過労死して高校時代に戻った私、『人生計画』を破り捨てた

朧月 華

第1話 終点と始点

机の上の書類が、相沢夏希の視界で滲んでいった。深夜のオフィスには、パソコンのファン音と彼女の浅い呼吸だけが響いている。二十八歳、総合職——胃に刺さるような痛みが、三日前から消えない。過労死。それが彼女の人生の結論か。


「……っ」


デスクにうつ伏せになり、震える指で引き出しを開ける。常備している胃薬の瓶は、もう空だった。今日中に仕上げなければならない企画書が五つ。次の打ち合わせまであと三十分。時間が、常に足りない。


(ああ…もう、いいよ。こんな人生…)


意識が遠ざかる最後の瞬間、彼女は思った。次があるなら、もっと…自分らしく。カフェでぼんやり本を読む午後とか、友達と笑い合う時間とか、あの少年たちに宛てた手紙を実際に渡す勇気とか——全て「正しい人生」の名の下に切り捨ててきたものを、今頃になって懐かしむ自分が滑稽だ。


次の瞬間、樟脳の香りが鼻腔を突いた。ひときわ高い蝉の声。硬い木の椅子。黒板を擦るチョークの音。すべてが鮮烈すぎる。


「相沢さん?大丈夫?顔色が悪いよ」


隣の席の小林美桜が心配そうに覗き込む。彼女は無意識に自分の手を見た——しわのない、若い手だった。白いブラウスにグレーの制服ジャケット。十年ぶりに見るこの景色に、胸が締め付けられる。


「…え?」


「具合悪そうだな。保健室に行ったほうがいいんじゃない?」


美桜の声は、どこか遠く聞こえた。夏希はゆっくりと周囲を見渡す。落書きだらけの木製の机。窓の外には青い空と緑の校庭。そして、自分が二十八歳で死んだことを、はっきりと覚えている現実。


(これは…夢? それとも…)


「先生!」美桜が手を挙げた。「相沢さん、気分が悪そうなんです。保健室に連れて行ってもいいですか?」


担任の頷く顔が霞んで見える。美桜に支えられながら廊下を歩く。自分の足が、若くて軽い。呼吸が苦しくない。胃の痛みも消えている。


「ちょっと休めば元気出るよ」と美桜が笑う。「それにしても、夏希さんってほんとに頑張り屋さんだよね。いつも勉強してるし。でもたまには息抜きも必要だよ」


(頑張り屋…そうだ、私はずっと“完璧”を演じてきた)


保健室のベッドに横になり、天井を見つめる。高校時代の彼女は、優等生という仮面を完璧に着こなし、将来を約束されたレールの上をひたすら走り続けていた。あの四通の手紙は、そのレールからほんの少しはみ出した、危うい自分自身の証だった。


ポケットに触れる。そこには、二十八歳の彼女が常備していた胃薬がない。代わりに、一粒の檸檬キャンディが見つかった。包装紙は少し皺になっている。高校時代の彼女が、試験前の緊張を和らげるために常に持ち歩いていたものだ。


(戻ってきた…十年も過去に)


涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。戻ってきた。この体で、この時間で。もう一度、十八歳の夏希として。


「おやすみ」と美桜が声をかけてドアを閉める。


シーンと静まり返った保健室で、夏希はゆっくりと坐り上がる。窓の外では、生徒たちの笑い声が聞こえる。かつては「時間の無駄」と切り捨てていたそれらの雑音が、今は愛おしくてたまらない。


(次があるなら、もっと…自分らしく)


死の間際に思ったあの言葉が、胸の中で大きく響く。


今回は違う。二度目の人生だ。誰の期待にも応えず、誰にも演じず、ただ——自分自身のために生きる。


彼女はカバンから一冊のノートを取り出した。表紙には「人生計画」と書いてある。前世のものだ。中身は、全て他人の評価を基準にした、冷たい目標で埋め尽くされている。


「バカみたい」


彼女はそのノートを、きれいに二つに裂いた。そして白紙のページをめくり、新しいペンを取り出して、一番上に大きく書いた。


「ただ生きる」


その下に、小さく箇条書きを始める。


・笑うことを恐れない

・「わからない」と言える勇気を持つ

・あの四通の手紙を読み返す

・居場所を見つける


最後の項目を見つめながら、彼女はある場所を思い浮かべた。校舎の三階、誰も使わなくなったあの美術室。かつての彼女が、時折、一人で訪れては束の間の安らぎを得ていた場所。


ベッドから降り、窓辺に立つ。眩しいほどの陽光が校庭を照らしている。生徒たちの生き生きとした表情。すべてがまぶしく、そして貴重に思える。


(私は、死んだ。そして、生き返った)


この二度目のチャンスを、絶対に無駄にはしない。


鞄を背負い、保健室を出る。廊下ですれ違う生徒たちの声が、今は騒がしいだけの雑音ではなく、生命の鼓動のように感じられる。


階段を上り始める。三階へ。あの美術室へ。すべての始まりの場所へ。


ドアノブにはほこりが積もっている。そっと手を伸ばして——

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