第15話 調査官の静かな敬意

(都内・ビジネスホテル / 深夜)


無機質なデスクライトだけが、桐谷冴きりたに さえの手元を照らしている。

麗奈れいなのマンションを出て、一週間。

彼女の「しろ」は、今や、この殺風景さっぷうけいなビジネスホテルの一室になっていた。

食べ終えたコンビニ弁当の容器ようきが、冷たい空気(触覚)の中で異臭を放っている。


だが、冴の集中は、一切途切れていなかった。

目の前には、積み上げられた大法廷だいほうてい準備書面じゅんびしょめんの最終草案。

彼女は、最後のを書き終え、万年筆まんねんひつを置いた。

インクは、変わらず「朝のあしたのそら」色。


(……論理ロジックだけが、武器だ)


冴は、冷え切った指先を、熱いコーヒーカップで温めた。

麗奈との破局はきょく

それは、彼女の感情を麻痺まひさせると同時に、その思考を、恐ろしいまでに研ぎ澄ませていた。

もう、守るべき「あい」も、配慮すべき「政治せいじ」もない。

あるのは、憲法第十四条(法の下の平等)という一点のみを頂点ちょうてんとする、冷徹な「のり建築アーキテクチャ」(メタファ)だけだ。


(……私は、勝つ)

(……麗奈。あなたがいなくても)


その時、枕元のスマートフォンが、短く震えた。

留守番電話センターからの通知。

冴は、それを一瞥いちべつしたが、再生ボタンは押さなかった。

どうせ、原告団げんこくだんの事務連絡か、メディアからの取材依頼だろう。

彼女は、完成した準備書面を束ね、明日の提出に備え、仮眠かみんのために冷たいベッドに倒れ込んだ。


***


(議員会館・別館 / 同時刻)


天羽麗奈は、消灯しょうとうした事務所で、一人、発信履歴はっしんりれきを見つめていた。

『桐谷 冴』

コールはしたが、彼女は出なかった。


(……そうよね。出るはず、ない)


麗奈は、自嘲じちょうした。

七瀬紗良ななせ さらとの「連立離脱れんりつりだつ」という危険な“はし”(メタファ)を渡り始めた今、冴の、あの真っ直ぐな「のり」の光が、余計にまぶしく、そして痛かった。


麗奈は、留守番電話のボタンを押した。

何を、言えばいい。

『ごめんなさい』か。

なかまを裏切った』か。

政権せいけん人質ひとじちにした』か。


「……私だ」

漏れた声は、自分でも驚くほど、乾いていた。

「……大法廷の準備、進んでいると思う。……あなたの論理ロジックは、完璧よ」

「……」

「……冴。……体に、気をつけて」


それだけを言い残し、麗奈は通話を切った。

二人の間には、もはや、お互いの健康を気遣う、事務連絡のような言葉しか、残されていなかった。


***


(最高裁判所・調査官室 / 翌々日)


場所は、霞がかすみがせき頂点ちょうてん

桐谷冴の準備書面は、静かに、その「しろ」のあるじのデスクに届けられた。

部屋の名札は、シンプルに『御子柴みこしば』とだけある。


最高裁判所調査官・御子柴玲央みこしば れお

彼は、裁判官ではない。

判決を下すのは、十五人の大法廷裁判官だ。

御子柴の仕事は、その十五人が判断を下すための、“論理ロジック設計図せっけいず”——調査官報告書——を、ただ一人で書き上げること。

彼は、イデオロギーにも、感情にも、そして政治にも関与しない。

彼は、この国で最も優秀で純粋な、「のり建築家アーキテクト」だった。


御子柴は、分厚い「桐谷準備書面」を、音も立てずにめくり始めた。

彼の執務室は、古い紙の匂い(嗅覚)と、研ぎ澄まされた静寂せいじゃくだけに支配されている。


一時間。

二時間。

御子柴の表情は、能面のうめんのように変わらない。

だが、その指先だけが、冴の論理(かいだん)をなぞるように、リズミカルに机を叩いていた。


(……見事だ)

