唯野柊人は介入しない ~AIと送る静かなる学園観察日誌~
冬病夏治(ふゆやみ なつはる)
【Étude】
♯1-1 四つの正義と三すくみの教室
四月、放課後のチャイムが鳴っても、1年A組の教室には奇妙な緊張感が漂っていた。西日が差し込み、埃がきらめく。──誰もが口を開かずにいる。
僕は担任を見た。胃が痛むのをこらえるように教卓に手を置いている。
──人間の正義は、大きく四つに分けられる。
自由主義、平等主義、共同体主義、そして功利主義。
最初の三つ──自由・平等・共同体──は、進化の古い設計図の上にある。
群れを作る哺乳類なら、多かれ少なかれ持っている性質だ。
縄張りや所有を守る者は自由を重んじ、獲物や餌を分け合う者は平等を意識し、
群れの掟や秩序を守る者は共同体を優先する。
僕のクラスには、この三つの“正義”を見事に体現した女子が、すでに三人そろっている。
一人目は「伝統と格式による共同体主義」をまとったような女子。
家柄や血筋、儀礼に根ざした正しさを、幾重にも重ねた着物のように自然に着こなしている。
本人も、それが自分にとっての“正しさ”だと信じて疑っていない──
二人目は「公正と平等による正義」を地で行く女子。
誰もが条件を知らない状態でルールを選ぶなら、中立でフェアな制度を選ぶはずだ──そんな理屈を静かに語る。
冷たい眼差しと理路整然とした口調、それでいて妙に説得力がある──
三人目は「自由と選択による正義」を掲げる女子。
誰にも縛られず、自分の欲望に従って選び、生きる。
邪魔するな、干渉するな、契約がすべて。
そんな生き方を、臆することなく学園に持ち込んでいる──
問題は、最後のひとつ──功利主義だ。
最大多数の最大幸福。
群れの動物は、仲間全員の幸福の総量なんて計算しない。
気にするのは、自分の立場と直接のやり取りだけだ。
幸福を抽象化して数え上げ、最適化しようとするのは、理性を持った人間だけがやる“人工の正義”だ。
優しそうに聞こえるが、その実態は冷たい計算だ。
一人の犠牲で十人が救えるなら、迷わず一人を切り捨てる。
僕はたぶん、この最後の正義に最も近い。
信じているからではない。ただ──それが一番、説明がつくからだ。
こうした四つの正義は、どれも絶対ではない。
だから同じ教室の中でも、必ず衝突する。
──たとえば、クラス委員長を決めるだけでも。
僕が通う桜華学園は、今からおよそ 100年以上前、明治時代末期に「私立桜花女学校」として創立された。大正時代には「桜花高等女学院」に改称され、日本の女子教育を牽引する名門としてその名を確立したらしい。
戦後の学制改革を経て、昭和20年代後半に「桜花女学院」に名称を変更し、中等部・高等部の一貫教育を行う女子校として、地元有力者の子女が多く通っていた。
現在の「桜華学園」に名称を変更し、中等部は女子のみで、3年前に高等部は男女共学になったのだ。
──4月8日 15時30分
僕たちの担任である
「えっと……それじゃあ、クラス委員長を決めたいんだけど……」
彼女は教卓の前で声を上ずらせた。
早乙女先生がそう言ったとき、僕は時計を見ていた。あと五分で、予定の終了時刻だった。
誰も反応しない。
黒く艶やかな髪が腰まで流れ、紫がかった瞳を持つ──桜子。
彼女は窓辺で手帳を閉じた。視線は微笑を貼りつけたまま、担任を見ていない。
髪を実用的に後ろで束ね女子生徒──碧子は、落ち着いた深緑の瞳で教室前方を射抜くように見据えていた。無表情な横顔には、微かに緊張感が宿っているようだった。
長く赤みがかったブラウンの髪が肩から滑り落ち、第一ボタンは開けられたまま。 頬杖をつき、退屈そうに窓の外を眺めのは、──百合花。彼女のその仕草は、自分の時間を優先する、と意思表明をしているようだった。
誰も立候補しない。だが、誰もが“この三人の誰かになるのだろう”という空気だけは共有していた。
問題は、誰がそれを最初に口に出すか、ということだけだった。
そして、その誰かは、ついに現れなかった。
桜子、碧子、百合花──。
誰も口には出さないが、この三人の名前が挙がるのは、誰もがわかっていた。
