第11話:やさしさの欠片

 汗の不快感と肌寒さで、結人は目を覚ます。

 なにか、懐かしい夢を見ていた気がした。

 夢、あるいは記憶。

 

 脱いだパジャマを洗濯機に放り込み、珈琲を淹れ、トーストを焼き、ベーコンエッグを作る。

 それから朝の空気が澄んでいるうちにと、書きかけの物語の続きに手をつける。

 午後には伊織たちがやってくる。それまで、心を落ち着ける為にも、彼は言葉に向き合う。

 

 昼は貰い物の野菜で簡単にトマトスープを作る。

 それに、水菜とじゃこのパスタ。

 アゴ出汁を少し入れて、柚子山椒を添える。

 

 洗い物をしていると、鳥がつつくようなノックの音がした。

 

 結人が扉を開けると、そこには四年ぶりに見る、すこし大人びた娘の顔があった。

 でもその隣に立つ若菜の姿を見たとき、彼は息をするのを忘れた。


「若菜……」


 若菜はそうだと言うように、ひとつ頷く。

 結人はゆっくりと伊織に視線を移すと、絞り出すように息を吐いた後、ふたりを招き入れた。

 長旅で疲れただろう、雨が降らなくて良かった、そんな当たり障りのない会話をしながら、結人と若菜は目を合わせられずにいた。


 伊織と若菜が、目の前にいる。

 彼はどのチャンネルに周波数を合わせればいいのか分からなくなっていた。

 しかも若菜については、長らく繋いでいなかったから。


 結人はふたりをリビングの皮張りのソファに通すと、ふたり分の珈琲を淹れながら、伊織の話に耳を傾けた。

 休職や転職のことはSNSで以前に聞かされていた。アトリエのことも。

 そのアトリエの先生が若菜で、教室を手伝うことになって――

 そんな風に穏やかに話す伊織の言葉を、どこか彼岸の出来事のように聞いた。

 

 やがて伊織が、少し外を見てくると行って席を立った。

 残された二人の間の沈黙を、時計の針だけが見ていた。


「伊織のこと、本当にありがとう」


 まず口を突いて出たのは、そんな言葉だった。

 若菜は小さくかぶりを振りながら、微笑む。


「アタシの方こそ、すごく助けてもらってるから」


 「アタシか」、と結人は思った。

 最後に話したとき、若菜の一人称はまだ「ボク」だったから。

 若菜が膝の上で抱えていたカップを、硝子のテーブルの上に置く。


「結人さんが――」


 「結人さん」、その響きもひどく懐かしい。

 彼は、舌の根が痺れるような感覚を覚えた。


「アタシたちのこと、騙してたとは思わないよ。騙すつもりなら、きっと出ていったりしなかったでしょ」


 結人は不規則にまばたきをしながら、確かめるように何度か頷いた。

 それから、ゆっくりと口を開く。


「すべては結局、僕の弱さのせいだ。……解離性障害。たぶん、そういうことになるんだと思う。もっとも診断を受けた時にはもうほとんど回復していたから、曖昧な部分は多いけど。僕が、ふたりは死んだものと思って家を出たとき、伊織は五歳だった」


 顔の前で両の掌をかたく握り合わせながら語られるそれは、彼の懺悔だった。

 すべてを話し終えたとき、彼はひどく憔悴していた。

 きっと、ずっとそのことを抱えて、この十八年近くの時を過ごしてきたのだろうと、若菜は思った。

 

 いったいどんな気持ちで?分かるはずもない。

 責めることもできる。でも責めるとして、なにを責めればいいのだろう。

 伊織と紗季を置いて行ったこと?文乃を放っておいたこと?

 すべての根源である弱さだろうか。

 

 少なくとも、いま自分がするべきことは、責めることではない。

 そうして今度は、若菜が話し始める。

 

「話してくれて、ありがとね」

 

 結人が顔を上げる。

 歪められた表情を見ずとも、言いたいことは痛いほど分かった。

 

「今日は、お願いがあって来たの。あ……でもあれかな、その前に許可取った方がいいのかな?アタシって、貰う側だと思う?貰われるってガラでもないよねぇ?」


 結人は、笑った。泣きながら笑った。

 それから、若菜もまた同じように。

 そんなふたりの笑い声に、人知れず庭にいた伊織が驚いていた。


 それから居住まいを正した若菜が、まっすぐに結人を見つめて、伝える。


「結人さんの欠片を、アタシにください。アタシと、伊織が、ふたりで生きていくために。アタシたちの探してるかたちには、それが必要なの」


 結人はしばし呆気にとられた後、若菜の言葉の意味に気づく。

 傾いだ頭を片手で支え、じっとなにかを考えているようだった。

 若菜は言葉を続ける。


「血とか、遺伝子とか、たぶんそうことじゃない。もっと、目に見えないなにか。誰にもね、文句は言わせない。これは、アタシの〝欲〟なの。アタシだけの。だから、お願いします」


 そう言って頭を下げる若菜のつむじを、結人は見つめた。

 卵子ほど顕著ではないにせよ、精子だって四十を過ぎれば質は落ちる。

 自分はまだ父が自分を仕込んだ時よりはいくらか若いけれど、それでも最良の選択とは思えない。

 

 最良……?それは果たして自分が決めることなのか?