御子柴は、心の中で呟いた。

地裁の「違憲」判決。高裁の「違憲状態」判決。

どちらも、感情論じょうちょろん人権論じんけんろんの“熱”が先行していた。

だが、この書面は、違う。


(……憲法二十四条(婚姻の自由)を、あえて論拠ろんきょ主軸しゅじくえない)

御子柴の目が、冴の論理構成の核心を見抜いた。

(……十四条(法の下の平等)一本。そして、立法府りっぽうふ不作為ふさくいが、違憲性を帯びるか、そのプロセスを、判例(はんれい)と国際法規(こくさいほうき)で、寸分すんぶんすきもなく組み上げている)


「……論理の“階段かいだん”が、美しい」

御子柴はそう呟き、対照するようにもう一つのファイルを開いた。

被告ひこくくに(法務省)側の、反論書面だ。


(……ひどい)

それは、高裁の主張を、ただコピー&ペーストしただけの、怠惰たいだな「かべ」だった。

論理も、熱意も、何もない。ただ「前例ぜんれいがこうだから」と繰り返すだけの、古い「石垣いしがき」だ。


御子柴の仕事は、「どちらが正しいか」を判断することではない。

両者の論理を「整理」し、裁判官に「判断材料」を提示することだ。

だが、彼の「のり美学びがく」が、国側の怠慢たいまんな論理を、許さなかった。


御子柴は、内線電話を取った。

相手は、彼の上司である、首席しゅせき調査官だ。


「……首席。御子柴です。……例の、同性婚大法廷の件」

「……」

「ええ、双方、書面が出揃でそろいました」

「……」

「……いえ、論点は明確です。……ただ、一点、申し上げます」


御子柴は、冴の書面を、指先ではじいた。

乾いた、良い音(聴覚)がした。


「桐谷弁護士の主張は、ラディカル(急進的)なものでは、ありません。むしろ、憲法論けんぽうろんとして、きわめて正統せいとうです」


受話器の向こうの上司が、息を呑む気配がした。

正統せいとう」——それは、調査官室において、最大の「敬意」を示す言葉だった。


「……承知しました。では、レポートの起案に入ります」

御子柴は、電話を切った。

彼は、まっさらな文書ファイルを開き、タイトルを打ち込んだ。


『大法廷回付事件(令和〇年(ワ)第〇〇号) 調査官報告書』


彼の「のり」が、桐谷冴の「のり」に、静かに「共鳴きょうめい」を始めた瞬間だった。


***


(都内・某所 / アパートの一室 / 同日夜)


その頃。

一人の男が、安アパートのゆかで、酒をあおっていた。

部屋には、つけっぱなしのテレビ。

ワイドショーが、例の「大法廷回付」のニュースを、面白おかしく報じている。


『……というわけで、この同性婚訴訟、ついに最高裁の、それも大法廷で審理されることになったんですが……』


男は、そのニュースを、にごった目で見つめていた。

(……同性婚、だあ?)

(……ふざけやがって)


その時、画面に、原告げんこくとして、地裁の前で抱き合って喜ぶ、二人の女性の姿が映し出された。

『原告の、佐々木美緒さんと、小野寺結衣さんです』


男の手が、止まった。

酒瓶さかびんが、床を転がる。

(……みお?)


男は、画面にい寄るように、顔を近づけた。

佐々木美緒ささき みお

間違いない。

かつて、自分が「所有しょゆう」し、「教育きょういく」し、「逃げられた」、あの女だ。


(……あの、アマ……!)

(……おれから逃げて、今度は、おんなと……?)

(……テレビなんかに、ヘラヘラとツラさらしやがって……!)


男の目が、濁った憎悪ぞうおに燃え上がる。

彼は、冴が勝ち取った「保護命令(紙切れ)」のことなど、とうに忘れていた。


男は、壁に貼られた、数年前の、美緒のおびえた顔写真かおじゃしんを、指でなぞった。


『……見つけた』


男は、震える手で、スマートフォンを取り出した。

発信履歴はっしんりれきの、一番上。

『???』という登録名。


「……俺だ」

男は、低い声で言った。

「……ああ、見つけた。……例の、アマだ」

「……」

「……ああ。……“教育きょういく”の時間だ。……すぐに、動けるか?」


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