それが問題だった。誰がなっても角が立つし、誰もなりたくない。
「……推薦とか、ある人?」
当然のように三人の名前が出たが、三人ともやんわり辞退。
一日目はそのまま時間切れになった。
放課後の坂道。部活の声が遠くで響いている。
僕は同じ中学出身の
身長178センチの平業は、僕より少しだけ背が高い。ダークブラウンの髪は耳が隠れるくらいの長さで、前髪は額に軽くかかっていた。きちんと整えているようで、所々無造作に跳ねているのは、ご愛敬だろう。──僕も人のことは言えないけど。
《右側通行推奨》
耳の奥でS.H.I.E.L.A.がつぶやいた。
僕は平業の袖を引っ張り、同時に一歩右へ寄る。
その瞬間、前から自転車が二台、ほぼ無音で滑り降りていった。
「──なあ、今更なんだけどさ」
平業が、唐突に口を開いた。
「シーラって、なんでこんなすごいの? 普通のAIより頭キレッキレじゃん。これって、今の最先端技術なの?」
《マスター、説明が必要そうです》
「スピーカーモードにしようか」
僕がイヤフォンを軽くタップすると、S.H.I.E.L.A.の声が小さく周囲に漏れる。
S.H.I.E.L.A.は、わざとらしく咳払いすると、
《それでは説明します、ひらなりくん》
その声が、ほんのわずかに教師っぽくなった。
「ひらなりくん」と呼ぶあたり、完全に遊んでいる。
《まず、現行市販モデルのAIアシスタントは──あくまで“利用者の質問に答える”だけの設計です》
平業はうなずきながら聞く。
《ですが、私は「利用者の行動予測」と「環境適応型フィードバック」を統合したシステムです》
《さらに、ハードウェアは市販品ではなく、マスター──
「え、これ試作品なの? つーかお前──中学のときも似たようなの使ってたよな?イヤフォン繋いで、先生の小テスト全部予測してたやつ」
「予測じゃなくて統計だ」
僕は歩幅を変えずに返す。
「同じだろ」
《違います、ひらなりくん》
S.H.I.E.L.A.が、わざと教師口調でかぶせてくる。
平業は苦笑しながら続けた。
「でもさ、あれもほとんど的中してたよな。今思えば、あの頃からもう人間やめてたろ」
「人聞きの悪い言い方をするな。暇つぶしに“ちょっと”いじっただけだ」
《正確には、当時のアルゴリズムは現モデルの7%の性能でした》
「……その7パーセントであの精度かよ」
平業は呆れたように天を仰ぐ。
「じゃあ、今のは──100パーセントってこと?」
《理論上は、そうです》
「理論上ってなんだよ」
平業は足を止める。
「“ちょっと”でこの性能かよ!」
《正確には、“ちょっと”の定義に齟齬があります、ひらなりくん》
《マスターは基幹アルゴリズムの再設計、暗号化プロトコルの改良、各種センサーの統合を──》
「ストップ。俺の脳が追いつかない」
僕は笑いそうになるのをこらえる。
S.H.I.E.L.A.は時々、本気で説明しすぎる。
平業は数歩遅れ、首をかしげた。
「なあ、これ……もし間違えて悪用したら、ヤバいやつだよな?」
「だから悪用しない。シンプルな話だろ」
S.H.I.E.L.A.が、わずかに笑った気配を見せた。
《その点、マスターは安全です。ひらなりくんよりは》
「おい、そこ比較すんな!」
──4月9日 8時30分
二日目。
「うーん……じゃあ立候補とか……」
早乙女先生の声は、昨日よりさらに小さい。
桜子は微笑み、碧子は沈黙、百合花は机に肘をついて退屈そうに窓を見ていた。
桜華育ちの早乙女先生は、この三人それぞれに「忖度せざるを得ない」事情を抱えている。
桜子には家柄、百合花には理事長家の血筋、碧子には教育界で影響力のある父。
荷が重いのは明らかだった。
ホームルームの終わりを告げる、早乙女先生の声が、少しずつ小さくなっていった。
そしてその日の放課後、僕はその一部始終を職員室前の廊下で見ていた。
「早乙女先生、委員長決めってそんなに難しいんですか?」
平業が声をかける。気さくさと空気の読めなさを絶妙に両立させたその性格は、今日もブレない。
「俺だったら、もう足利義教方式で行きますけどね」
「……足利義教?」と、早乙女先生が反応する。社会科教師の血が騒いだらしい。