 いつも、なるべく合理的と思える選択をしてきた。自分の大切な人たちにとって。

 それは、損をさせたくないから。


 でも、若菜にそんなことを言っても意味がないことは分かっていた。

 だって、若菜だから。


 若菜はいま、自分に手伝って欲しいと言っている。

 それはもう、覆らない。


 溢れそうになる感情をどうにか押し止める。


 なら、なろう。

 彼女たちの探し求める未来の、ミディウムに。


 ゆっくりと三回、深く息をする。

 そして――


「わかった」


 短く、それだけを答えた。


「それで、どうすればいいのかな?」

「志保さんにもね、相談したの。同性の間で子どもを持つなら、海外で受精から出産までぜんぶやっちゃうのが、一番安全。でも、費用もかかるし、なによりアタシはこの場所で産みたいの。大切な人たちと、一緒に」


 いま娘と、そのパートナーとなった若菜が向き合っていること。

 それが現実という重さを伴っていくのが、結人にもぼんやりと見えるようだった。

 

「だから、受精卵は海外で作って、それをお腹に戻すのは、志保さんにお願いすることにした。前例があるとはいえグレーゾーンを一緒に渡ってもらうことになる。でも、協力させて欲しいって、志保さんが。言ってくれたの。そんなの、もう断われないじゃない?」


 そして、検査や手続きのために、一緒に志保にあって欲しいと若菜は結人に頼んだ。

 それで、話は決まった。




「みんなは、元気……?」


 みんなというのが、若菜の生まれ育った霞巫峰かすみね村のことだと、若菜は気づく。

 

「うん。村も少しずつ変わってきてるから。名実が伴ってきたっていうのかな。研究協力って形で、アタシもいまも関わってるし、まぁ、そうすっきり白くはならないけど。いまは、くすんだオフホワイトって感じ?」


 きっと若菜たちなら、うまくやっているのだろうと、結人はそれ以上を訊かなかった。

 村の因習は若菜たち巫女の家系の血と、欲と、金の絡むもの。その絡み合ったものが胎盤のように、村と、若菜たちと繋がっていたはずだった。


「おかげでお薬もね、できたんだよ。を抑えられるようなものが、いまはある。だから普通に恋だってできるし……伊織はもう知ってるけど。最初驚いてた。でも、すぐに受け容れてくれた。わかってたことだけどね。結人さんの、娘だもん」


 若菜たちは、求めていた普通を一度は勝ち取った。

 でもいまは、ありのままいられる場所を見つけた。

 得難いことだと、結人は思う。

 

「和夫さんは……?」


 村に滞在した短い時間、彼にとっては父親のような存在だった村の長。


「ちょうど、去年の夏かな。橋を渡ったよ」


 自分はまた、父の死に際に立ち会えなかったなと、彼は二度、父を失ったような心持ちになった。


「あいつはまだ帰って来んのかーって、よく言ってた」


 結人の視界がまたも滲んで、耳の奥で地鳴りのような音がした。

 

「志保さんに会いに村に行った時に、線香をあげさせてもらえたら、嬉しい」




 若菜は伊織を呼び戻そうとして、最後にまだ確認することがあると言うように、坐りなおした。


「会いに行っては、あげられないの?」


 誰に、とは言わなかった。そんなことは分かっているでしょうと言わんばかりに。

 結人は、ただ黙って若菜の肩を見つめた。


「いまも、ひとりなんだよ。鎌倉で、近くに住んでるんだ」


 彼が小さく息を呑む音が、部屋の空気を震わせた。


「待ってるとかじゃ、ないと思う。だって、忘れてるから」


 その後の沈黙は、山の土よりも重かった。

 記憶から去ってなお、忘れてなお残るもの。そういうものがあることを、彼は彼女に触れることで知った。

 それは残響などではなく、いまなお根を張っている。少なくとも、彼にとってはそう。


「ひとつだけ約束して。もし上手くことが運んで、新しい命が生まれたら、そのときはその子に会いに来て欲しい」


 誰でもない、ただの月城結人として。

 その申し出を、彼は受け取った。


「あ。あともう一個あった。お願いごと」


 最初、優秀な執事のように穏やかだった結人の表情が、若菜の言葉に解けていく。


「そんな……さすがにそれは……出過ぎた真似というか……伊織の意見だってあるだろうし……」

「もちろん、最終的に決めるのはアタシと伊織。でも、言ったでしょ?それも、アタシの……ボクの欲なんだよ。あるいは、好奇心」


 まったく、かなわない。

 母親に、よく似ている。

 そんな風に懐かしく思いながら、結人は言葉を継ぐ。


 なぜか、その言葉はすっと胸の奥から湧き出した。

 ずっと、いつか今日のような日のために、温めていたというように。

 

 言葉が、呼ばれることを、待っていたのかもしれない。

 

 

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