第3話 もちゃぷきん、告白をはばむ。
放課後の屋上。
西日に照らされたフェンスの影が、長く伸びている。
風が制服の袖を揺らし、金木犀の香りを運んできた。
ぼくは、フェンスの上にいた。
体を丸め、毛づくろいをしている。
眼下にはグラウンド。野球部がまだ声を張り上げている。
空はゆっくりと橙に沈み、空気はやや冷たい。
扉がきいと鳴って、二人の人間が現れた。
制服のスカートと、緩めたネクタイ。
女の子と男の子。どちらも、汗の匂いとシャンプーの匂いが混じっている。
「……ここ、誰もいないから。」
女の子が言った。
男の子はうなずいたが、靴の先で床をこすっている。
どうやら、何か言いたいことがあるらしい。
ぼくは、あくびをした。
にゃー。
男の子が少しびくっとしたが、気を取り直して口を開く。
「おれ……ずっと言いたかったことがあって。」
「……うん。」
風が止まり、金木犀の花びらが一枚、彼の靴に落ちた。
ぼくはその様子を見ながら、尻尾をゆっくり動かした。
「昔から、ずっと――」
その瞬間、ぼくは伸びをした。
フェンスの上で、前足をぐっと突き出した。
足が、金属の棒を軽く蹴った。
かん、と高い音が響いた。
彼の声は、その音にかき消された。
一瞬、沈黙。
「……何?」
女の子が首をかしげる。
「え、いや……なんでもない。」
「いま、“ずっと”って言ったじゃん。」
「いや、あの、その……。」
ぼくはまた毛づくろいを始めた。
意味なんてない。ただ、かゆかっただけ。
でも、二人はもう目をそらせなくなっていた。
彼の視線が、彼女の目に絡む。
沈黙が、言葉よりも重たくなっていく。
女の子が、小さく笑った。
「……ねぇ、もちゃぷきん、だっけ? この子。」
「うん。生徒会の子が勝手に名前つけてた。」
「ふふ、変な顔してる。」
「……かわいいじゃん。」
風がまた吹いた。
金木犀の香りが濃くなる。
彼の頬が、ほんのり赤い。
ぼくはその色を、夕焼けの反射だと思った。
沈黙の中、彼女が制服のポケットを探った。
なにか、見つけたらしい。
ぱちん、と指輪の留め具がはじけるような音。
「ねぇ、覚えてる?」
「……なにを?」
「これ。幼稚園のとき。砂場でくれたやつ。」
彼女の手のひらの上。
小さなプラスチックの指輪が光っていた。
ぼくは、風の音を聞いていた。
夕陽が沈みかけ、グラウンドの声も小さくなっていく。
彼は目を見開いたまま、それを見つめていた。
薄いピンクの輪っか。
子どもの頃の指にちょうどよかった、あの小さな玩具。
彼の記憶のどこかが、ふっとあたたかく灯ったようだった。
「……これ、まだ持ってたの?」
「うん。だって、初めてだったもん。」
「何が。」
「“もらった”って感じの、あれ。」
彼女の声が、風に少しだけかき消された。
ぼくの耳がぴくりと動く。
フェンスの金属の匂い。
秋の風が冷たく、でも空気の底には日中の熱が残っている。
「わたしね、あのとき決めたの。」
彼女が言う。
「いつか本物もらっても、たぶんもう一回はいらないなって。」
「……なんで。」
「もう決まってるから。」
彼の手が、ゆっくり彼女の方へ伸びた。
でも、触れる前に止まった。
代わりに、指輪の上に、風が一枚の花びらを落とした。
金木犀。
ぼくは、前足をなめた。
そして、前足の裏の感触で、夕陽がだいぶ傾いたことを知った。
「……やっぱ、言わなくてもわかるもんなのか。」
彼が照れくさそうに言った。
「言われたら困るもん。雰囲気台無しだし。」
「そう?」
「そう。」
彼女は笑って、指輪をポケットにしまった。
彼も笑った。
その笑いは、言葉よりもあたたかかった。
ぼくはフェンスから飛び降りた。
金属の音が、ちいさく響いた。
二人がぼくを見たけど、もう何も言わなかった。
夕陽が校舎の窓に反射して、赤く光る。
ぼくの影が、二人の影の間をゆっくり横切った。
それがちょうど、ふたりの手をつなぐ形に見えた。
風が吹く。
金木犀の香りがまた流れる。
彼が小さく言った。
「……ありがとう、もちゃぷきん。」
ぼくは振り返らなかった。
夕陽の中をまっすぐ歩く。
毛の中に風が入り込み、赤いマフラーがふわりと揺れた。
屋上の扉の向こうから、チャイムが鳴る。
五時の音。
風の匂いが変わり、夜が来る気配がした。
ぼくは一度だけ、にゃーと鳴いた。
それが誰に向けた声だったのか、ぼくにもわからなかった。
校舎の外階段を降りる途中、ガラス越しに見えたふたりの影が、ゆっくり重なった。
――もう言わなくても、決まってるね。
その言葉は、風の中に溶けていった。
ぼくはそれを聞いた気がしたけれど、
それよりも、空の色の方が気になった。
今日の夕陽は、なぜかいつもよりおいしそうな色をしていた。
ぼくは大きくあくびをして、屋上をあとにした。
にゃー。
沈む太陽の色の中、ぼくの影だけが、長くのびていた。
——にゃ。
世界は静かで、ぬくくて、たぶん、それでいいにゃ。
押してたければ♡とか押してもいいにゃ。
べつに、きみのじゆうにゃ〜。
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