第9話:重力の名前
夜、いつもはひとつに束ねられた伊織の髪を、若菜は指で梳く。
黒く、まっすぐな髪だった。
「今日、思ったんです」
なにを、と問う代わりに、若菜は伊織の髪をその耳にそっとかけた。
「若菜さんが子どもたちと話してるの見て、そういう若菜さんも、いいなぁって」
若菜の目が細められる。
「それで……ですね……」
急に硬くなった伊織の口調に若菜は小さく息を零しながら、伊織の頭を細い腕で包む。
「アタシたちの子どもが、欲しい……?」
「そんな、モノみたいな感じじゃ、ないですけど……はい、若菜さんとなら、素敵だろうなって。そう、思ってしまいました」
若菜となら。
その言葉が、目の奥につんと染みた。
それを隠すように、言葉を滲ませる。
「どんどん、普通から遠ざかっちゃうよ?お父さんはいないの、って。そんなの、おかしいって。子どもがそう、言われちゃうかもしれないよ?そんな、簡単じゃないんだよ?」
それはきっと、若菜の中に投げ込まれ、閉じ込められた言葉たちの変奏。
同時に、守るための言葉。
「だからこそ、です」
伊織から向けられた視線に、視線には色が、手触りがあるのだと、若菜は生きてきた中で一番はっきりと感じた。
「お父さんがいなくたって。お母さんがいなくたって。きっと普通なんて、唯の幻想です。押し付けもいいとこです。天動説と地動説みたい」
大仰な喩えに聴こえたが、それでも若菜には妙にしっくりくるところがあった。
「天動説って、自分は動かないってことですけど、逆に言えば動いちゃダメってことじゃないですか。実際は中心なんかなくて、みんながお互いの周りを回ってるだけなのに」
ふんふんと、若菜は首を振った。
きっと他の誰かが聴いても、ぽかんとしたままかもしれないけれど、若菜には伝わった。
「だから、大事なのはちゃんと、自分を自分として見てもらえることだって、私、知ってます」
それは伊織が自身に言い聞かせているようでもあり、でも嘘はないように、若菜には聴こえた。
そして、「それにね」と伊織は言葉を足した。
「私、ロックとかメタルとか、実は結構すきなんです」
若菜は、なにそれ、と笑ったあと、妙に納得した。
知り合いに、そんな人がいたな、と。
「そっか。そうだね。寒い地方の人って、メタル好きだもんね。アイルランド人も、そうなのかも」
アイルランド人?と首を傾げる伊織に、若菜は「なんでも」とはぐらかす。
それが妖精のメタファーだなんて、言えるわけもなく。
そういえば今日は、夜なのに伊織が敬語がちなままだ。
それが彼女の真剣さの表れだと分かりつつも、どこかもどかしくて、若菜はリクエストを出す。
「なにか緩いやつ、弾いてよ」
そう言われて伊織はギターを取りに立つ。
その後ろ姿を眺めるだけで、若菜は幸福な気持ちになった。
今日は、若菜のすぐ傍、ソファに腰掛ける。
――〝亜麻色の髪の乙女〟。
鉄板だ。
*
それから一週間ほど経った頃、夕食後のティータイムに若菜が口を開く。
「子どものことね、調べてみたの。知り合いに、仲良くしてる女のお医者さんがいるから、訊いてみたんだ」
伊織は居住まいを正す。
「まずやっぱり同性で子ども持つのは、日本じゃまだ大変」
そのあたりは伊織も調べていたことだった。
自治体ごとにパートナーシップ制度を導入しているケースも増えてきているものの、法的な整備は進んでいないのが現状。
「でまぁ、そういう面倒な話もありつつ、まず決めないとお話が進まないことがあります」
若菜が伊織の顔を真剣な表情で見つめる。
「
モト?と伊織は首を傾げる。
「なにかを作るには、やっぱりなんでも
なんだか後半、食べ物ばっかりだなと、伊織は笑いそうになるのを堪える。
ただ、若菜の言わんとすることは伊織にも伝わった。
「まぁ、そうですね。モトとかタネみたいなのは、必要ですね」
若菜は腕組みをして、どこかの教授みたいにうんうんと首を縦に振った。
でも実際に特任講師でもあるから、遠からずというところだ。
そしてタネ、つまり精子の調達は確かに重要な問題だ。
日本の医療機関で人工受精が可能なのは、法律婚夫婦に限られる。
じゃあ人工受精以外の手段はと考えもするが、お互いに出来る限りリスクを負わせたくはない。
だからどちらかが産みたいとなれば、海外でとなるが、いずれにせよ精子ドナーは決めなければならない。
知人から提供を受けるのか、精子バンクを利用するのか。
感情的にもまず気になる部分だ。
「伊織って、兄弟とかいるんだっけ?あ、先に言っとくとアタシの方はダメ。アタシ、神様の子どもだから」
「……うん?」
いつもの冗談かと思いきや、そういうわけでもなさそうだ。
伊織の怪訝な表情に満足したのか、若菜はふっと息を漏らす。
「そういう村だったの。〝因習村〟っていうの?お母さんはあの通りいるけど、お父さんはいないの」
これは下手に触れられそうにない話だと察した伊織は、それ以上の追及をしないと決めた。
親が誰だろうと、若菜は若菜だ。自分も、きっと自分の両親もそんなことは気にしないだろうと思った。
「……わかりました。でも、私も一人っ子なんですよね」
「なるほど。お父さんはまぁ、いるよね。あとは叔父さんとか、
「従妹は女の子しかいなくて、母方の叔父はまぁ、いますね。父は私と一緒で一人っ子だし」
若菜は伊織の顔色を窺いながら、なんとなく察した。
トラブルになるリスクも考えれば、伊織にとって一番信頼できる相手の方が良い。