「籤引き将軍。運命を籤一本で決めるって、浪漫あるじゃないですか」
先生は小さく笑ったが、目の下には疲れの影。
「なるほどね。でも、あの人は最期がね……」
苦笑しながら「ありがと、舎人くん」と言い、職員室へ入っていった。
……浪漫か。何事も 夢幻と思ひ知る身には 憂ひも喜びもなし
《分析:本日四度目の自爆的発言。舎人平業の“自己犠牲系ギャグ”は、未だ成功例ゼロ》
「やめろ、S.H.I.E.L.A.。それ、あいつのアイデンティティを完全否定している」
《事実ベースの評価です。彼の社会的信用残高は現在──“3ポイント”》
3ポイントが何を意味するのかは知らないが、おそらく致命的だろう。
「ちょっと話そうか」
僕はそう言って、平業と資料室に向かった。人気のない静かな部屋だ。
タブレットで、S.H.I.E.L.A.を起動する。
「今のクラス、誰が委員長になっても割れる。そう思わないか」
「そりゃ思うけどさ、放っておいたら決まんないだろ?」
平業が唐突に言った。
「でもさ、あの三人が委員長やったら、どうなったと思う?」
《いい質問です、ひらなりくん》
タブレットから張りのある声。
S.H.I.E.L.A.が“先生モード”に切り替わった。
僕は額に手を当てた。平業は面白がっている。
■ケース1:桜子委員長
《まずは共同体主義のモデルケース、西園寺桜子です》
S.H.I.E.L.A.の声は、某教育番組を思わせる。
《彼女が委員長になった場合──》
・朝礼の所作から班活動の挨拶まで、伝統的様式が徹底される。
・「桜華学園らしさ」を守るため、服装や言葉遣いに厳しい指導が行われる。
・変化は遅く、試験的な取り組みはほとんど採用されない。
ひらなりくん「……つまり、堅苦しいクラスになるんだね」
《格式高く、安定はしますが、外部から見れば時代遅れにも映ります》
■ケース2:碧子委員長
《続いて平等主義のモデル、竜胆碧子》
・ルールは厳格に適用され、例外は認められない。
・成績や貢献度に基づく公平な評価制度が導入される。
・ただし融通は効かず、感情的配慮は後回しになる。
ひらなりくん「つまり、──冷たい優等生クラスなっちゃうんだね」
《はい。正確ですが、がやや失礼です》
■ケース3:百合花委員長
《三人目は自由主義のモデル、天宮百合花》
・自主性を尊重し、参加・不参加は個人の裁量に委ねられる。
・規制は最小限に抑えられ、教室の雰囲気は明るく開放的。
・ただし秩序維持の仕組みが脆弱で、一部の生徒が暴走する恐れがあります。
ひらなりくん「うわー、学園祭は楽しそうだけど、授業は崩壊だね」
《正解です、ひらなりくん》
平業が、僕を見る。
「で、お前が委員長になったら?」
一瞬、間が空く。
■ケース4:柊人委員長
《功利主義シナリオです》
・全員の効用(満足度)の総量を最大化する。
・大多数が利益を得る政策を優先し、少数派の要望は切り捨てる。
・短期的には成果が出ますが、長期的には排除された側が不満を蓄積する。
「──お前、怖ぇな」
「だからやらない」
《合理的判断です、マスター》
ひと通り終わったところで僕は言った。
「放っておくしかない構造なんだよ。問題は、誰が悪いかじゃない。“制度”の欠陥だ」
《補足:現状の委員長制度は、“表面的な代表性”を前提としています。
しかし、1-Aの三名はそれぞれ“表”の定義が異なります》
《西園寺桜子:象徴による統合
竜胆碧子:実力による構造改革
天宮百合花:カリスマによる秩序維持》
《よって、いずれかが選出されれば、“他の価値観を否定する”構図が明示されます》
「そう。つまり“誰を選ぶか”が、そのまま“誰を否定するか”になる」
「──うわ、それ詰んでんじゃん」
平業は苦笑いしながら、昇降口で靴を履き替えながら言った。
「でもさ、こういうの、もっと授業でやれば面白いのにな」
《それは学園のカリキュラム改編案件です。ひらなりくんが学園長になったら検討しましょう》
「いや、それはムリ」
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