第13話 破局—法と愛の臨界

はい、承承いたしました。

『黎明の天秤』構成仕様書および文体仕様書に基づき、第十三回を執筆します。


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(都内タワーマンション / 深夜)


「——あなたは、私(わたくし)を、私たちの関係を、法の下(もと)に置かないつもりなの?」


桐谷冴(きりたに さえ)の言葉は、ナイフだった。

それは、感情的な「怒り」の熱量ではなく、絶対零度の「論理(ロジック)」の冷たさ(触覚)を伴って、天羽麗奈(あもう れいな)の心臓を貫いた。

リビングの空気(視覚)が、凍てつく。


「……違う」

麗奈は、絞り出すように言った。

「冴、違う。これは、政治的な……“戦略”なのよ。まず、一歩でも……」


「戦略」

冴は、その言葉を、汚物に触れるかのように繰り返した。

「あなたの言う“戦略”とは、当事者のを、“数(かず)”に換算することだったのね」


「そんな言い方……!」

「他に、どう言えと?」

冴は、麗奈を突き放すように、デスクに向き直った。

だが、彼女が手に取ったのは、御子柴(みこしば)の論文ではなかった。

自室のクローゼットから取り出した、小さなボストンバッグだった。


「冴……? 何を……」

「ここを出ていく」


冴は、淡々と、しかし、もう何の議論も許さない絶対的な口調で答えた。

彼女は、着替えを数枚、そして、最も大切な——万年筆(象徴)と、分厚い大法廷用の資料だけを、バッグに詰めていく。


「待って! 待って、冴!」

麗奈は、冴の腕を掴んだ。

「どこへ行くというの! 話は、まだ……!」


「どこへでも」

冴は、麗奈の手を、静かに、しかし、有無を言わせぬ力で振り払った。

「あなたのいない場所へ。あなたの“妥協”の匂いがしない場所へ」


「あれは、私の“妥協”じゃない!」

麗奈も、声を荒げた。

「党(なかま)の……! 派閥の、溝口先生の……!」

「いいえ。その妥協を飲んだ、そのことが、あなたの妥協よ!」

冴が、麗奈との長い付き合いの中で初めて、その激昂を露わにした。


「あなたは、天羽麗奈でしょう! あなたの“光”は、そんな、薄暗い“取引(だきょう)”で濁(にご)るものだったの!?」

「政治(まつりごと)は、理想(ひかり)だけでは動かない!」


麗奈は、叫び返していた。法務部会を追われ、党(なか)からも「妥協」を突きつけられた、自らの絶望を、ぶつけるかのように。


「私が、どれだけ……! どれだけ、あなたを……! この“法案”を守るために……!」

「守る?」

冴の目が、冷たく麗奈を射抜いた。

「あなたは、私(わたくし)を、**法律の**に置いたのよ!」



「……!」

「“パートナーシップ”ですって? “婚姻”とはの制度? それは“平等”じゃない! 『あなたたちは、“こちら側”の人間ではない』という、国家による、最も残酷な“線引き”でしょう!」


「そうしなければ、鷲尾先生(あのひと)の“壁”は崩せない! まず、現実的に、病院で苦しんでいる人たちを……!」

「……」

「私は、あなた(さえ)を“守る”ために、現実を選んだのよ!」


その言葉は、最悪の“燃料”だった。

冴の顔から、怒りが消えた。

代わりに浮かんだのは、深い、深い「憐憫(れんびん)」だった。


「……守る?」

冴は、まるで、初めて会う人間に語りかけるように、ゆっくりと言った。

「……麗奈。あなたは、まだ、分かっていなかったのね」

「……え?」


「私は、“守られ”たいんじゃない。……“平等”に、なりたいのよ」


今、二人の「正義」は、決して交わらない“法(ロジック)”の「建築」の上にあった。

麗奈の「正義」は、弱者を“保護”する、政治的な「現実主義」。

冴の「正義」は、弱者という存在そのものをなくす、「憲法」の「絶対主義」。

その、致命的な亀裂(きれつ)が、今、修復不可能な形で、二人の間に走った。


「……もう、いい」

冴は、バッグのジッパーを閉めた。

「あなたの“現実”と、私の“理想”は、もう、同じテーブルには乗らない」


***


(同・玄関 / 深夜)


冴は、靴を履いた。

麗奈は、その背中に、すがりつくことも、声をかけることもできず、ただ、立ち尽くしていた。


全てを、失った。

政治的生命(ちから)も、魂(こころ)も、そして今、愛も。



「……冴」

かろうじて、声が出た。

「……どこへ? あの“男(DV)”は、まだ、外に……」


「弁護士として、自分の身は、自分で守る」

冴は、振り返らなかった。


「……待って。せめて……せめて、大法廷の“準備書面”だけは、ここで……。ここが、一番、安全でしょう……!」

麗奈の、最後の「懇願」だった。


冴は、そこで、初めて振り返った。

その目は、もう、麗奈を見ていなかった。

彼女は、まるで、法務委員会で「他人」を演じた時のように、天羽麗奈という「政治家」を見ていた。


「……あなたの“妥協”が生まれた、この場所で」

冴は、言った。「“法”の、完璧な“論理(ロジック)”が、書けると思う?」


それは、麗奈にとって、死刑宣告よりも重い、拒絶だった。


「判決が、出るまで」

冴は、ドアノブに手をかけた。

「……もう、会わない」


ガチャン、と。

無機質なラッチの音が、やけに大きく響いた。

ドアが、閉まる。

麗奈は、一人残された。


静寂。

麗奈は、ふらふらと、リビングに戻った。

冴がいつも座っていた、デスクライトの「光」が消えた、暗いダイニングテーブル。

その上に、何か、小さな金属が置かれているのが、窓から差し込む月明かりで、鈍く光った。


「……あ」


合鍵(スペアキー)。


二人が、この「公(おおやけ)」から隠れた「私(わたくし)」の城で、唯一共有していた、絆の証。

それが、冷たい大理石のテーブルの上に、静かに、置かれていた。


***


(同・マンション / 夜明け前)


麗奈は、どれだけの時間、その「鍵」を握りしめていたか、分からなかった。

「法(のり)」を失い、「光(ひかり)」を失い、そして、「愛(あい)」を失った。

彼女の「天秤(メタファ)」の上には、もう、何も残っていなかった。


(……これで、終わり)

(……何もかも)


その時だった。

暗闇の中で、テーブルに放置されていた、麗奈の“私用”のスマートフォンが、短く震えた。


どうでもよかった。

だが、それは、一度、二度、三度と、執拗に震え続けた。


麗奈は、亡霊のような手つきで、その画面をタップした。

暗闇に、通知の光が浮かび上がる。

発信者は、彼女が、今、最も会いたくない「政治」の名前だった。


『新和党(しんわとう) 七瀬 紗良(ななせ さら)』


メッセージは、短く、そして、恐ろしいほど正確に、麗奈の“今”を射抜いていた。


『——天羽先生。溝口先生の「パートナーシップ」案、拝見しました』

『“パートナーシップ”は、所詮、“鳥カゴ”です』

『先生が、本気で“壁”を壊すおつもりなら、お話ししたいことがあります』

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