鉄の屋根を柔らかく照らした。
もちゃぷきんは膝の上で丸くなり、目を閉じた。
世界は、ようやく“正しい時間”を取り戻していた。
でも、ぼくにとってはどうでもいいにゃ。
眠れれば、それでいいにゃ。
にゃー。
時計の針がひとつ動いて、
静かな午後が始まった。
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