「じゃあまぁ、お父さん?かな?アタシとしても、なるべく伊織に近い方がいいし。もちろん、伊織さえ良ければだけど。いっそ全然知らない人からもらう方が、サッパリしてて良いって言うなら、考えなくもない……」
そう言いつつも、若菜の中でその選択肢はあまり無さそうに見えた。
伊織としても、父からもらうというのは複雑ではありつつ、どこぞの有名スポーツ選手だの学者だのの素を買ってというイメージは持てなかった。
それでも――
「若菜さんは、本当にいいんですか?私はその、養子とかでもいいんですよ?」
若菜の気持ちはもちろん嬉しい。でもそこに寄りかかって、若菜にばかり負担を強いることは望まない。
いいのかと問うことが正しいのかもわからないけれど、こればかりは言葉で確かめずにいられなかった。
「やってみたいんだ。伊織と」
若菜は多くを語らなかった。創作の肥やしに……そんな好奇心のようなものも、もしかするとあるのかもしれない。
伊織にとってはそれだって一向に構わない。利用されているとは感じない。
なにより、「伊織と」というその一言が、伊織の深いところにある水面に波紋を立てた。
「……父に、相談してみます」
若菜の顔からそれまでの緊張が霧散する。
「うん、ありがとう。ちなみにお父さんって、名前なんていうの?」
そういえば聞いたことがなかったなと思い立ち、若菜が伊織に尋ねる。
これから素をもらおうと言うのだ。
「ユイトです」
テーブルの上の若菜の手の小指がぴくりと震える。
「……どんな字、書くの?」
「結ぶに、人です」
若菜は大きく深呼吸をすると、再び腕を組む。その事実を咀嚼するように何度か頷いた。
「いや、ごめんね、なんかご縁を感じるなと思ってさ。まえに言ってた、隕石人いるじゃない?しゃぼん玉男」
奇妙なフレーズだと、伊織はつい吹き出した。
「その人もね、同じ名前だったから。なんかそういうのあるのかもね。知ってる同姓同名のふたりも雰囲気めっちゃ似てたりするから。ちなみにそのふたりはメチャクチャ粘着質なところが完全に一緒だったけど。まぁあの人らは漢字は一字違いだったか」
途中からは半ば独り言のように若菜は言う。
そして、沢渡結人か、と確認するように唱えた。
「あ、沢渡は母の姓なんです」
「……え?」
若菜がしばし、呆気にとられる。
「父が一時期、失踪してたって、以前話したと思うんですけど……ちょうど私が小学校にあがるタイミングだったから、母の姓を名乗ろうってことになって、それ以来ずっと――」
「お父さんの、苗字は……?」
どこか遠くで、風鈴の音がした。
「月城……ですけど。お月様に、お城」
――結人。結ぶに、人と書く。月城結人だ。
若菜の脳裏に、遠い記憶が呼び覚まされる。
村のバス停の近くの雑貨屋で、店番をしていた当時まだ高校生の若菜に、彼はそう名乗った。
事故で妊娠中の妻を喪い、放浪の果てに若菜の村に流れ着いた男。
伊織が、結人の娘?
彼が村を去ってから設けた子だとしても、計算が合わない。
ならば彼は、騙っていたのか?
そんなわけがない。いくら行き場を失くしていたとしても、そんな嘘をつくとは思えない。
じゃあ目の前の伊織は……?
気づくと顔面蒼白となっていた若菜の姿に、伊織は駆け寄ろうとして、静かにテーブル越しに手を伸ばした。
そっと若菜の手を握ると、震えが伝わる。
若菜がいつしか俯いていた顔を上げると、そこには不安そうな、だが不思議に落ち着いた伊織の表情があった。
瞼を閉じ、深呼吸をする。
一回、二回、三回と。
そしてさっき自分で話したことを思い出す。同姓同名かもしれないと。
しかし、月城という名字は珍しい。
若菜は伊織の顔を見る。
いまは自分の景色に馴染んだ、愛しい相貌。
その眼にはどこか面影があると、時折思い出すように感じていた。
「若菜さん」
やわらかく、静かな覚悟を秘めたような声だった。
湖面の下に大きな魚影が見えた気がした。
「あなたが、ワカナさんだったんですか?」
若菜には、伊織の言わんとしていることが分からない。
むかしは、だいたいのことは直感で分かる気がしていたのに、いま一番近くにいる人のことが分からない。
そんな分からなさごと抱きとめるのだと思ってはいても、やはり不安なのだ。
「星に願いを託された少女。ミラという名前を授けた、星の子に」
――どうして。
それだけの言葉が、喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
そんな若菜を、どこか懐かしむような瞳で、伊織が見つめる。
「誕生日に、父がくれた自作の本に、そういう物語が書いてあったんです。私にとっては、ミヒャエル・エンデのモモよりも慣れ親しんだ名前。ワカナと、ミラ」
すっと、伊織が手を引く。
そして、頭を下げた。
「父の非礼を、まずは私がお詫びします」
「そんな、やめてよ伊織!伊織がそんな……しかもまだなにも――」
なにも分からない。
一体、目の前でなにが起こっているのか。
伊織は誰で、何を知っているのか。
若菜はうまく意識の焦点を合わせられずにいた。
「若菜さん。どうか、父に会ってくれませんか?」
その毅然とした声と表情の翳には、よく知る愛しい人の、不安そうな色が垣間見えた。
そんな顔をさせたくはない。自分は、ずっと年長者で、先生なのだ。
若菜にとって、彼はもう記憶の箱の中の人物となったはずだった。
若菜は笑う。いつものように。
「そうだね。伊織の言う通り。アタシは、その人に会わないといけない」
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