♯3-2 唯野柊人の介入

 ──次に着いた瞬間、電車のドアが開いた。

 霞ヶ原駅。何も変わり映えのしない乗客が乗り込んでくるのだろうと、私は何気なく本に視線を落としたまま、気にも留めなかった。


 ところが、気配が変わった。


 足音は静か。けれど、妙に存在感がある。

 視界の端に映ったのは、一人の男の子だった。

 無造作な黒髪──寝ぐせなのか、わざとなのか、判断がつかない。

 背丈は私より頭ひとつ高いくらい。おそらく175センチ前後。

 個性のない無難な服装。けれど、彼が纏う空気感は「凡庸」でも「特異」でもない、不思議な中間にあるように感じられた。


 私は、思わずページをめくる手を──止めた。


 眠たそうな目。

 生気が薄いような、どこか虚ろな表情。

 けれど一瞬だけ、鋭い光を宿したように思えた。

 それは錯覚だったのかもしれない。

 けれど、私は確かに見た。


 ──何、この人。


 なぜだろう。私の思考は一瞬で想像に支配されていく。


 あの髪型、もし整えたらどうなるだろう。きっと──いや、絶対に、整った顔立ちが際立つはず。眠たそうな目だって、鋭さを意図的に隠しているだけかもしれない。

 ……まるで物語の中で、仮面の奥に本当の顔を隠す人みたいに──。


 ──駄目だ。

 私は頭を振った。私は異性の外見なんて気にしない。そう思ってきた。


 これはただの通りすがりの乗客。名前も知らないし、話したこともない。

 なのに、こんなに一瞬で想像を広げてしまうなんて。


 彼が私の視線に気づき、ふっと片方の口角を上げる場面を。

 彼が静かに口を開き、冷めた声で騒ぐ者たちを一蹴する場面を。


 全身が熱く、呼吸が浅くなる。

 ──私らしくない。

 いや、これはただの思考実験。そう、これは観察と分析。絶対に、──そうに違いない。


 本のページをめくっているはずなのに、頭に文字が入ってこない。

 私は、本を開いたまま読むことをあきらめた。



 ──4月1日 10時12分 唯野柊人


 ──霞ヶ原。

 ドアが開き、僕は車両に足を踏み入れた。


 車内は少しざわついている。いや、ざわつきではなく、騒がしい。

 五人組の若者が、周囲の迷惑も省みずに大声で笑い合っている。大人の注意なんて、彼らにとっては雑音でしかない。


 一瞥して、座席を探す。

 そのとき、視線を感じた。強い、鋭い視線。


 僕の方をじっと見ている女の子がいた。

 年の頃は同じくらい。整った顔立ちに冷静な目元。しかしその視線は、冷静というより《威圧》だった。


 ──何故だ?

 僕は彼女を知らないはず。お互いの視線が絡み合う。

 その瞳は、僕に「この状況をどうにかしろ」と訴えているように見えた。


 もちろん、それが本心かどうかなんて分からない。

 だが、僕にはそのように見えた。


 最適解は、“放置”。

 合理的に判断すれば、この種のトラブルは関与すべきではない。

 リスクは多く、リターンはほぼゼロ。面倒事を背負い込むだけだ。

 耳元でS.H.I.E.L.A. ──僕専用の支援AIが囁く。

《──推奨行動:無視。リスク対利益の比率が合いません》


 完全に同意。それ以外ない。


 だが、どういうわけか僕の足は自然と止まった。

 ──見ず知らずの女の子の視線を前にし、合理性だけでは完結しない感覚が襲う。

 伯父──拓海さん曰く、「関係性が私を動かす」という言葉が脳裏をよぎる。

 このまま放置すれば、……彼女は“無力感”を深めるかもしれない。


(S.H.I.E.L.A.、騒音源を分析。)

《──男女5名、感情優位。仲間内で承認欲求を満たす行動。外部からの理詰めは無効。唯一の弱点は“観客の評価”》


 僕は、仕方なくため息をひとつ吐くと、脳内で状況をシミュレーションした。

 観客──つまり周囲の乗客か。

 ならばどうする?

「彼らが自ら黙るしかない状況」を作ればいい。


 彼らにとって重要なのは「周囲からどう見られるか」ではない。

「仲間内でどう見えるか」だ。承認欲求と序列意識のゲームに過ぎない。


 群れの中で優位に立とうとする行動は、古来からの生存戦略。

 彼らは「外部の大人」よりも「内輪での序列」を守るために強気を演じている。


 つまり、個別に攻めても無駄。

 だが、群れ全体に「空気の変化」を与えれば、彼らは自己保存のために引かざるを得ない。


 僕は何食わぬ顔で彼らのすぐ近くに移動した。

 そして、わざと大げさにポケットから携帯端末を取り出し、画面を点灯させた。

 S.H.I.E.L.A.が瞬時に理解する。

《──警察庁公式アプリの偽装UIを起動。──警告:本機能の使用は非推奨。現状況下でのリスク推定:軽微》

 スクリーンには「列車内迷惑行為通報」のUIが表示されている。もちろん本物そっくりのフェイクだ。


 僕はそれを彼らに見せるわけでもなく、ただ無造作に操作してみせた。


「──あ、すみません。はい、霞ヶ原から鳴瀬方面。若い男女五人組で、騒音──」

 声を潜めながらも、あえて“聞こえる程度”に独り言をつぶやく。

 すると、五人の笑い声がぴたりと止んだ。


 ──効果あり。

 その様子に、迷惑を被っていた乗客たちも気づき、安堵の視線を送ってきた。


 一方で、五人の間では「ヤバい」という空気が一瞬だけ共有されたようだ。

 リーダー格と思しき男が声を荒げ、僕に反発してくる。

「おい、何やってんだよ?」

 僕は眉ひとつ動かさず、スマホを耳に当てたまま続ける。

「──はい。はい、はい。次の御影台駅到着後に。映像、もう送ってます。ええ。係員を配置しておいてください」

 実際は通話していない。ただの独り言だ。だが「録画済み」「駅員に通報済み」と錯覚させるのに十分だ。


 ──沈黙。


 リーダー格は一瞬こちらを睨んだが、仲間の女子が袖を引いた。

「やめなよ、マジで。駅員来るって」


 あとは早かった。

 彼らは露骨に居心地悪そうな顔を見せ、別の車両へ気まずそうに去って行った。


 僕は画面を消し、無言でポケットに戻す。

 耳元からS.H.I.E.L.A.の声が響く。

《表情の変化や細やかな手の動き、それに視線と声のトーン──完璧な演技でした》

 いや、こんなもの演技でも何でもない。ただ最小の労力で最適の効果を上げただけだ。

 それ以上でも以下でもない。

(リスク評価は?)

《──成功率93%。残余リスク:彼らが逆上しなかったのは“偶然”。しかし、結果的に最小コストで問題解決》


 ふと顔を上げると、先ほどいた女の子の姿は見当たらなかった。


 ──やれやれ、慣れないことはするものではないのだ。


 僕は彼女が座っていた座席に腰を下ろし、何事もなかったかのように電子書籍リーダーを開いた。

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